2005年8月8日月曜日
For A TUMIKI Fighter(1)
アバゲームスを知ってるかい?
「知ってる」って人には説明不要である。当然だ。
「知らない」って人にも説明不要である。当然だ。
アバゲームスに行き、適当に気に入ったゲームをダウンロードしてプレイすればアバゲームスとは何かが解る。アバゲームスを言葉で説明しようなどということは、まったくもって無意味な沙汰なのだ。ゲームの前では文章など無力だ。
BulletML三部作。
それは、ABAの代表作だ。
noiz2saという1つの伝説的名作を含む、偉大なゲーム群だ。
スクリーンショットを見れば、アバさんがどういうものなのかは大体解ると思う。
アバさんはクールだ!
ものすごくクールだ!
アバさんかっこいい!
とてもハイセンスだ!
世間のイメージもだいたいそんな感じだ。
未来的、だとか抽象的、だとかとにかくかっこいい感じだ。
けれども、それらはアバさんの実像からはかけ離れたイメージなのである。
本当のアバは毒々しいのだ。
ものすごくぎとぎとしてるげてものなのだ。
ほんとうのアバ。
それは、初期のアバゲームスに目を向ければ見えてくるのである。
noiz2saよりも遙か昔に作られた「まさしくんハイ!」こそが正しくアバだ。
「まさしくんハイ!」は5つのミニゲームによって構成されている。
・かけぬけろどうげんざか
常識では考えられない坂道を疾走する痛快駆け抜け競技。
・すーぱーとびばこ
とんでもない高さのとびばこに挑戦する、チャレンジング体育競技。
・おおおかさばき
実の親からいかに短時間で子どもが奪えるかを競う、非人道的綱引き競技。
・ひとなげ
ひとをどれだけ遠くにほおることができるかを競う、人でなし投てき競技。
・ぎゃぐふぁいあー
燃え盛る高層ビルからどれだけ遠くに脱出できるかを競う、向こう見ず的跳やく競技。
アバとはハイセンスじゃなくてナンセンスである。
coolとかかっこいいとかそういうの全部嘘なのだ。ABAのBはバカのBだ。
ゲーム中には、「あすをみすえろ」「さらなるたかみ」「むだなどりょく」「げんかいをこえろ」「むげんじごく」「きろくそれはかんけいない」「それなりに」「あしたにむかって」という実に青臭いメッセージが場面場面で印象的に表示され、ゲーム中のキャラクターは「たすけてー」「やめてー」などと叫び、また時として「さいきょー」「ひゃっほー」といったように、思いのたがを爆発させる。
「まさしくんハイ!」とは、BulletML三部作によって広く大衆に滲透したABA GAMESのイメージとはかけ離れた、実に血生臭いミニゲーム集なのだ。これらは、「アバでなければならない」という必然性を持っている。即ち、これこそがアバだ。
「実の親からいかに短時間で子どもが奪えるかを競う、非人道的綱引き競技」
などというミニゲームを作り平然と世に送り出す事が出来る人間が他にいようか。いや、いまい。アバをおいて他にいまい。そのギトギトしさこそが、ABAの本性であり不世出性なのである。
まさしくんハイに続く「硯」も実にアバアバしいゲームである。
プレイヤーは赤い一本の横線となり、右へ右へと進んでゆく。
「石」「岩」「山」といったものが障害物として立ちはだかり、プレイヤーの行く手を阻む。それら天然物の障害物の次に登場するのが「数字」という障害物である。その先には、「横線」(プレイヤー自身、あるいは先行他者)が障害物として立ちはだかり、最後には「人」が群れを成して行く手を阻む。
実に血生臭い。
「硯」においてプレイヤーが作り出すものは人生の横線グラフである。「小石如きに躓く無かれ」「山あれば谷あり」「急がなければ間に合わない」といった氏の人生観が全力で語られた後、本当に立ちはだかるものは「数字」「ライバル」「人」という1つの黄昏が描き出されている。
物凄く血生臭い。
ところが、である。
ABA GAMESの代表作であるBulletML三部作において、アバは微塵も感じられない。
BulletML三部作とは、アバ不在のABA GAMESなのである。
ABAはどうしてアバを失ってしまったのか。
ABAからアバを奪い去ってしまったものとは一体何なのだろう。
弾幕!
それは、弾幕だ。
ABAからほんとうのアバを奪い去ったのは弾幕という魔物なのである。
弾幕という魔物に取り付かれたアバはそのBulletMLな狂気の中で三部作を完成させたのだ。BulletML三部作は、その全てがまったくもって無アバである。
BulletMLという技術への情熱が具現化した姿であってアバでは無い。
弾の方へ弾の方へと突っ走り、あっちの世界に逝っちゃったのだ。
noiz2saはまだ良いのである。
何故ならば、名作ゲームだからだ。
しかし、あとの2作はまったくもって悪い。
noiz2saから流用されたなんの統一感も無い機体。
既存の市販STGからまんま引っ張ってきたシステム。
乱数が作り出すランダムで覚えも回避も不可能な弾幕。
自機のスピードを速くするという安直なランダムの対処法。
運が悪ければ即死確定で、運が良ければ最終面すら簡単クリアな難易度。
BulletML三部作はゲームなどではない。ゴミである。
弾幕が生成された際に出たゴミである。
即ち弾幕廃棄物だ。
アバはゲームを作る為にBulletMLを作り、BulletMLを使う為にゲームを作った。
つまりBulletML三部作とはゲームの為のゲームである。
「ゲームを作る」それ以外の目的は完全に喪失しているのである。まさしくんハイ!や硯にあったような、アバがアバたる為のツールとしてのゲームは完全に消失してしまったのだ。即ちアバはアバを失ってしまったのだ。
だが、しかし!
アバはそのようなもので満足するようなアバではなかった。
ABAはアバを取り戻す旅に出た。
そうして出来上がったのがTUMIKI Fightersである。
そう、TUMIKI Fightersこそがアバ論の鍵なのだ。
TUMIKIはBulletMLとしてのアバゲームスから見れば、かなりの異色作である。
三部作とは何から何まで違っている。
BulletML三部作は、乱数様のゲームであった。
乱数が敵を作り、乱数が弾幕を生んだ。
けれどもTUMIKIはアバ様のゲームである。
アバが敵を作り、アバが弾幕を生んだ。
BulletML三部作のBGMは、ループ様の音楽だった。
ループがテンポを刻み、ループがメロディーを奏でた。
けれどもTUMIKIのBGMはアバ様の音楽である。
アバがテンポを刻み、アバがメロディーを奏でた。
BulletML三部作において目的は遊び続ける事だった。
けれども、TUMIKIには遊びに終わりが用意されている。
「かけぬけろどうげんざか」と同じように、ゴールエンディングがあるのだ。
つまり、TUMIKIは違うのである。
アバは蘇ったのだ。
不死鳥の如く。
ゲーム開始直後に目に飛び込んでくるメッセージ。
それが「We Are TUMIKI Fighters!」である。
「我々は積み木の戦士だ!」
"私は"ではなく、我々。即ち、みんな。
TUMIKIのゲーム画面を目にするプレイヤー全員。
つまり「We Are TUMIKI Fighters!」とは、ゲームのプレイヤーというものは無意味なものを積み上げては崩し、無意味なものを積み上げては崩し続ける愚かで儚い戦士達であるというアバメッセージだ。
ゲームで得られるものなんて何もない。
ゲームをプレイしても何も残らないぜ。
という、極限まで自虐的な殺伐アバだ。
「TUMIKI」という表題に込められた「ゲームとは積み木みたいなものだ」というアバのアバメッセージは、ゲーム開始後たったの5秒で完結しているんだ。ある意味では、それ以降の部分は蛇足と言っても過言ではない。
「ウィーアー」という出オチである。
TUMIKIに登場するキャラクターは全て「積み木」であり、プレイヤーが操る自機も、行く手に立ちはだかる敵も、同じ積み木の戦士である。
全て、人間。
TUMIKI Fightersとは人間を全力で描いたシューティングゲームなのだ。
「We Are TUMIKI Fighters!」はゲーム内部では別の意味を持つ。
自機も敵機もまったく同じ"我々"、即ち同じ人間であるということを明示的に指し示しているのである。TUMIKI Fightersには、普通のSTGにあるような「良い私vs悪い敵」という対立の構造は無い。
TUMIKI Fightersは「悪」の存在しないシューティングゲームなのである。
「悪」としての倒すべき敵は存在しないのである。プレイヤーに立ち向かってくる敵はなんらかの事情により対立しているだけであり、善悪という構図はまったくない。
「悪を倒せば解決する」というゲーム的な答えを完全に否定してるのである。
現実はそんな甘いものじゃない。
人生はゲームのようには行かない。
どれだけ憎悪しても、「倒して解決」という選択肢は存在しないのである。
そして、言うまでもなく「戦う動機」も曖昧模糊としている。
「敵対関係にある。故に戦う。」それ以外の理由は語られていない。
人生において気に入らないものを倒して解決するという生き方は存在しない。
「立ち向かう悪の存在しない世界としての人生をどのように生きるべきなのか?」
それが、TUMIKIの問いであり、TUMIKIの語る所であり、TUMIKIの答えるものなのだ。
TUMIKIとは、人生シューティングである。
アバが喋った!
これは、BulletML三部作のクールでテクノなアバを知る人には衝撃的なシーンである。
なにせ、アバが喋ったのである。
「かけぬけろどうげんざか」のように。
つまり、アバは還ってきたのだ。TUMIKIとは、アバの帰還である。
「キャッチミー」即ち「私を捕まえて!ねえ!」。
凄いね。
アバだね。
直前まではプレイヤーに対して弾を放ち猛烈な攻撃を仕掛けてきていた敵が「私を捕まえて!お願い!」と呼びかけながら手をさしのべてすり寄ってくる。究極のツンデレだ。
ツンデレシュー!
TUMIKI Fightersとはツンデレシューなのである。
「キャッチミー」の意味するところは単純にして明快である。
人は皆孤独な存在であり、誰かを求めてさまよい歩くオンリーロンリー。本当は手を繋いで歩いて行きたくてもうまくは行かず、立場や互いの背負うもの、あるいは歩んできた道によって、傷つけあわなければならない事もある。
それでも、誰もが、心の中で、「キャッチミー!」
せつないね。
せつないというか、アバさん語りまくりだね。ノりにノってるね。
まったく語ることの出来なかったBulletML三部作で溜まりに溜まってたんだろう。ゲーム開始からたったの10秒でこれだけ語りに語ったゲーム制作者が他にいたであろうか?いや、いまい。これぞまさしくアバイズオンリーである。
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その2/ALL