2005年8月8日月曜日

For A TUMIKI Fighter(3)



「繋がりは維持出来ないものなのだよ」というアバ語りにおいて

1,巨大になれば自分を見失う。故に維持できない。
2,巨大になれば敵の攻撃が激しくなる。故に維持できない。

という2つの理由が示されてきた。









そして、もう1つの理由。
それが、「ステージ間の断絶」である。


1ステージで獲得した繋がりは2ステージでは完全に初期化され、何一つ残らない。
どれだけ巨大で素晴らしい繋がりを作り上げても、違うステージでは使えない。





新たな局面において過去に手に入れた既存の繋がりはまったくもって何の役にも立たず、頼れるものは自分だけなのだ。


プレイヤーがその局面局面で繋がりを利用していたのと同じように、繋がっていた人達も局面に応じてプレイヤーを使い捨てていたに過ぎず、別の場所まではついてきてくれない。

「また新たなる繋がりをはやく見つけて、使い捨てながら走り続けろ!」
殺伐だねえ、アバだねえ。これは、もう、ふしだらだ。
TUMIKI Fightersとはセックス依存症の女シューティングだ。18禁だ。泣きそうだ。











ところがどっこい!
ところがどっこい、である。


アバは"ある部分においては"繋がりを全肯定している。
それは、どこか。そして、なにか。








TUMIKI Fightersにおいて、繋がりは何を生むのか。
それは、スコアだ。
スコアだ。
明示化された利益だ。
繋がっているだけで儲かるのだ。

「孤独に生きる事は損である」とアバは言っておるのである。
これはもう、真性引き篭もりに喧嘩売ってるとしか思えないね。



「繋がって、繋がって、繋がれるだけ繋がって、甘い汁を吸いまくれ!」
繋がりから利益を吸い取って残機を増やし(自己資本を増やし)、一頻り吸ったら使い捨てろ。僕みたいな純情少年的にはダークすぎてドン引きなアバメッセージだ。


そしてそれは同時に、甘い汁を吸えるだけ吸ったらきっちり捨てて行かないと、繋がりは負担になり、人を縛り付けるだけだと述べているのである。




つまり、都合が良い時だけ繋がり、都合が悪くなったら見捨てろ。
他人なんて暇つぶしの道具に過ぎない、信じるんじゃない。
利用するだけ利用して捨てちまえ。


あばば・・・あばばばば。


都合が良い時だけ繋がり、都合が悪くなったら見捨てろ。
他人なんて暇つぶしの道具に過ぎない、信じるんじゃない。
利用するだけ利用して捨てちまえ。
アバインザダーク。








http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/ag_4bosSINI.jpeg
合計5秒で死んでゆく4ボス。
(注:ゲーム後半部については子細まで書かない)



4ボス。
それはTUMIKI Fightersの1つの山である。




4ボス第三形態はどうして"あのような攻撃"をする事が出来るのか。
4ボス第四形態はどうして"あのような攻撃"を出来なくなってしまったのか。

そしてそれはイコール「貴方自身が」という話でもある。




そして、4ボス第三形態は繋がりを利用すれば瞬殺が可能だ。
アバは4ボスというゲーム最大の山場において、「繋がりの明確な肯定」をしているのである。4面後半で語られているのは1人で生きる事の辛さと、他の誰かと共に生きることの幸せさだ。「苦しい時はためらわずに繋がりを求めていいんだよ!」というアバメッセージだ。黙れ小僧。







4ボスを瞬殺出来る者は、どうして"あのような攻撃"をする事が出来たのか。
4ボスを瞬殺出来る者は、どうして"あのような攻撃"が出来なかったのか。

そしてそれはイコール「貴方自身が」という話でもある。


これは物凄く重要な話である。
人が力を「発揮できる/発揮できない」を分けるのは何か。
その辺りは、是非実際にプレイして確かめていただきたい。







4面。それは繋がりの全肯定とでもいうべきバランスに仕上げられている。

繋がる事を恐れるな!
苦しい時は人を頼れ!
1人で生きる必要なんて無いよ!
ABAが用意した1つの救いである。




ところが、最終面である5面では繋がりは全否定されている。
逆に繋がりがあればあるほど苦しい世界。

これは正しく「繋がりは足手まとい」「繋がりとは利用しあう事」「本当に大事な時に頼れるのは自分だけ」最終面でアバはそう言ってのけているのである。持ち上げといて落とす。持ち上げといて落とす。鬼だ。言い換えるならば、アバによるアバの為の孤独推奨ゲームだ。

提示されているのは残酷にして冷酷、割り切りきられた人生観である。









http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/ag_sucore0.jpeg
実は、そう、実は。
1ボスを殺さずに済む方法がある。




それは、誰とも繋がらないという選択肢だ。
TUMIKI Fightersにおいて繋がるに為には、相手を傷つけなければならない。
誰かと繋がるという事は、誰かを傷つけるという事であるという、宣言である。




「傷つけたくないのならば、繋がるなかれ」
それは即ち真性引き篭もりの的生き方、あるいはメンタリティの容認だ。
引き篭もって逃げてばかりおれば、誰も傷つける事なく生きられるという回答だ。




その、「誰も傷つけずに生きる」という選択しをゲーム内部で用意しておきながら、その選択を選んだプレイヤーのスコアは0だ。永遠に0だ。
「その生き方、その選択には何の価値も無い」と全否定だ。
さらに、難易度によって「その生き方は不可能。選択枝たりえない」と重ねて全否定。




鬼だね。
悪魔だね。
恐ろしい男だね。
アバじゃ!アバの仕業じゃ!
これはもう、真性引き篭もりに喧嘩売ってるとしか思えないね。
喧嘩は売った方が悪いって誰かが言ってたから、悪いのはアバだね。









http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/ag_herecoming.jpeg
TUMIKIではボスが登場する度に「Here coming giganteci toy」というメッセージが表示される。

http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/ag_herecoming2.jpeg
ここで、上のスクリーンショットをもう一度見ていただきたい。
いったい、どちらが「ギガンティックトイ」に見えるだろうか。


「巨悪と対峙し倒そうとするものは、気がつかない間に繋がりに飲み込まれ巨悪と化す」というアバメッセージだ。人は何かを追い求めて努力し歩み続けた結果、巨大なオモチャとして知らない誰かに消費され、使い捨てられる。そして、孤独な死を迎える。


ブロガーへの、鎮魂歌fromアバ。
それが、TUMIKI Fighters。












「ヒア、カミング、ギガンティック、トイ」
(ここに、巨大なオモチャが来ます!)


それはメタファーである。
オモチャとは即ちゲーム。
"ここ"とは即ちアバゲームス。
「アバゲームスに巨大なゲームが来ます!」という話なのである。


「お前らは俺が製作したゲームを"巨大なオモチャ"として消費している。」
しかし俺にとってはお前らは存在そのものが"巨大なオモチャ"なんだよ。


アバ逆ギレ。アバつんつんしすぎ。
アバこええ。アバカルシウム不足。









最終面で示される「ジャンクシティセントラル」という言葉の意味。

ガラクタの街の中心。
それは一体、どこであろうか。
問うまでもない、愚問である。


即ち。がらくた置き場としてのアバゲームスの中心で「私はオモチャではない。私は人間だぞ!」とアバは叫んでいるのである。「いえいえ~、ガラクタですよ~」と謙遜しながら「お前らオモチャ」とプレイヤーに喧嘩を売り、同時に「私は人間だぞ!」と赤面宣言してしまう。

これぞ、アバ技。離れ業。








http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/ag_WeAreTUMIKI.jpeg
アバは滅多な事では「我々」という単語を使わない人間である。軽々しく「我々」などとぬかすのは、真性引き篭もりhankakueisuuのような薄汚れたアジテーターだけだ。


言うまでもなく、アバはそのような人間ではない。
即ち、アバが言う「我々」という単語には特別な意味がある。
そして、アバの日誌を読んでいる人間ならばわかる、「我々」という単語の持つ意味。それは、ベーマガ読者だ。より正確に言うと「ゲーム制作者としてのベーマガ読者」だ。より簡単に言うと「ゲーム制作者」である。




そう。TUMIKI Fightersとはゲーム制作者に向けられたアバメッセージである。

ゲーム制作者はプレイヤー達にとって巨大なオモチャでしかない。
ゲーム制作者は常に孤独だ。
ゲーム制作者が頼れるのは自分自身の力だけだ。
戦え我々!戦い続けろ我々!走り続けろ我々!
TUMIKI Fightersとは、全てのフリーゲーム制作者に捧げられたゲームだ。
アバからアバへの悲しく切ない愛の歌だ。






BulletML三部作においてのアバとは、無数の欠陥を持つゲーム制作者だった。
出来上がったゲームシステムにオリジナリティなどまったく無かった。
乱数と弾幕で世界は構築されてしまっており、アバの言葉は存在しない。
アバがまだ未熟であった頃のまさしくんハイ!には存在していた言葉の喪失。


そして、BulletML三部作には言葉としての音楽が存在しない。
noiz2saのBGMは、noiz2をexeゲーム化するに辺りでっちあげられたものだ。非人間的な組み合わせにbgm1、bgm2、bgm3と識別番号が割り振られただけの曲が無機質に、zipファイルに詰め込まれていた。それは、「BGM」を作る為に作られたループの組み合わせだ。


同人STGの極北たる上海アリス幻樂団のBGMに見られるような言葉の為の音楽、語られるものの為の音楽というものは存在しないのである。超連射68に存在したような生麦生米かえるぴょこぴょこセクシャルバイオレットソウルトレイン姉三六角リーチ一発といった言葉としてのBGMは存在しないのである。


そのSTGBGMしか作れなかったアバが、始めてループの組み合わせではないゲームの為の言葉の組み合わせとしての音楽を作り上げ送付したのがTUMIKI Fightersである。
TUMIKI Fightersとは、1大ジャンルと化している東方への挑戦状である。








TUMIKI Fightersとはアバゲームスの否定であり、BulletML三部作の否定だ。
それは即ちBulletML三部作フォロワーなゲーム制作者の否定である。
熱心なファンに喧嘩を売っているという事だ。

アバは言った。
「お前らに語る言葉は無いのか?」

アバは言った。
「技術力による思い出の再生産もいいけど、それだけでいいのか?」

アバは言った。
「ゲームを作るためにゲームを作ったって疲れるだけじゃねーのか?」

1無関係者としては、BulletML三部作を作っといてよく言うよ、って感じではある。









ただし、アバは明確な救いを用意している。

TUMIKI Fightersにおいて語られるメッセージは、ゲームシステムに完全に組み込まれている。間違いなくそれは、まさしくんハイ!の時点のアバには成し遂げられなかった事だ。

アバは技術力によって、アバからアバへ進化したのである。
技術礼賛であり「走り続けろ」のメッセージだ。
走り続けたからこそTUMIKI Fightersは成ったのだ。

「走れ」というのは、かけぬけろどうげんざかから語り続けられているアバメッセージだ。アバとは即ちRUNであり、フォレストガンプを超えたものがアバゲームスなのである。


"我々"、即ちゲーム制作者よ、走れ。とりあえず走れ。
それがTUMIKI Fightersの言う所である。









さて、そろそろ終わりである。

インターネット上のTUMIKI評を読んでいると、世の中にはこれだけわかりやすいゲームさえ「読めない」人がいるのかと実に驚かされる。まったくゲームに対する姿勢がなっていない。そういう奴らはゲームなんてとっととほっぽりだして大人しく神奈川県知事のブログでも荒らしてるのがお似合いである。まあ、これらTUMIKI Fightersに関する話を妄想狂いのヨタ話だと思うかどうかはあなた方の自由だ。

正直な所、僕もよくわからない。わかる必要も無い。人の数だけ真がある。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。






とりあえず僕が言えるのは「エンディグを見ろ」って事くらいのものだ。


アバは、TUMIKI Fightersのエンディングにおいて、大どんでん返しをやらかしている。言うならばこれは正しく、エンディングの為に作られたゲームである。


それが、アバの答えだ。
エンディングが答えだ。
エンディングで全ての事柄への回答が明示されているのである。


そのABAの回答どう受け取るかは人それぞれだろう。
救いであると感じるか、希望であると感じるか、あるいは絶望であると感じるか。


是非とも、各人個人の目と指で確かめて頂きたい。10分少々でクリアできる短く簡単なゲームなので、さくっとクリアして、さくっとエンディングを見て、確かめて頂きたい。アバの答えを。










http://sinseihikikomori.on.pc1.jp/ag_gunror.jpeg
最後に、アバの「それから」に少し触れて、筆を置こうと思う。


TUMIKI Fightersに続いてリリースされたTorus Trooperは、正しく「かけぬけろどうげんざか!」のリメイクである。アバはTUMIKI Fighteresを経て、RUNとしてのアバを取り戻し、どうげんざかへと回帰したのである。


技術力は変わっても語るものは同じ。
フリーゲームにおいて結局最後にものを言うのは人間力。
「何を作れるのか」ではなくて「何を語れるのか」
「何を作るのか」ではなくて「何を語るのか」

アバはアバだよ!というアバのアバ宣言である。






最新作Gunroarにおいてアバは分裂した。

「走る」を行使してプロトタイプを完成させた。
「言葉」を行使してダブルモードを完成させた。
「ゲーム」を行使して全方向射撃モードを完成させた。


注目すべきは、「言葉」であるダブルモードだ。
ゲームとしては完全に意味不明なこのモードでは一体なにが語られているのか。





それは、愛だ。
愛である。

画面上には2つの機体と、その2人の間の「愛」が可視化されている。
そして、2人の距離が離れれば離れる程に愛は熾烈さを極めるのである。


「愛に距離など関係無い!」
って話をアバさんはしているんだ。

「離れれば離れる程に思う心は強くなる」
って話をアバさんはしているんだ。




さらに。
2つの機体が密着し、2人の距離が0になれば、一切の攻撃が停止する。


「触れ合った2人にはもはや言葉などいらない!」
って話をアバさんはしているんだ。

「2人が重なれば完全な世界が完成する!」
って話をアバさんはしているんだ。




人類の歴史上、シューティングゲームという表現形式においてこれ程までに暑苦しく愛を語った男がアバをおいて他に誰もいない前人未踏愛だ。言うならば21世紀とはアバの世紀であり愛の世紀だ。アバゲームスとは愛だ。即ちアバとは愛である。つまり1997年2月の25日、アバゲームスの誕生をもって「愛は完成した」と言えるのである。





もはや、アバはアバである。
レジェントオブアバであり、アバティファクトだ。


つまり、シューターと呼ばれる人達にとってこの世界は「アバゲームスが存在する」というその1点を持ってして生きてゆく価値がある世界である。

つまり、シューターと呼ばれる人達にとって2005年という時代は「アバゲームスが存在する」というその1点を持ってして、生まれてきて良かったと思える時代なのである。



真性引き篭もりhankakukeisuuとしては、氏には是非ともこの先3四半世紀に渡りアバゲームを作り続けて頂きたいと思ったり思わなかったりするところ。







つまり。
即ち。

日本の夏。アバの夏。
let's ABA GAMES!!
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