2006年3月16日木曜日

敗北を勝ち誇る。



思考と緊張と惰性の作業でくぐもった額がゆっくりと迫り出し、戻ってきた寒の中へと一人歩みだす。DOTA allstarsと僕を残して。CRT15インチっきりの視界がさらに狭まり、reliveまでの秒数すらも僕の目には届かなくなる。光の柱と共に全能なる悪魔が現れるが、彼はもう動かない。カートゥーン。バラックが割られ、誰かがfuckと言い残し、どこか他の世界へと旅立っていく。ここではないどこかへと。ggを聞かずに。そこではないどこかへと。

fuck。
















僕がまだ、DOTA allstarsをやっていた頃、
いや、もっときちんと書こう。
そうするべきだ。





僕がまだブロガーじゃなかった頃、ブログなんてものを知らなかった頃、僕にとってゲームの中の出来ことだけが世界で起こっている事の全てだった。もちろん、その頃からずっと、僕の知らない所ではいろんな出来事が生じては人々を笑わせたり、怒らせたり、悲しませたり感動させたりしていたのだろうけれど、僕はそれらについて知りたいとも思わなければ、見てみたいとも思わなかった。

笑うだとか、怒るだとか、悲しむだとか、感動するだとか。
そんなものは僕にっとって、どうでもよい事だったからである。








人生に訪れるあらゆる苦行、困難というものに立ち向かう勇敢な男が一人居る。
何事もうまくはこなせないながらも彼は、全ての物事に対し1つ1つ実直に向き合う。

「もっとうまいやり方があるのに」
と人は言うけれど、彼は聞かない。

「他人は他人、私は私」
そういってまた、進む。


人生に訪れるあらゆる幸福、快楽というものから逃げ惑う臆病な男が一人居る。
何事もうまくはこなせない彼は引き篭もり、苛立ちながらもそれを続けてLEAVEしない。

「もっといろんなことがあるのに」
と人は言うけれど、僕は聞かない。

「他人は他人、僕は僕」
そういってまた、進む。


2人の人を目にした者がする事は世界共通。両者を比較して、些細とも呼べないような違いを見つけ出し、どちらかにはブーケを、どちらかにはそれ以外の何かを分け与える。申し訳程度に。カークダグラスは一人しかいなかったけれど、それはカークダグラスが一人しかいなかったからではなく、たまたまカークダグラスがカークダグラスだったからに過ぎない。


戦いは常に美化され、そうする事こそが正しいとされる。くだらない浪漫で。
誰一人として戦いの最中に、それが何を意味しているかなんて考えたりはしない。

ただ、当たり前のように戦い、何よりも当たり前のように勝ち誇る。
今では勝利なんてものは誰の興味も引かず、勝ち誇る事のみが最上としてもてはやされる。


だから誰もが勝利する事を目指さずに、勝ち誇る事をただひたすらに目指す。

自らの力量を計り、戦うべき物事を捉え、そして何よりも戦うべき理由を考え、その戦いの正しさを問い、勝算を算段し、勝利により得られるものと敗北によって失うもの、勝利によって失うものと敗北によって得られるものを天秤にかけ、戦うことと戦わぬ事のどちらが「戦うこと」であるかを熟考した上で立ち上がる者など一人もいない。

自らを誇る事の出来る基準を生み出し、勝ち誇る物事を探し、勝ち誇る為に戦い、ただ勝ち誇る為だけに勝ち誇る人々で宇宙は満たされている。左も右も、上も下も、北北東も、南南西も、酒も女も涙も酒も。









noobと笑う声が聞こえる。
noobと罵る声が聞こえる。

誰かが何かを起こす度、誰かが苛立ち、世界がささくれ立ってゆく。

全てが始まる前、僕らは同じ世界に生きる数少ない、僅か数千人の中の選ばれ導かれその為だけに歩み寄ったこれから完璧な世界を作り出す為だけに戦うテンピープルオブザワンダーだったはずなのに、一人欠け、二人欠け、全てが成し遂げられないままで、いがみ合い、勝ち誇り、そうしている間も、彼らを欠いた世界は回る。対して、彼らを欠いた彼らの世界は回らず消える。




どこへ?
どこへともなく。
はじめからそんなもの、なかったかのように。
いや、はじめからそんなもの、なかったんだろう。




僕がまだ、ブログなんてものを知らなかった頃、ゲームの中で起こる出来事が世界の全てだった。ヤンキースがスイープされたのは、同じゲームの幾人かが「ヤンキースがスイープされそうだ」とゲームをほっぽりだしてチャットを始めたからであり、僕にクリスマスが訪れたのは同じゲームにログインしていた人達が吹く数人でアイテムドロップハートマークを描きだしたからだ。

同じように、新年もハロウィンも911も、ゲームに乗ってやってきた。
それは遠い世界の出来事ではなく、"僕に起こった出来事"だった。

それだけではない。
森裏でdryadとfullヘルスから殴りあって殺された事。テレポートで背後を取ったつもりが車座になった敵の中に一人飛び出してしまい、去り行く仲間とgoldをコンマ数秒の間何も出来ずに眺めた事。15-0から15-15まで死んだ事。メガキル、トリプルキル、ホーリーシット、ゴッドライクその他諸々における全てという全て。まさしく僕は生きていたし、そこにいたのである。その度に僕はそれを感じていた。








ところが僕がブログというものを書き始め、DOTA allstarsを文字通り捨てるに至ってからというもの、そんなことはただの一度も起こらなかったし、何よりも起こりえなかった。

そしてまた、僕がブログというものをほっぽりだして、再びDOTA allstarsをひたすらにやり続けるに戻ると、驚くべきことに、もう二度と起こりえないとばかり思っていたそういう出来事が僕の身に起こり、それはまるで一度死んだ自分自身がどこか果てしなく遠くにいた何者かの唱えたメガザルの効果にひっかかって、奇跡的に蘇ったかのような気分だった。

まるで、何もかもがあの頃のようにうまくいくんじゃないか、って思えるくらいに。
けれどもあいにく僕はブロガーで、fuckとtypeしleaveした。








その間中、僕はそれまでしていたようにインターネットを見たりはせず、WC3Lとreplay.netだけがワールドワイドウェブの全てであるかのようにネットサーフィンをし、それだけでとてつもなく満足し、またbatlle.netへと戻る生活を続けていた。

言うまでもなく、フィギアスケートで誰かが金メダルを取った事すら知らなかったし、そもそもインターネットがこれまでのように続いているのかどうかも知らなかった。けれどもそれは続いており、まるで何事もなかったかのようにそこにあった。それらを1つ、1つ、時間を無駄にして見たり読んだりしていると、ああ、死ぬとはこういう事なのだろうと僕はそれを理解した。




何が起こっているかを知る事が出来ない。
それが死に付加される唯一のプレミアムであり、

何が起こっているかを知る事が出来る。
それが生に付加される唯一のプレミアムである。




しかし、ならば、と思わずにはいられない。
死に付加される「認知できない」という付加効果が絶対のものであるのに対し、生に付加される「認知できる」という付加効果は極限を通り越した脆さである。人間はどれほど生きたとしても、自らがどれほどのものであるかすら知る事が出来ない。自分が何者であるかという誰にでもわかりそうな事を解き明かした人は今まで、ただの一人もいないのだ。もちろん、自分が何者であるかを勝ち誇った人は大勢居れど。
















二度目のフレーズ、二度目の春。
またぞろの春、ブログを書こう。

死後の世界から、生前の世界へ。
僕は死ぬ為、舞い戻ったのだ。