2006年10月17日火曜日

「ブログを書く」とは、感じたことを思い出す作業。



埃舞い飛ぶ小さな部屋でネットとゲームばかりしながら毎日を過ごしていても、人並み程度には色んな事を感じるのだけど、それら全てはあっという間に過ぎ去って、忘れ薄れて消えてゆく。

そうでなくても人間は、忘れるように出来ていて、自分自身が誰であるかすらきちんと覚えて諳んじられる人はそんなにいない、あまりいない。ほとんどいない、全くいない。

それでも心は健気なもので、何かある度に些細なことで、物凄い強さで揺さぶられ、動かされ、こんがらがり、強烈な不快感や衝動が胸の中で暴れ狂い、抑えられない悲しさや、苦しさ、怒り、そういった類の管理しきれない感情を、次から次へと感じ取る。

ところが、我が脳は凡庸で、我が心という図らずも人並み程度には優秀なる計測器が感じ取った情報の全てを処理する事など夢のまた夢ジュリームオブジュリーム。

それどころか、100に1つも処理できず、感じた全てが失われてゆく。そうして僕は生きてきた。昨日おとついその昔の日、一体何を感じて、何に喜び、何故苦しんだのかすら、もう覚えてない。

まったくもって、無念である。忍びない。僕の心は哀れである。たとえば、一日に、10も20もさくさくとブログを書き上げられるような優秀な、脳と技量を持つ人に、僕のが心が宿ったならば、感じた全ては書き出され、全てが自活し生きるのだろう。いや、書き出すことなどなくても、忘れることなく記憶され、全てが自活し生きるのだろう。

けれども、僕のこの脳と、体に宿った軟弱極まる怠慢さは、僕の心を見殺しにして、それに罪悪感すら覚えずに、のうのうと、ただのうのうと生きている。

それが無念で、心が不憫で、なんとかしてやろうと、100に1つでも構わぬから、ブログに書き出してあげられればと思うのだけれど、入力フォームに辿り着くのは、綺麗に全てを忘れた頃だ。

だから、僕は、入力フォームの前に座り、感じた事を懸命に思い出し、その仔細末尾な感情の1つ1つを懸命に日本語に当てはめ訳し、タイピングし続けるという作業を、もう随分と繰り返している。

けれどもこれには問題があって、僕の心は無駄に機敏で、そうやって懸命に思い出しながらキーボードを叩いている最中にも、無数の事を感じ、それらはやがて群れをなし、濁流のようにして僕を飲み込み「感じたことを思い出す」という僕の懸命な償いは、往々にして中断されてしまう。

悔しくて、悔しくて、ブログ書く。
どうして悔しいのかは、とおの昔に忘れた消えた。