2005年8月10日水曜日

断じて僕は祈らない。



うそつき。
うそつきがいる。
うそでうそを塗り固めてブログを書き続けているやつだ。
そのようなものを目にすると頭蓋が破裂しそうになる。
「見なければよい」という発想自体は素晴らしい。
問題はそれが実現可能であるかどうかだ。

不可能だろう。
何故ならば、世界は嘘で満ちている。










その嘘の、最たるものは宗教だ。
全ての宗教は恒久的な嘘を内包している。


嘘を信じ込ませて脳みそをパッパラパー化し、金を稼ぐ。
自分と他人を馬鹿化する事を生業とするのが宗徒というものである。


嘘を信じ込むことによって人は悩みや苦しみから解放される。
それは、信心という馬鹿化の果てに、現実を理解出来ない所まで脳腐した結果である。宗教だとか自己啓発といったパッパラパー商法により、悩みや苦しみが消滅する事は無いし、幸せになる事も無い。


「事実を正しく認識できなくなる」
それだけの事だ。








問題は、宗教を信じるという行為以外にも「事実を正しく認識できなくなる」という効能がある事柄がこの世の中には散在しているという事なのだが、その話は置いておこう。少なくとも今はする必要がない。










祈りとはそれ即ち宗教行為だ。
神に祈る、仏に祈る、嘘に基づき嘘祈る。ちゃんちゃらおかしい。




無事を祈る、成功を祈る、幸せを祈る。
それら全ても意味がない。

祈りが物事を変化させる事などありえないからだ。
祈りがもたらす唯一の変化は脳みそパッパラパー化現象だけだ。




鎮魂、冥福、安らかに眠れ。
それら全てもまたおかしい。

生き物は死ねば死ぬだけであり、魂もなければ鎮めるも無い。
当然にして冥土などというものは無く、冥土の幸福もありえない。
死は眠りなどではなく、死者即ち消滅したものに安らぎなど存在しない。
まったくもって馬鹿げた話だ。







人は何故祈るのかという問いに対する答えは明瞭にして簡潔。
脳みそパッパラパーだからだ。心の髄まで腐っているからだ。


祈りとは、明らかな嘘に基づき快楽を貪り喰う行為である。
セルフヒーリングの為に他者や嘘を都合良く利用する行為だ。


完全無欠な欺瞞の愚だ。
よって、僕は、祈らない。













けれども、祈る側と祈らない側のどちらに欠陥があるかとなると話は別であろう。些細な嘘を嘘として、明確で巨大な嘘を信じることこそが正しく完全なものなのかもしれない。

けれども、そんな事は知ったこっちゃない。
即ち僕は祈らない。