2005年9月19日月曜日

真っ直ぐなボール(6)



知らない虫の声がした。
知らない花の匂いがした。
小雨がぱらぱら落ちてきた。


不確かに確かに歩いた。
耳に聞こえる虫の名も、鼻に届いた花の名も、僕は一生知り得ない。
僕のやつれた人生は、たとえ100年生きたとしても虫の名にすら届かぬのだ。


無力と無知を踏んで歩いた。
雨粒とこれまでの日々に怯えながら、僕はゆっくりと進んだ。
今し方読み終えたばかりの全ての出来事を頭の中から1つ1つ取り出して、丁寧に洗っていった。どうすればよかったのか、何を言えばよかったのか、答えを探したけれど見つからなかった。


これまで僕を臆病にさせていたもの全てが僕を勇気づけた。
自分の人生を恐怖という形で支配してきた際だち醜い容姿も、人を不愉快にする立ち居振る舞いも、愚かさもみすぼらしさも何もかもが、真性引き篭もりhankakueisuuという虚像を破壊する為に天より授けられたものなのだと感じた。全てが必然に思えた。僕は神に感謝した。










とても幸せな気分だった。
生まれて始めて心が全て満たされた。
苦しみ、悩み、自責の全てが終わるのだ。
彼女の前に立つだけで、全てが終わるのだ。
醜さだけが、汚さだけが、不愉快さだけが僕だけが、彼女を正気に戻せるのだ。







悟った。
人生の意味がやっと解った。
彼女に出会うためだけに生まれてきたのだ、僕は。







生きてきてよかった。
生まれてきてよかった。
僕だけが世界中でただ1人真性引き篭もりhankakueisuuを破壊出来るのだ。
僕だけが唯一悪鬼真性引き篭もりhankakueisuuの手から彼女を救い出せるのだ。




正しく僕はその為に生を受けたのだ。
そうとしか思えなかった。
全ての点が繋がった。







人生には意味がある。
そして人生は素晴らしい。
全てのものに感謝した。Diablo2に、WarCraft3に、DOTA allsatarsに、ブログに、インターネットに、そして彼女と真性引き篭もりhankakueisuuに感謝した。心の底から感謝した。真性引き篭もりhankakueisuuのおかげで僕は自らの存在理由を知ることが出来たのだ。僕は彼女と出会うために、彼女との全てを終わらせる為だけに生まれてきたのだ。







僕は彼女を幸せにする為に歩いた。
僕は彼女を成長させる為に歩いた。
僕は彼女と出会うために歩いた。
夜を歩いた。





元から無かったも同然だった筋肉は溶け出して完全に消えてしまっていた。
上半身がその重みに耐えかねて落ちてきた。
それを膝で支えながら少し休んだ。
夜道はとても長かった。
軽やかな気分だった。
足は重かった。



2万5000円で彼女は何を買うのだろうかと思いを巡らせた。
靴なのか、本なのか、チケットなのか夢なのか。
ただ、突き返されたら困るなと少し恐れた。





再び歩き出して少し自分の姿を見た。
ズボンはくたびれて穴があいており、シャツは染みだらけで伸びきっていた。この格好でコンビニに入るのはいかがなものかと、はにかんだ。服も、ズボンも、靴も買わないといけないなと思った。あとは靴下、散髪、他に何。金は足りるのだろうかと算盤を弾き続けてみたのだけれど、物の値段がわからずに頓挫した。まあなんとかなるだろうと気を取り直してみたものの、心配で吐く息が重かった。Diablo2をあんなに何度も買わなければよかったと後悔した。


3年も剃っていない顔を手で撫でて「順番が逆だよな」と声に出さずに呟いた。
インターネットで髭剃りを買って、服を買って、散髪に行って、それからはてなポイントを買いに行くのが筋だ。自分の無鉄砲さが滑稽に思えた。


いや、思い立ったが吉日なのだ。
そう考え直し、己の身なりを正当化した。


辿り着いた1つめのコンビニエンスストアには客がいたので立ち止まらずに通り過ぎた。既に足は棒のようだった。







果たして、僕はその先やっていけるのだろうかと少し不安になった。
嫌われるために彼女に会いに行き、予定通りに彼女に嫌われる。
それから僕はどうなるのだろうかという不安がよぎった。


けれども、すぐに答えは出た。
僕が自分から責められ続けてきたのは、己の無価値さ故だった。歩いて、行って、正しいことをする。それは無価値な事ではなかった。とても意味のある事だった。それだけの事をすれば、僕はもう自分に責められずに済むだろう。この先ずっと楽に生きていけるだろうとの確信を持った。







彼女の前に立って、挨拶だけして、逃げ帰ればいいのだ、元通りの人生へ。
僕に相応しい人生の元へ。あとは彼女を真性引き篭もりhankakueisuuとう幻影から救い出したという事をだけを誇りとして残りの人生を生きていけばいい。それはとても簡単な事だ。これまで上手く己というものを擁立する事が出来なかったのは、僕が生まれてからこれまでに一度たりとも正しい行いをした事が無かったという点にあったのだから。


2つめのコンビニエンスストアにも客がいた。
僕は立ち止まらずに通り過ぎた。
とぼとぼと勇敢に歩いた。
夜を車が走っていた。







雨粒を少し手につけて、髪をなぞった。
野生化した髪の毛はそのくらいでは収まらなかった


何本か髪が抜けて指に残った。
そのあまりの長さに、まるで女みたいじゃないかと少し動揺した。


それを振り払って地面に捨てると、共に闘ってきた戦友を失ったかのような寂しい気持ちになった。何かを失い何かを得る。そうする事が常ならば、僕は彼女と会う事で何を失うのだろうかと考えた。すぐに、それが真性引き篭もりhankakueisuuなのだという事がわかった。




真性引き篭もりhankakueisuuか。
大丈夫。
そんなものいらない。










客のいない真夜中のコンビニエンスストアに辿り着いた。
呼吸を整えて胸を張り、唇を噛んで自動扉を踏み開けた。







設置された機械と格闘し続けた。
奇妙な冷や汗が心臓を小刻みに震わせた。


任天堂のディスクシステムの書き換えサービスが終了したのが何時だったのかが思い出せず、いつだったか、あれはいつだったかと、そのことばかりを考えていた。やっとのことで紙切れを3枚手に入れてレジに行くと、けったいな目で見られた。大丈夫、僕はまだ僕だ。全てを終わらせられる。泳いだ心が自信で満ちた。


しばらくお待ち下さいと言われたので立ち尽くしていると、髭剃りが目に付いたので手にとってレジに出した。まず3万1500円を支払い、それから髭剃りを買った。ありがとうございましたと目線を上げずに呟いて、逃げるように表へ飛び出した。







雨は大降りになっていた。
すぐにびしょ濡れになり、足が上がらなくなった。


雨の重さが辛かった。
空の重さを始めて知った。










「もう無理だ」
僕は思った、歩けない。


疲れ果てていた。
随分と遠くまで来てしまっており、いつもの部屋は見えなかった。
このままここで朽ち果ててしまうのではないかと恐怖した。帰らねば、帰らねば、彼女の誕生日までには家に帰らなければと必死で駆けた。夜明けが追ってきた。元来た道を一つ一つ踏んだ。


そもそも、こんな遠くまで来てしまったのは全て自分の責任だった。無駄に疲れる生き方だった。全て自分の責任だった。彼女との出来事を全て始めから思い出して読み解き直した。雨が頬を強く叩いた。道は長かった。ただ歩いた。やっとの思いで部屋へと逃げ込んだ。5時を過ぎていた。朝だった。










シャツを脱いで、ズボンを脱いで、パンツを脱いで、裸になった。
黄ばんだタオルケットで体を拭いて、そのままそれにくるまった。




髭剃りを取り出してコップの水で顔を剃った。
水面に出来た真っ黒な膜に時の長さを感じた。
髪の毛もなんとかならないだろうかと胸まで降りた毛を削ぎ落としてみたけれど、さすがに歯が立たなかった。鋏も買わないと散髪にも行けない不便さに、金の心配ばかりした。削ぎ落とした髪の毛に白髪がいくつも交じっているのを見て、自分に白髪が多かった事を思い出した。もう随分と忘れていた。




PCの電源を入れると3万ポイントがあった。
寒くて震えた。暑い夏に早く来いよと呼びかけた。
少し眠った。hankakueisuuが疼いた。












ウェブ上の文章を読む人間は存在しない。
誰も読んでなどいないのである。














ドラゴンクエストVの4匹目のスライムを仲間にした事がある。
僕はそれを手に入れる為に何ヶ月もドラクエVをプレイし続けた。


どうしてもそれが欲しかったのだ。
けれどもそれを手にした瞬間、ドラクエVなどどうでもよくなった。


僕はそれからというもの4匹目のスライムの事なんて一度も気に掛けなかったし、考えたりもしなかった。それはロムカードリッヂの中の過ぎ去り終わった出来事だった。


もう名前すら思い出せない。
収集癖とはそういうものだ。













裸のままで、再びログを読み始めた。
hankakueisuuが疼いた。


彼女はhankakueisuuに全く信用されていなかった。
僕が何かを言う度に、彼女はあちらこちらで僕を酷く罵った。酷い人間もいたものだね、と僕はその度に憔悴するまでまじまじと見た。それはすぐに削除されたりはしたけれど、全て保存してあったし、どこか遠くへ投げ捨てる為にと全てのログをCD-Rに焼いていた。読む度に読む度にhankakueisuuが奥底で蠢いた。けれども僕は彼女を信じていた。


期間限定夏までの、彼女のいい人になる前に、少しだけ聞いておこうと思った。
どうしてそんな事を思いついたのかはわからない。
ただ彼女を信じたかった。
いや、信じていた。







だから僕らは2人で、彼女への質問を少しだけ書いた。そして、それを読み返して全て削除した。もっと緩い問いを、もっと軽い問いをと、出来る限りどうでもよい質問ばかりを3つ作って書いた。


そして、明くる日のチャットで彼女に問うた。
この話はもう絶対にしないし、ほのめかしたりもにおわせもしない。これまで言っていた事と矛盾があっても何も気にしないでいいし、絶対に責めない。それどころか当然触れもしない。何度も何度も念入りに言った。彼女は軽く、うん、うん、と言った。今から少しだけのことは今後一切無かったものとして扱う。だから正直に答えて欲しい。そう入念に言ってから、彼女にまず1つめの、最もどうでもいい質問を投げかけた。


彼女の答えは嘘だった。





真性引き篭もりhankakueisuuは即座に激昂した。宇宙が震えるのが感じて取れた。僕はなんとかしてそれを押さえ付け、どうにかしてその場を切り抜け落ちた。




こんな怒りは初めてだった。
魂が震え、骨という骨がそれに共鳴した。
怒りで息が出来なかった。瞬きすら出来なかった。







彼女がどうしようもない寂しいだけのインターネット中毒者だって事は最初からわかっていた。それに誠実さを求めるなんて、アリクイに寿司を握れと頼むようなものだった。


けれども僕は彼女を信じようとした。
信じようとしてしまった。
それが唯一の愚かさだった。







もうどうしようもなかった。
これはもうどうしようもないと理解しながらも、なんとかして事態を収拾しようとした。これを凌ぎさえすれば僕は少なくとも1月半の間は彼女と好きなだけ話が出来るのだと、額の前の人参に手を伸ばそうとした。話がしたかった。話がしたかった。これまで一度として話をしたことが無かった彼女と話がしたかった。会いたかった。会いたかった。会いたかった。僕は彼女と会いたかった。僕は彼女と出会う為に生まれてきた。だから彼女に会いたかった。どうしても彼女に会いたかった。だからなんとかして真性引き篭もりhankakueisuuをなだめようとした。




「お前の人生において正直さというものが一度でも役に立ったことがあるか?」
問うた。無視された。激昂していた。震えていた。聞く耳を持たなかった。話がしたかった。会いたかった。もう駄目だった。どうしようもなかった。










hankakueisuuが何かをしようとしていた。
夜も眠れなかった。僕は彼女と話がしたかった。
朝も眠れなかった。僕は彼女と会いたかった。




誠実さなんてどうでもいい。
誠意なんてどうでもいい。
嘘なんてどうでもいい。
そんなもの、何の役に立つんだ。
なんだってんだ、僕は彼女と話がしたかった。
なんだってんだ、僕はただ彼女に会いたかった。
けれども僕は激昂しており、真性引き篭もりhankakueisuuが動き出した。







話がしたかった。
僕は話がしたかった。
彼女と話がしたかった。


真性引き篭もりhankakueisuuは彼女から来たメールに返事を書いた。







会いたかった。
僕は会いたかった。
彼女と会いたかった。


真性引き篭もりhankakueisuuは彼女とメッセを始めた。







話がしたかった。
喜んで貰いたかった。
僕に出来ることは全てしてあげたかった。




真性引き篭もりhankakueisuuはあっという間に彼女から「もう二度と連絡しません。」という確約を取り付けた。僕は呆気にとられた。真性引き篭もりhankakueisuuがそれに要した時間は僅か数時間だった。これまでの僕の苦悩はなんだったんだと、己の誠意と信念の無力さを思い知らされた。僕が数ヶ月を費やしても成し遂げられなかったことを、真性引き篭もりhankakueisuuの激昂はたった一晩、それも数時間で成し遂げてしまった。


決して敵わない。
そう悟った。











話がしたい。
会いたい。
思った。
もうメールは来なかった。


話がしたい。
会いたい。
思った。
もうメッセは入らなかった。


話がしたい。
会いたい。
思った。
もう連絡はこなかった。


真性引き篭もりhankakueisuuだけが1人、収まらぬ怒りに震えて立ち尽くしていた。










僕は彼女に出会うためだけに生まれてきたのだ。
彼女に会って、真性引き篭もりhankakueisuuを破壊して、彼女はがっかりして、失望して、真性引き篭もりhankakueisuuを嫌いになって、反省して、少し大人になって、大きな人間になって、インターネット中毒を卒業して、冷静に自分を見つめ直して、人生に対する誠実さを取り戻して、真面目に生きて、真っ当な人間になって、いい人を見つけて、一緒になって、幸せになって、幸せになって、幸せになって、つまり、真性引き篭もりhankakueisuuが彼女から時間を奪って不幸せにしたのとは対照的に僕は彼女を幸せにして、僕は彼女を幸せにする為に生まれてきたのであり、僕は彼女を幸せにして生きていく。


つまり、僕は彼女に出会うためだけに生まれてきたのだ。
この人生は全て彼女に出会うためだけのものだったのだ。


僕は彼女に出会うためだけに生まれてきたのだ。
だとすれば僕は何の為に生まれてきたんだ。
だとすればこの人生は何なんだ。
僕は一体、何なんだ。










話がしたかった。会いたかった。3万はてなポイントだけが手元に残った。












破れた布団の中にすら、完璧な世界は無いのである。














その7
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