2005年8月21日日曜日

少子化が選挙の争点にならないのはおかしい。



各党の政権公約を読んだのだけれど、少子化問題に関する具体的な記述はほとんど見あたらなかった。一体、彼らは何を考えているのだろう。そして、いつになったら少子化は政治の表側に出てくるのだろう。この段に及んで少子化が選挙の争点にならないのはおかしい。




このまま行けば、日本の人口は5000万人を下回る。
いや、「このまま行けば」などという前置きは要らないかもしれない。
これは予測などではなく、既成事実のようなものだ。
出生率が1.00を割り込むのも、もはや時間の問題だ。
終わっている。





「別に5000万人になってもいいじゃん」なんて能書きは通らない。
確かに人口6000万人の英国は十分にやっていけているし、人口4000万人の韓国、人口2000万人のオーストラリアなども国として成り立ちきちんと回っている。しかし日本に訪れる人口5000万人時代はそれらの国のようには回らない。

日本に訪れるのは、1人の労働者につき2.5人の高齢者と0.5人の子供が存在する時代だ。国力は低下し、権力は迷走し、市民は消耗し、全てがすり減り消えて行く。

それが我が国の未来だ。
やっていけると思う方が間違いである。




日本は日本列島に3億人が住める国土を建設してきた。
インフラを整え、あらゆる場所に道と箱を行き渡らせてきた。

それらは維持するだけでも大変な額が必要となるし、寿命が来たものを修理更新するのにも膨大な費用がかかる。人口5000万人の国に維持できるような規模のものではない。列島の隅々にまでばら撒かれてきた公共投資の全てが負担となり、国を縛る。


それら箱物を維持することを諦めて放置し捨てれば国全体が巨大な廃墟のピラミッドだ。山は荒れ、道は割れ、川は流れ、飛行機のいない空港は巨大なオブジェ。
それは即ち日本の消滅である。




5000万人時代の選挙というものは想像するだけでも絶望的な気分になる。
地方では急激な速度で人口減少が進み、とんでもない過疎県が生まれる。
そして、そのような過疎県からも政治家は選出され国政に出てくる。

一票の格差を受け入れて、地方へと金を流し続ける利権政治家を放置するのか、一票の格差を拒否して地方切り捨ての流れを作り、明確な地域間格差即ち機会の不平等を生み出すのか。

地域格差の広がる国はどこも漏れずに病んでいる。我が国もそのようになる。
離党に郵便局が無くなる、なんて話じゃなくて離県が端から滅んでゆく。




そうでなくても、人口の2/3が50歳以上になった時どんな政治家が選出されるかを想像するのは容易いことだ。何も進まなくなる。選挙を動かすのは脳天気なネットのブロガーの熱気などではなく、票田をピンポインドで揺さぶることの出来る公約であり演説であり政策だ。


そうなると、もはや取り返しはつかない。
小泉が郵政民営化に辿り着くまでに5年もかかっている。人口5000万人時代において噴出するありとあらゆる問題の1つ1つに5年あるいは10年の歳月が必要となる。その度にマドンナ旋風やら牛歩戦術のようなことが起こっていては全てが悪く傾く。




しかも噴出するであろう幾多の問題の大本は全て「人口減少」であるからして、どのような対処療法を持ってしても満足の行く結果はもたらされない。仮に、今年から出生率が2.00に回復した所で、国力に対する明確な効果が出るのは30年先の事だろう。

問題が目に見える形で浮上してからでは全てが手遅れなのである。
改革だとか景気だとかいった類の解法ではどうにもならないのだ。




国力が無くなり日本の地位が低下する。
非常任理事国は真の非常任理事国となる。
三流国へと落ちぶれて、何の発言力も無くなる。




そして我が国において人口減少を食い止める手段は出生率の改善以外に存在しない。移民を受け入れるという選択肢はないのだ。

日本に中国移民やメキシコ移民やモロッコ移民やトルコ移民を受け入れる事の出来る土壌があるとはとてもじゃないけれど考えられない。それで日本を維持出来るのならばそうするべきだが、そういうわけにはいかないだろう。

出生率への働きかけ以外に手はないのだ。




少子化問題が真に問題であるのは、敗者無き亡国への道であるからだ。

「産んだら負け」
と思っている人が産まない。
それは満足であり希望の叶いだ。

「子供のいない俺は勝ち組」
と思っている人が産ませない。
それは満足であり希望の叶いだ。


人々の希望が叶い称しかが進み国が痩せる。
人々は子供のいない生活に満足して国が滅びる。




政治は少子化という敗者無き亡国への道と闘う為に立ち上がるべきだ。今すぐに。