2005年9月19日月曜日

真っ直ぐなボール(1)



彼女に出会うためだけに生まれてきたのだ、僕は。
























気がついたら、一番馬鹿で一番愚かで一番強欲な一番平気で嘘をつく女に惹かれていた。














人は人から生まれる。
僕は人から生まれた。
その事実の前では全てが軽い。







それでも人になりたかった。
笑ったり、泣いたり、話をしたり、歩いたり、友好的にいがみあったり。そのような当たり前の出来事が見あたらない日常を過ごしてきた自分自身を人であると認める事が出来なかった。杓子定規に人というものを定義し、そこから完全にはぐれてしまっている僕は今一体何者なのだろうかという疑心が止めどなく湧き出で続けた。それはこれから先自分がどのようなものへと転じていくのだろうかという強い不安へと姿を変えて、常にこの身を覆っていた。それは不安というよりも、恐怖そのものであった。




人は劣化する生き物であり、脳は劣化する道具である。
笑う、泣く、喋る、といった人間の能力もまた、使われなければ錆び付き腐って朽ち折れ崩れて解け消える。最後に笑ったのはいつか、最後に泣いたのはいつか、最後に喋ったのはいつだったのかと自分に問うてみても、答えは返ってこない。それがいつであったのか思い出せないのである。それどころか記憶にないのだ。言葉を発した記憶ならあるのだが、人と喋ったとなるとどうだろう、どうなのだろう。そんな経験が今までに一度でもあったと言えるのだろうか。




これまで常に強く抱き続けてきた人になりたいという思いの正体は、凡庸になりたいという願望だ。ところが僕は凡庸さに拒絶反応を示して頑なに拒む。贅沢な話だ。
その原因は、自分が決して凡庸には成り得ぬという事を経験から学び、知り得見出しているからである。仏陀は生まれながらにして仏陀であり、キリストは生まれながらにしてキリスト。凡庸は生まれながらにして凡庸であり、天賦の凡庸を授からなかった人間は凡庸にはなれない、辿り着けない。それが僕の得ていた結論であった。




人と話す、人と笑う、人と遊ぶ。即ち凡庸な快楽。そのようなものに憧れ続けた。
うまく喋れないのは練習が足りないせいだと思い、今にして思えば笑えるような台詞を紙一面に書いて毎晩10度読み上げてから布団の下に置き、その上に頭を置いて寝続けていた。けれどもある時気がついた。僕は凡庸にはなれぬのだと。そして僕は凡庸に憧れながらも凡庸を拒むことにした。人への憧れを押し殺し、人にならぬと決意した。







けれども、今では全てが可笑しい。
だって、僕は凡庸さを手に入れてしまったのだから。


今なら胸を張って言える。
「私は人間である」と。
堂々と、朗らかに。










ブログを始めて本当に良かった。
遂に願いがかなったのだから。




僕は凡庸な人間だ。
ほんとうにありふれた。












ブログを書いていると、変な人に付きまとわれる事がある。
まあ、誰しもがそれなりに、経験のある所だろうと思う。














スパムメールと嫌がらせのメールしか届かなくなってから、早一月が過ぎた。
これは現象ではなくて、成果だ。努力のたまものだ。僕は遂に成し遂げたのだ。







コミニケーション能力というものを持たず、それ以前にコミニケーションというものを行う気が全くなかった僕は、真性引き篭もりhankakueisuu宛に届くメールにうんざりしていた。


メールアドレスを取得してブログに貼り付けたのは、エントリーで触れたウェブサイトにメールアドレスが貼り付けられていたからである。相手側は晒しているのに、こちらには無いという不平等さが許せずに、慌てて貼った。


これまでに自分宛のメールというものを一通も貰ったことが無かった僕にとって、アンフェアさの解消の為だけに載せたメールアドレスにメールが届くという事態は、想定外の事だった。







僕は驚いた。
どこかの知らない誰かが僕の為だけに文章を書き、それを送り付けてくる。そんなこと今まで無かった。何が起こっているのか理解できず、狐につままれたようだった。


そんな中で僕に理解できたことといえば、彼らが評価して話しかけているのは僕ではなくて、真性引き篭もりhankakueisuuというブロガーであるという事くらいのものだった。


まあ、適当にあしらっておけば幻滅してすぐにメールも止むだろうと思い、適当にあしらったのだが、その見通しは甘かった。返信せずに無視しても、2行にも満たないあからさまに煙たがっている適当なメールを返しても、メールを送り続けてくる人が何人かいた。










その中の1人に彼女がいた。












僕に救いの手を差し伸べてくれるのはDOTA allstarsだけなのだから。














僕は人間になる事を完全に諦めた。
けれども、全てを諦めたのではない。




人並みの凡庸な楽しみはまったく無かったが、それでもゲームはあった。
それで十分じゃないか、僕はそう考えた。大きくなって、バイトをして、お金を貯めて、この街を出て、この部屋を出て、何よりもまずこの家を出て、どこか遠くの誰も知らない街に行く。そして月に一本のゲームを買える生活を維持出来れば、それで十分じゃないか。そうして老いていこう。その覚悟は出来ていたし、そうするつもりだった。




それこそが僕の思い願う幸せそのものなのだと信じていた。
けれどもある時、重大な事に気がついてしまった。
僕はゲームが好きではない。










そして僕は、ゲームにすがった。












あー、楽しいな。
ゲームはいいよ。
とてもいい。














けれども今ではもうそんなものに縋る必要は無い。
これまでもそうだったし、これからも当然そうだ。


僕はDOTA allstarsから完全に足を洗うことに成功したのである。
おそらくもう二度と、ゲームなんてしないだろう。
いや、もう二度とゲームなんて出来ないのだろう。










あんな、くだらないもの。












「貴方の趣味は何ですか?」
そのような質問をされたならば、迷うことなくこう答える。
「無い。完全に無趣味である」と。



僕に趣味などない。
ならば、ゲームは僕にとって何なんだという事になる。
無理やり答えるならば、全てだ。
僕の全てだ。
DOTA allstarsこそが僕の全てだ。



DOTA allstarsだけが僕自身だ。
ウォークラフト3を立ち上げ、DOTA allstars部屋を探して入る。
それが全てだ。
そこで勝つ、あるいは負ける。
相手は、アメリカ人のサラリーマンやら、台湾人の学生やら、マレーシア人の料理人だ。それに対して、こちらはDOTA allstarsそのものだ。
負けてなるものか。
DOTA allstarsをプレイし、勝つか負けるかするのが僕の全てだ。
アメリカ人のサラリーマンや、台湾人の学生や、マレーシア人の料理人にとって、僕という存在は「英会話能力の低いかなり手強いAI」でしかない。つまり、僕という存在を一言で言うと、英会話能力の低いかなり手強いAIなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。



「貴方にとって人生とは?」
と、もし僕に問いただす人がいたとする。
僕は自信を持って答える。
「存在しない。完全に存在しない」、と。














その2
全て