2005年9月19日月曜日

真っ直ぐなボール(2)






真性引き篭もりのエントリーって基本的に全部メタファーで構成されてるんでしょ?














仮に真性引き篭もりのエントリーが全てメタファーで構成されているとすれば、透明人間とは何なのだろう。プンペン首相とは何で、キャベツとは何なのだ。猫とは、太陽とは、日曜日とは、神様とは何だ。武田信虎は誰で武田信玄は誰なのだ。よろしくやりたいとは何なのだ。味噌は何で、ボールとは何で、トマトとは何なのだ。トマトって何だ。何のメタファーなのだ。考えるだけ無駄だ。つまり、トマトはトマトなのだ。




赤いのだ。
丸いのだ。
光るのだ。


トマトとて人の子であるからして、時々レタスに憧れたりもするのだが、所詮トマトはトマトである。




結局のところ、トマトはトマトなのだ。
当然である。












女は馬鹿だ。














人は皆死ぬ。
けれども、人は死ぬのではない。
殺されるのである。




何が人を殺すのか。
それは、それぞれ違う。
ある者は時の流れに殺され、ある者は己の欲望に殺される。
ある者は堕落に殺されて、ある者は充足に殺される。







そしてある者は、トマトに殺される。




待ってくれ待ってくれ待ってくれ。
待ってくれ、メタファーでもこじつけでもない。
僕は真剣にトマトの話をしているだけなんだ。
トマトが人を殺すのだ。







アタックオブザキラートマトという映画がある。
その映画の中ではトマトが人を殺すのだ。
それはトマトの復讐である。


トマトは常に虐げられてきた。
切られ、煮られ、砕かれ、食べられ続けた。
そしてトマトは遂に立ち上がったのだ。
人類に牙を剥いたのである。


トマトは手当たり次第に人間を襲い、人類を抹殺しようとする。
トマトによる、トマトの為の、トマトの世界を構築しようと試みるのである。







ところが、このトマト革命は失敗に終わる。
キラートマトを死に至らしめる兵器によって。







その兵器とは何であるか。
それは、1曲の歌である。







そこで、である。
一体、トマトとは何のメタファーなのか。
そして、なぜトマトは歌によって死んでしまうのか。


映画史を語る上で最も重要な監督の1人である巨匠ジョンデベロはアタックオブザキラートマトという映画においてトマトとトマトを殺す歌にどのような意味を持たせたのかといった話はまた別の機会にしようと思う女は馬鹿だ。
今更僕が言うまでもない。女は馬鹿だ。







僕はそれを経験から知った。真性引き篭もりhankakueisuu宛に繰り返しメールを送ってきた人間は全員が女だった。


それだけでも十分な証拠と言えるだろう。
女は馬鹿だ。












そのブログは正真正銘の女学生が書いているであろうブログで、日々の出来事を3日に一度程度のペースで赤裸々に語っており、女学生ともセキララとも程遠い僕としては、興味津々で過去ログ全てを読み尽くし、日に10度くらいは訪れてみたり、ハンドルネームを検索エンジンで検索してみたり、メールアドレスを検索エンジンで検索してみたり、出てくる地名を片っ端から検索しては学校名を推測してみたり、オフラインでの友達っぽい人のブログの過去ログを全て読みつくしてみたり、といった、まあ世間一般ではよくあるレベルのお気に入りであったのだ。














ブログ以前の人生において、僕宛に文章を書いてくれた人などほとんどいなかったし、いたとしてもろくでもないものばかりだった。日本人という生き物は常に私を苦しめた。


だから僕は日本人と絶対に関わり合いになりたくないと考えるようになり、ずっと関わらずに生きてきた。いや、関わる能力を所持していなかった、あるいはそれを苦痛としか感じられない性質であったと書いた方が正確なのかもしれない。


理由はどうあれ、僕は人と関わらぬ事を頑なに貫いた。人生の大部分を費やした「DIABLO2」と「WarCraft3」という2本のネットゲームにおいて、僕はたったの一度も日本語を喋らなかった。日本語で話しかけられても、完全に無視し続けた。





その根底には「近づいてくる人間は皆、私に危害を加えようとしているのだ」という世界観があった。事実、ずっとそうだった。親しげに歩み寄ってくる人間を信じようと努力する度に粉々に砕かれた。信じたふりをする度に叩きのめされた。




だから僕は人間に近づかずに生きてきたし、誰も信じないようになった。いや、何も信じないようになった。そして、興味を持った人間については徹底的に調べて深く考えるようになった。ブログの過去ログを全て読むようになったのも、他人の言葉を信じる事が出来ないという病的な性質からだった。




けれども、その姿勢には1つの危険が潜んでいる事にも気がついていた。
ずっと同じ人のログを読んでいると、親密度のようなものが上がって行き、どうしても好感度が増してしまうのである。もちろん、僕は好き嫌いの制限が非常に厳しい人間であるからして、ドボンワードに行き当たって一発でドボン、という事も何度かはあったのだが、大抵の場合は好感度が上がっただけで終わるのだ。










事実、僕は物凄い親藤代派だし。












僕は泥棒だ。
盗んでいる。
ブログを書いては人から時間を盗っている。
これは社会に対する復讐であり、聖戦だ。
盗んで盗んで盗みまくってやる。
罪悪感など無い。



しかし、思う。
日本中に満ち溢れている泥棒を見て思う。
もう盗むのはよしてくれと。切に願う。
盗まれたものの大きさに気がついた時には、手遅れなのだから。














それは不思議な体験だった。


僕はこのブログを始めるまで、メールをしたことが無かった。
書いた事も無かったし、貰ったことも無かった。
それが当たり前だと思っていた。







メールが来た。
繰り返し来た。
それらを読むのは本当に楽しかった。


彼女らは真性引き篭もりhankakueisuuに好意を持っており、僕は真性引き篭もりhankakueisuuだった。そして僕は彼女らの事を少しだけ知っていた。







最初のメールが届いて開いたその瞬間に検索エンジンに飛び、検索ボタンを取り憑かれたように叩き続けた。調べうる限りの事を調べ、探し出せる限りを探し出して読み尽くした。


といっても、それはごく普通のことだ。当たり前のことを当たり前にやっただけの事である。全然キモくなんかない。変態とかそんなんじゃない。もちろん、「うへへ、検索エンジン叩きまくって色々読ませていただいたよ」とか、そういう事とか全然言ってない。


そのような事は一切表には出さず、まったく興味が無いふりをして、返信をせずに無視をしたり、たまに気紛れであからさまに内容の無い3行足らずのメールを返したりといった態度を貫き続けた。どうせすぐに飽きられて、メールも来なくなるだろう、という甘い見通しがあった。










ところが気がついたら、3人の女と夜な夜なチャットをしていた。
馬鹿だ。
本当に馬鹿だ。
どうしてそんな事になってしまったのか、という点については未だによくわからない。
真性引き篭もりhankakueisuuに「結局の所」というフレーズを与えれば、「彼は寂しかったのだ。」と瞬時に返されるのだろうが、そのようなものを認めるつもりはない。僕はちっとも寂しくなんて無かった。ゲームさえあればそれで満足だった。僕はとても満足していたのだ。







ただ、どうすればいいのか解らなかっただけだ。


メールは無視していれば必ず途絶えるものだと思っていた。
まさか、メッセで話しかけられるだなんて想像もしていなかった。


メッセも無視していればすぐに飽きられるものだと思っていた。
「また明日」などと定時に毎日話しかけられるだなんて想像もしていなかった。












目的は、嫌われる事。
傷つける事ではなかった。
それは途方も無く困難な作業で、ただただ僕を消耗させた。














僕は酷く困惑した。







確かに彼女らとのチャットは楽しかった。
世の中にこんなに楽しいものがあるのかと驚いた。DOTA allstarやDiablerとは違い、彼女らは誰もが流暢な日本語を喋った。僕でも意味がはっきり解った。なにもせずに見ていると、次から次へと真性引き篭もりhankakueisuu宛の発言が成され、下から上へと流れていった。それを眺めているだけで楽しかったし、面白かった。幸せな気分だった。


けれども僕はそれを望まなかった。
極限までに無価値な人間である自分が、どこかの誰かの貴重な時間を相殺するだなんて、己のモラルが許さなかった。それが自分を好いてくれている人ともなれば尚更の事だった。彼女らの人生を真剣に案じ、どうすれば更正させられるかを考えた。どうすれば真性引き篭もりhankakueisuuが見捨てられるのかを考え、どうすれば僕への執着が完全に失われるのかを考えた。そして僕は出来る限りの努力をした。懸命に働いた。誰に対しても平等に、少しも話をしなかった。何も言わなかったし、何も聞いていないふりをした。僕がタイピングしたのは「黙れ!」「失せろ!」「お断りだ!」に代表されるふざけた中身のない言葉ばかりだった。


そうすればすぐに嫌われると思っていた。
そうすればすぐに終わると思っていたのだ。
飽きられて、失望されて、鼻で笑われて、見捨てられて、去ってゆく。







そうなるはずだった。
ところが、そうはならなった。







なによりもまずかったのは、そうしてる間中もずっと彼女らのウェブサイトの過去ログを延々と読み続けていた事なのかもしれない。ウェブサイト、というよりもブログを持っていたのは1人だけだった。結果、僕は1人の人間が書いた文章を数ヶ月にも渡って読み続ける羽目に陥っていた。


「そうなると当然であるが」という繋ぎ言葉を用いていいのかどうかはわからないが、そうなると当然であるがその1人に対するものと他の2人に対するものの間には、次第に温度差が生じて行った。もちろん、表面的には何も変わらなかった。それまでと同じようにメールは無視していたし、返信したとしても数行のものだった。


自分に何が起こっているのか、本当にわからなかった。







僕は悩んだ。
真剣に悩んだ。


彼女らはなんとかして話を先へと進めようとしていた。
僕のガードをこじ開けようと、あの手この手で攻めてきた。


今すぐにでも終わらせなければという焦りが日増しに高まり、正気を蝕んだ。このまま行けば、彼女らの人生に感化されて形を変えた自分自身の人生観が、僕そのものを破壊してしまうのではないか、という差し迫った現実的な恐怖がそれに追い打ちを掛けた。










そして1つの結論に達した。
僕には誠意が足りなかったのだと。
そして、誠心誠意お願いする事にした。
もう二度と連絡してこないでくれ、と。












人間として生まれてきてしまったからには、誰かを幸せにしたいと思うし、人様のお役に立ちたいと強く思い続けているのだが、無能であり、役立たずである。
人間であるからして、人様に迷惑をかけたくないと強く思うし、人様の迷惑になるような事をしてはならぬと強く思う。


僕の僕への自己評価は、「なにかをすれば他人に迷惑がかかる」「なにもしなくても他人に迷惑がかかる」というものであり、世界における僕の立場というのは、野球界における渡辺恒夫のそれよりもはるかに酷く、害悪でしかないというのが実情である。


僕はこれまでなんらかの形で関わった人間の全てに迷惑をかけまくってきたという、被害妄想でもなんでもないれっきとした事実があるわけで、僕としては「歩くマイナスイベント」という存在から抜け出したいと考えているのではあるけれど、なかなかどうして難しい所である。



無能であるのに「頑張りました!」「努力したから!」と国を傾けた将軍や人様に迷惑をかけまくった指導者は大勢いる。僕はそのような大馬鹿ものにはなりたくない。そのようなものにはならぬ。頑張り、努力し、やれる事だけをしっかりとやって生きねばならぬ。過去ログから適当に引っ張って引用すると、「相応しく生きねばならぬ。身分相応というものを。」という事である。














その3
全て