2006年3月20日月曜日

焦燥感



あの頃の焦燥感と、今の焦燥感はまったくの別物である。
即ち、焦燥感には二通りのものが存在するのだと、僕は考えている。


あの頃の焦燥感は、手に入れられる物を全て手に入れなければならぬ、という強い焦りと欲望のうねりだ。僕はその目の前を流れる黄金の濁流と化した砂金で溢れる大河の全てを堰き止め、その先に底の抜いたペットボトルを仕掛け、その抜いた底の下に寿司桶を手に待ち構え、それが砂金で満たされるまで必死で両腕踏ん張って支え、満たされては脇に積み上げてまた新しい寿司桶を手に、流れ来る砂金の輝きに酔っていた。それしか見ていなかったと言ってもよい。


そのような人は大勢いるのだろう。
僕は極めて凡庸であったと言える。


僕にとっての流れ来る砂金とは、DOTA allstarsのゴールデンタイムだった。
DOTA allstarsのゴールデンタイムは大きく分けて2つ。
US westの夜と、aus/sg/twの深夜である。

その時間帯のDOTA allstarsは人で溢れ返り、10秒と経たない間に10人が揃い、瞬く間にゲームが始まる。僕はその「あっという間に人が集まる」という些細な金色を必死で、一粒も逃さぬようにとDOTA allstarsをやり続けた。

ゴールデンタイムを逃したからといって、DOTA allstarsが人で埋まらなくなるわけではなく、ただそれが2分や3分になるだけであり、即ち僕は24時間ひっきりなしに続くと言っても過言ではないDOTA allstarsのゴールデンタイムを懸命になって拾い集め続けた。


あの頃、というか、より正確に書き表すならば今日の今、先ほど、この瞬間までDOTA allstarsをし続けていた僕を少し冷静に見たとき、自分が何者に最も近いかと言うと、それは開店前からパチンコ屋に並び、玉桶を積み上げるDQNであろう。その事実に目を向けると、僕はどうしても酷い気分になってしまう。


もちろん、僕の側には言い分けがある。
僕がプレイしているのはパチンコなどという現金対価の伴う賭け事などではなく、魂即ちソウルの宿った崇高なる、DOTA allstarsというアマチュアゲームであり、人々のゲームを求める欠片と欠片の結晶であり、それは毎夜遅いくる野犬の群れに対して松明を手に立ちつづける勇敢なる村の若者に等しい、などと言ってもそれは非常に空虚な、巨人ファンによる巨人擁護、阪神ファンによる阪神擁護、日本ファンによる日本擁護あるいは韓国ファンによる韓国擁護に等しく、その正当性の無さは同穴のどんぐりである。




あの頃の焦燥感が、手に入れられるものを手に入れないで過ごす事への焦りであったのに対して、もう1つの焦燥感即ち今抱いている焦燥感は、既に手にしているものを失ってしまう事への焦りである。


と、書いて。
即ち、「既に手にしているものを失ってしまう事への焦り」と書いて、僕はまた、酷い気分になる。


いったい、僕が何を手にしているって言うんだ。
いらないものばかり掻き集めて、積み上げて、部屋は寿司桶で満たされて。


本当に必要だと思うものを探してみても、水で削られ粗目状の表面をしたおはじき型のガラスの玉や、それにも満たない石つぶてで満たされた寿司桶は途方も無く重く、それらの下に確かにあったはずの、大切なもの、その全ては、もう今では見る術は無い。僕に出来る事なんて、この山のような寿司桶を誇って眺める事くらい。


人がそれを見て「まるでゴミ溜めじゃないか」と笑う度に、怒り、狂い、激昂し、苛立ち、不愉快さを不愉快さで上書きし、撒き散らし、散々になりながら、積み上げられた寿司桶からこぼれおちた砂利をスコップですくっては、また懸命に積み上げる。


「ほら、見ようによっちゃあ、輝いて見えるだろ」
とかなんとか言って、無論独り言として、誇らしげにつぶやいて。




こんなもの、書いている場合じゃないんだ。
僕はブログを書かないと。

僕の手の中にある真性引き篭もりhankakueisuuが無くなっちゃう前に。
僕はブログを書かないと。

もう手遅れだって気が付いて、全部諦め折れ焼け落ち消え飛ばされる前に。
僕はブログを書かないと。




まだ間に合う。今なら大丈夫。遅くない。諦めなければ、決して終わらない。死なない限り!誰もが皇太子やパイロットやフットボーラーやアルファブロガーになれるなんてのは嘘だって、ちゃんと教えてやるべきなんだ。stfu、第三の焦燥感。








stfu、第三の焦燥感。
手に入れられない物を失ってしまう事への焦り。

stfu、第三の焦燥感。
僕はまだ天上天下唯我独尊とすら言っていない。