2005年9月3日土曜日

なぜ故に知は賞賛され、無知は蔑まれるのか。



なぜ故に知は賞賛され、無知は蔑まれるのか。
なぜ故に強さは称えられ、弱さは笑われるのか。
なぜ故に美しさは賛美され、醜さは罵られるのか。


そのような些細な事柄は、今差し迫った問題ではない。
一番の問題、いや全宇宙に存在する唯一の問題であるのは、僕の無限にして全知全能なる知であり、僕の無敵にして天下無双の強さであり、僕の無為に備わった見る者全てを恍惚とさせるこの凛々と輝く美貌、ぼたん、かきつばた。





そうだ。
問題は、それだ。





僕はどうしてこれ程までに知的で、これ程までに強く、これほどまでに美しいのか。


あまりにも、あまりにも絶対なる知だ。
人々はそれをやっかみ僕を叩く。
まったく、全て愚民の嫉妬だ。


あまりにも、あまりにも絶対なる力だ。
人々はそれをやっかみ僕を叩く。
まったく、全て愚民の嫉妬だ。


あまりにも、あまりにも絶対なる美だ。
人々はそれをやっかみ僕を叩く。
まったく、全て愚民の嫉妬だ。







ああ、僕はなんて可哀相なのだろう。
この知故に僕は孤独であり、この力故に僕は孤独であり、この美故に私は孤独だ。




僕が少し本気になれば、ゲームなんてやめて、インターネットなんてやめて、ブログなんてほっぽりだして、全宇宙を知と力と美貌に根ざした色仕掛けによって制圧統一永久恒久に支配し続ける事など容易い。




しかし、それをしたところで何になるってんだ。
何も変わらない。
どうせ孤独だ。


だから僕は何もしない。
わかるまい、わかるまい。
わかるまい、馬鹿で弱く醜いおまえら愚民共には。













なぜ故に知は賞賛され、無知は蔑まれるのか。
それは1つの正当な疑問である。







知は常に素晴らしいものであるとされている。
対して無知は常に愚かさであるとされている。


なぜなのであろうか。







知によって人類は幸福になり、知に基づき我々の生活は成り立っている。
故に知を賞賛するのが人間の義務であるかのように宣伝されている。


しかし、それは本当に実体のあるものなのであろうか。







知は何を生み出すのか。
一言で言うならば力だ。


力は何を生み出すのか。
一言で言うならば富だ。


富は何を生み出すのか。
一言で言うならば格差であり、不平等である。







その格差不平等というものを幸福であるとするにはかなりの無理がある。
カラシニコフは知によって、完成された銃であるAK 47を生み出した。
AK 47という完成された偉大なる知は、安価な力を世界中に広めた。
そして、その力が生み出したものは何であるか。


改めて書くまでもない。
流血の惨事だ。







知は常に、あらゆる場所で賞賛されるわけではない。
知を賞賛しない人間も僅かながらではあるが、存在する。


例えば裾の広がった長ズボンを掃いてコンビニの駐車場に原チャを停めてしゃがみ込み、たばこをふかして大声でワッハッハと下品に笑うような人達。彼らは知を求めるという生き方を「くだらないもの」であるとし、逆に所謂DQN的な振る舞い生き方こそが崇高にして素晴らしいものであるとする。


彼らはどうして知を見下して馬鹿にし、「無価値である」と定義するのか。それは、彼らが「知」という土俵に登り勝負する力を持たない軟弱な精神と無能さを合わせ持つ弱者だからである。


「知」という土俵に上がらずにそれを否定していれば、彼らは負ける事などない。
彼らは「勝ちたい」が故に知を馬鹿にし、否定するのである。







AK-47の例を持ち出すのはフェアではないかもしれない。


カラシニコフ銃は明確に人を殺すために作られた武器だ。軍隊を「人を守るための機関」とし、兵器を「人を守るための道具」とする説には、諸手を挙げて賛同することは出来ない。それらは、破壊に対抗する為の破壊であり、知の対極にある暴力というものに対抗する為の知の対極であるからだ。







公正に、武器ではない知によって生み出されたものを1つ例に出す。


2005年という今、人間は空を飛ぶ。
とはいっても、飛ばない人間もいる。例えば真性引き篭もりのような人間はその一生を空を飛ぶ事などなく、あるいはもはや見上げることすらなく地を這い蹲って死ぬのだ。


紅の豚の台詞を借りるならば、飛ばない人はただの人であるのだ。
言い換えるならば僕はただの人なのだろう。
では、空飛ぶ人は何なのだ。
スーパーマンにでもなったつもりか。








飛行機。
それは発明された。


ライト兄弟のウィル・ライトが1903年に人類で初めてBungelingBayを飛んでから一世紀の後。2機の巨大な飛行機がビルディングに突っ込んだ。何故か。





知だ。
それは、知だ。


知が飛行機を生み、知が宗教を生んだ。
飛行機とは即ち知であり、宗教とは即ち知だ。







かりにライト兄弟が存在していなかっとしても、かりにイエスキリストが存在していなかったとしても、人間が知を持つ生き物である限り、知による力の血の惨事は繰り返される。







人々は当然のように知を賞賛する。
それが文明人の義務であるかのように。


けれども、「知による恩恵を受けている国の国民」である日本人が知を賞賛するという行為は、己の得、己の利益、己に都合の良い事を賞賛し、己を正当化しているに過ぎないのではないかろうか。







そうだ。
いつだってそうだ。


人間は己の都合によりものの善し悪しを決める。
都合のよい事を信じ主張し行い振る舞う事により己を正当化し、
己の信じる都合のよい事を否定するものを罵り蔑み笑うのだ。







いい例がある。
その前に、僕の立場の表明だ。







「議論とは知だ」、「議論とはインテリジェンスだ」などといった主張にはまったく興味がない。全人類は恒久的に愚であり、議論により得られるものがあるとすればそれは一方的な自己満足だけである。全ての知が、知の享受者によって賞賛されているのと同じように、全ての議論は議論により自己満足を得られる者達によって賞賛されているにすぎない。


だからといって、議論がいけないとするわけではない。
僕がいけないとするのは、人間が人間として生きられぬ事だ。


人はありのままに生きるべきである。
知を探求したいなら知を探求するべきであるし、議論をしたいなら議論をすべきだ。
怒りを感じてその怒りをブログに書きたいと考えたならば、素直にそれを怒りであるとブログに書くべきであるし、キモさを感じてそのキモさをブログに書きたいと考えたならば、素直にきんも~☆とブログに書くべきだ。




それが「なんの生産性も無い」あるいは「なんの価値もない」もしくは「何も生み出さない」といった類のものであっても、思った事をありのままに書くという行為自体は素晴らしい事である。やりたいことをやりたいままにやる、議論したいから議論する、正当化したいから正当化する、という事は素晴らしいことなのだ。




その辺りは以前に、同性愛は異性愛とは違い生き物として非生産的である故に無価値であると定義することは容易いが、何も生み出さないからといって同性愛は偽物であり愛では無いとされるべきではなく、当人らにとってはそれは気高き純然たる愛であり、時として他者に不快感を与える同性愛という行為であっても、良識の範囲内で行われる事であればなんら否定されるべきではなく、その生産性や将来性とは無関係に、異性愛となんら変わることのない素晴らしい感情である、と書いた通りである。






けれども、問題が1つある。
その、「ありのままにやりたい放題好き放題やる事」自体は素晴らしいことであるのだが、それにより他人にストレスをかけ、あるいは傷つけるということは、絶対的な悪である。




即ち、全ての人はありのままにやりたい放題好き放題振る舞うべきなのだが、それを行う際には他者を傷つけぬようにとの細心の注意を払わねばならないのである。




かりにこの世の中に素晴らしいものが存在するとするならば、それは知でもなければ議論などでもない。唯一「人生」というものだけが素晴らしいのである。議論だ知だなどというものは全く持って無価値な自己満足の自己正当化の為の道具にすぎないのだ。











 たとえば議論していて、自分が想像もしなかった斬新な視点や物の見方を提示され、おどろくことはしょっちゅうある。それってすごくエキサイティングな体験だ。人と議論したことで人生が変わっちゃう人だってたくさんいるだろう。


 これって本を読んで「なるほどそんな考え方もあるのか」とか、「世の中にはこんなことがあったんだ」と自分が広がっていくのと同じだ。私にとって議論で相手の意見を聞くのは、「自分の知らないことが書いてある本を読む」のとイコールなのだ。



はあ、実にちゃんちゃらおかしい。
誰がてめえの自己紹介をしろと言ったのだ。
しょっちゅうあるって、それはおまえがただの議論オタだからだ。



自身を正当化しようとする議論オタは常に「議論は良い結果をもたらす」という実体のない大前提に基づき議論を正当化する。それに際し持ち出される根拠は常に腐った経験談話であったり、実体のない例題である。




松岡美樹というインターネットのゴミであるインターネットのゴミはただ単純に、人を見下し馬鹿にし笑い勝利し己の存在を正当化したいだけの生粋の糞議論ヲタである。







真性引き篭もりhankakueisuuの事を「hankakueisuuさん」と書きekkenの事を「えっけんさん」と書いた一方でBLOG STATIONだけを「BLOG STATIONさん」と呼んだ事によりBLOG STATIONが不快感を感じてストレスを被ったと言っているのだから、それは謝罪を行うのが当然の行為である。


ブログの表題にて人を呼ぶという行為を、刑務所において番号で人を呼ぶと同じくらいに屈辱的であると考える人間がいて何が悪い。世の中には多種多様な価値感を持つ人間がおり、それらは全て尊重されるべきである。無論、前段で述べたように、ベランダで「引っ越し」と叫び怒鳴り立てるような迷惑な行為は尊重されるべきではないが、そのような迷惑行為以外の多様性は尊重されるべきである。




そして、議論オタによる議論オタの為の議論という行為は、議論オタではない人間にとって、ベランダで「引っ越し」と叫ばれる事よりも遙かにストレスの溜まる不快な行為なのである。







いや、彼は「異論を認めない」というより、異論に対して感情が先に立ってしまうために、論理的な議論ができなくなるタイプの人じゃないかと思います。



さすがは松岡美樹だ。
これがレッテル張りでなくて何だ。






いわゆる「ハシゴをはずされる」というやつですね(笑)。自分に都合の悪い論理展開になると、とたんに前言撤回してシラを切るのは、まともな議論ができない人の必殺ワザですよ(笑)。


もちろん議論してみて考えが変わり、もともとの自分の意見を修正するのなら話はわかります。けど彼は、あたかも相手がピントはずれな箇所に反応しているかのような恣意的な誘導を行っていますね。そのことで自分が出した例え話は「なかったこと」にし、議論の相手がいかにも「的外れな分析」をしているかのような印象を与えようとしています。これって単に、自分が議論に「勝ちたい」からじゃないですか? まるでお話になりません。



よくも松岡美樹の分際でこのような事を書けたものである。






列車事故の際の髭の記者叩きブログをエントリーにて品行劣悪下劣極まりない行為であると散々に叩いておいて、「貴方がやっている他ブログを品行劣悪下劣極まりないと叩く行為はそれと同じように品行劣悪下劣極まりないアクセス稼ぎなんじゃないですか?」という至極真っ当な反論コメントを2の先置かずして即削除するような糞ブロガーの分際で、どの口割いて「まるでお話になりません。」などと言えるのかちゃんちゃら知りたい。




屁理屈並べて自分を正当化して人様を罵倒し続ける松岡美樹即ち腐臭を放つインターネットの粗大ゴミは今すぐにブログ閉鎖してリアルにでも引き篭もってろ。