2006年10月24日火曜日

「いじめによる自殺」を起点として「いじめによる自殺」を語るのは、無意味で愚かなことである。



「いじめによる自殺」を、語っているブログを目にした。1度や2度のことではない。あちらこちらで「いじめによる自殺」が語られている。ああでもない、こうでもない、とやっている。今だとばかりに皆がこぞって書いている。しかし、ブログで「いじめによる自殺」を語るというのは誤りである。間違いであり、失策である。


なぜ、「いじめによる自殺」をブログで語ることが誤りであるのか。
答えは簡潔にして明快である。
いじめと自殺はまったくの別問題だからである。

いじめと、自殺との間に明確な関連性が見受けられることは認める。いじめによる自殺件数が7年連続でゼロであるとする文部科学省の統計を信じるつもりなどはない。平成元年以降の公立小中高の児童生徒の自殺者は2415人。2415人中、「いじめによる自殺」であるとされたのはたったの17人。あまりにも少ない。教育関係者が保身のためにつくりあげたでたらめの数字である事は明らかである。事故や病死として処理されたものや、自殺未遂も含めれば、膨大な数になるだろう。
しかし、である。
2005年度の19歳以下の自殺者数は608人。20代の自殺者の最大要因である「失恋」を原因にした自殺も幾らかは含まれるであろう事を考えると、608人という数字は「いじめによる自殺」として大々的に語らねば成らぬほど、大きく重要な問題なのだろうか。僕には、とてもではないが、そのようには思えないのである。
今現在、我が国に、「いじめられている小中高の児童生徒」はどのくらいいるのか。まずはそれについて考えたい。我が国における「小中高の児童生徒」の人数は、約1500万人である。この1500万人のうち、一体、何名の児童生徒がいじめられているのだろうか。

文部科学省の統計では、公立の小中高における平成十七年度のいじめの発生件数は「20,143件」となっている。たとえば、もし、文部科学賞の統計に基づき、我が国で今現在いじめられている学徒の数を20143人とし、同じ統計にある17年度の自殺者105名の全てを、いじめによる自殺であると仮定すれば、いじめられている生徒の約0.5%が自殺する、という事になる。
しかし、文部科学賞の統計を信じる事は出来ない。文部科学賞の統計を鵜呑みにすれば、750人に1人が「いじめの被害にあっている」という事になる。そんな数字を信じる事ができるだろうか?少なくとも、僕には出来ない。
僕は、最低でも、小中高の児童生徒のうち、「100人に1人はいじめられている」と思う。少し思い出してみて欲しい。あなたが小中高の生徒だった頃、クラスにいじめの対象となっている生徒はいなかっただろうか。男女共に学年に数人ずつ、いじめの対象となっている生徒はいなかっただろうか。
実は、本当は100人に1人ではなく、30人に1人くらいはいるだろうと僕自身は考えているのだけれど、さすがにその数字は少し高すぎるようにも感じるので、ここでは100人に1人がいじめられていると仮定して考えることにする。
仮に、100人に1人がいじめられていると考えると、我が国における「いじめの対象となっている学徒」は約15万人となる。


「いじめ」は推定15万人。
「自殺」は実数105人。
いじめられている学徒のうち、1500人に1人しか自殺していない。たったの1500分の1である。ところが、ブログで「いじめによる自殺」を語っている人達は、まるで、自殺こそが、いじめによる最大の問題であるかのように語っている。残りの1499人の存在、残りの14万9895人の存在は、まるでどこかに消えてしまっている。
そして、彼らは「いじめによる自殺」について、様々に語る。ある人は「大人は楽しいよ」と言い、ある人は「身内を悲しませるな」と言う。ある人は「もったいない」と言い、ある人は「いじめを翅にして生きろ」と言う。それぞれが、いかにいじめの対象となっている学徒を自殺をさせないかという課題を軸に、思い思いに語っているのである。
まったくもって、見当がずれていると僕は思う。


「人は何故自殺するのか」を語るのは簡単である。何故ならばそれは、データに現れるからだ。我が国の自殺の最大要因は健康問題(約45%)であり、次の要員は経済生活問題(約25%)だ。人は健康問題で自殺し、経済生活問題で自殺するのだ。十九歳以下で言えば、人は家庭問題で自殺し、生活問題で自殺すると数字に出ている。
しかし、「人は何故自殺しないのか」を語るのは非常に困難だ。我が国に健康問題を抱えている人は大勢居る。経済生活問題を抱えている人も大勢居る。けれども、自殺するのは、そのうちの、僅かな人だ。残りの多くの人は、懸命に、あるいは惰性で生きている。死んでなどいない。生きているのだ。ほとんどの人は死になどしない。生きているのである。
自殺の報道は、それらの諸問題に対する警笛にはなる。我々に「日本国内にそのような深刻な問題を抱えている人が存在する」という事を知らせてくれる。普通に働き、普通に家族と楽しい日々を過ごしている人も、「年間の自殺者が3万人を超えました。」というニュースを目にすれば、「何事か」と思うだろう。輝きに満ち溢れた先進国たる我が国で、死を選ぶ人が大勢いるという事に気が付かされるだろう。
けれども、本当の問題は、「どこかの誰かが自殺した」事ではない。自殺した人の背後には、その何百倍、何千倍もの、同じ問題を抱えている人がいるという事である。自殺者数というのは、その人数の多さをぼんやりと示す1つの参考数値でしかない。
我が国には、たったの30万円の借金を苦に自殺する人間がいる。僅か30万円で日本国民は死ぬのである。その一方で、100億円の負債を抱えながら人並み以上の生活を送り、生き続ける人もいる。100回フられても幸せに生き続ける人もいれば、たった1度異性に冷たくされただけで、自殺する人間もいる。社会的、経済的に大きな成功を収め、結婚もし、子供も作り、幸せに見える日々を過ごしていても自殺する人もいれば、不幸のどん底にあえぎ、死ぬまで拷問のような苦痛に溢れる余生が確定していながらも、生き続ける人がいる。
苦しんでいる人のうち、誰が自殺するのかは、実際に死んでみないとわからないのだ。いじめの例で例えるならば、一週間前までは普通に喋ってくれていた友人に無視されたというだけで自殺する人もいれば、1000万円を恐喝され、暴力をふるわれ、家族や兄弟にまで危害が及んでも自殺しない人もいる。
つまり、自殺者の自殺要因を推測し、状況証拠から確定させ、それを語るのは簡単な事だけれど、次に誰が自殺するかを推測するのは不可能なのだ。次の自殺者に向けて語るのは、意味が無いのだ。酷い言い方をしてしまえば、何を言っても死ぬ人は死ぬ。何も言わなくても死なない人は死なないのである。いつの時代にも、程度の深刻さとは無関係に、様々な要因で自殺する人間はいる。その、規則性の非常に薄い、次の自殺者を仮想のものとして作り上げ、それに向かって語りかけることは、情緒的でこそあれ、実体も実りも無い、虚に満ち溢れたブログであると僕は考える。


結局の所、「どうすれば自殺しようとしている若者を止められるのか」という文章には意味が無い。より強い言葉で書けば、それらは極めて悪趣味なものである。彼ら自殺しようとしている若者や、自殺を考えたことのある若者に向かって語りかける事は、細木数子や、江原啓之、池田大作のやってる事と変わらない。ただアプローチが違うだけである。細木や江原、池田の言葉にも、自殺を止める力はあるだろう。幾人もの人が細木や池田の言葉に勇気付けられて、今の日本を生きているだろう。考えてみて欲しい。彼らの言葉がどれだけ多くの人に届いているのかを。母数の次元が違うのである。その人数たるや、GIGAZINEなどでは話にならぬ。彼らの言葉に救われた人は大勢居る。彼らの言葉によって自殺を思いとどまる事が出来たのだと考えている人は大勢居るのである。その点において、ブログなどより彼らの方が遥かに素晴らしい。優れている。優秀である。しかし彼らは糞である。その理由については書かないが、間違いなく糞である。
「いじめによる自殺」を語り、「生きるべきか死ぬべきか」というテーマを軸に自殺を考えた事のある若者に語りかけているブロガーは、自らが、細木や江原と同じ「機に乗じて弱者の情緒を責める」という言論を行ってしまっている事を、自覚した方がよい。そのようなマーケティング戦略を図らずも選択してしまっている事を認識した方がよい。弱者を、一度でも自殺というものを頭によぎらせた事がある人々を、少なからずたぶらかしている事を自覚するべきである。そして、恥じるべきである。アプローチこそ細木や江原のような醜く汚いやり方ではないとはいえ、まったくもって無意味な方向から、「いじめ」という問題を取り上げてしまっている事を恥じ、悔い改めるべきである。そのような話をしたいなら、いじめとも、自殺とも離れた場所でやりたいだけやればいいのである。


「いじめによる自殺」
その事実を伝える報道は、我々の心を刺激する。まだ人生の半ばをも過ぎていない若者が、理不尽な理由で死に追いやられたという事実は、人々の心を喚起させる題材である。怒りを感じるだろう。やるせなさを感じるだろう。何か書きたくなるだろう。一言、言いたくなるだろう。
けれども、そこで、自殺という二文字の持つ、「事件としてのショッキングさ」に気を取られてはおしまいである。福岡で起きた事件は、ただ、たまたま、センセーショナルな形でニュースに乗ったというだけにすぎない。我が国には公立だけで年間100名の学徒が自殺しており、その背後には推定15万人の「いじめられている学徒」が存在する。
即ち、我々がブロガーとして語らねば成らないのは、自殺ではない。「いじめによる自殺」ではない。「どうすれば自殺を無くせるか」などで決してない。断じて、「自殺者を思いとどまらせる為の文章」などではない。我々が踏み込み、書き進めなければならないのは、「どうすればいじめを減らせるのか」という我が国が抱える問題なのである。
供養、という言葉を使うつもりはないが、「どうすればいじめを減らせるのか」について発言する事こそが、自殺者の無念に少しでも報いる事ができる、ブログで出来る唯一の行動であると僕は考えている。なぜならば、「どうすればいじめを減らせるのか」という文章は、「どうすれば自殺者を減らせるのか」でもあるからだ。母数を減らせば必ず自殺者は減る。その母数を減らすには、という事こそを書かねばならぬのである。


いじめは悲惨である。酷い物事である。よって、それによって自殺する人は、悲惨である。しかし、それと同時に、自殺しない人も悲惨である。
いじめは、小学校、中学校、高校と、全ての年代において存在する。そして、一度いじめの対象となっってしまった人間は、長きに渡りいじめられ続ける。運が悪ければ、12年もの間、継続していじめられ続けるのである。そして、言うまでもなく、それらいじめられた人のほとんどは、自殺しない。生き続けるのである。
社会で生きていく上で、コミニケーションは非常に重要である。コミニケーション能力の高い人、というのは社会人としてうまく生きていくために必要な要素の1つである。長きに渡りいじめを受けた人は、その能力を身に付ける機会を持たないままで、社会に放り出される。いじめられ続けた事による他人に対する不信感が恐怖を生み、過度の緊張に繋がり、対等に会話するという場数を踏んでいないが為に、会話するという能力は極めて低いままで、社会に出なければならない。長年のいじめによるコミニケーション能力習得機会の喪失は、いじめによる被害の最も深刻なものの1つであると僕は考える。
また、いじめから逃れる為に学校に行かないという選択、いわゆる引きこもるという選択も非常に危険なものである。なぜならば、引きこもるという選択肢は、コミニケーション能力習得機会の喪失に加えて、学習機会の喪失という深刻な問題を引き起こす。さらに、家族との軋轢が生まれるという事も考えねばならない。子供が学校に行かないという事態を歓迎する親は極めて稀である。可能な限り「普通の学校生活」を送らせようとするのが社会における親というものの思考であり、学校に行かない、という選択肢は多くの場合親の心情と対立する行動である。「いじめの対象となった人」の抱える問題の中で、最も大きいのは、その逃げ場の無さである。いじめられた人間は学校という閉鎖した空間の中で逃げ場が無いだけではなく、帰宅して尚、逃げ場が無いのである。「いじめられている」と親に向かって訴えられる人がいったいどれくらいいるだろうか。「いじめられている」と親に訴える事で、事態が改善すると考える事の出来る人間はほとんどいないのである。
今現在の我が国の義務教育のシステムは、「いじめは発生しないもの」という前提に基づき作られている。即ち、いじめが発生したという事を学校側が認識しても、対処できるようには作られていないのだ。


我が国の教員給与の国庫負担額は、長きに渡り40人学級を基準としてに算出されていた。つまり、我が国の教育は、学校というシステムの中で、1人の人間に、40人もの生徒を押し付け、それを当然のものであるとしてきたのである。
そして、世の中には、いじめは教師の責任である、現場の人間の責任であるという声が根強くある。それら「教師を責める」という行為は、まったくもって荒唐無稽なものである。社会に出て、育てねばならない直属の部下がいる人は、想像してみてほしい。40人ものやる気も能力も違う人間を相手に間の予定スケジュールから遅れぬように授業を進めながら、生徒同士のトラブルを限られた短い時間の中で解決する事が、どれほど困難なものであるかを想像して見て欲しい。そんなもの、不可能である。1人の人間が限られた時間の中で40人の生徒を管理し、責任を持って接するなど、並みの人間には不可能である。
教師が生徒と向き合う事が出来る時間の何倍もの時間を、生徒は生徒同士で過ごす。しかも、40対1だ。おまけにクラスという閉鎖空間の中で1人の教師に全ての責任を背負わせて任せきり。そんなものはなから無理である。いじめに対して向き合わず、事なかれ主義で1年間やり過ごせればいいと考える教師が増えて当然である。


いじめを減らすにはどうすればいいか。その深刻さを和らげるにはどうすればいいか、という課題に対する第一の答えは、言うまでもなく、教師を増やす事である。徹底的に、増やしまくることである。
教師を増やすと言うと、反感を得るかもしれない。なにしろ、我が国において、教師はその給料の高さと保証の手厚さから、目の敵にされている。社の倒産とも、リストラとも無縁で、慣れない部署に転属されて他の仕事をやらされる事もない。退職後の保証は厚く、帰宅時間も安定している。それなのに、今現在教師を1人増やせば、生涯で4億~4億5000万円もの人件費が必要となる。
確かに、その点だけを見て考えれば、教師を増やすことは馬鹿げているように思える。しかし、馬鹿げているのは教師を増やすことではない。生涯保証付きで高所得の特権階級を増やすことが馬鹿げているのである。教師を増やすことは、まったく馬鹿げたことなどではない。極端に単純化して言えば、教師の生涯収入を半分にすれば、同じ金額で2倍の教師を雇えるのである。今すぐにでも、そうするべきである。


なぜ教師を増やさねばならぬのか。その最大の意義は、教師と生徒間に形成される、1年に及ぶ閉鎖空間の解体である。現状の、1学級につき1人の教師という体制において、学級とは、完全なる閉鎖空間である。外部の人間は、基本的に、学級の内部で何が起こっているかを知ることが出来ない。
暴力などによって表面化した場合は別であるが、そうでない場合は、往々にして事なかれ主義の大本営発表が行われ、いじめの実態は閉鎖した空間の中から出ない。文部科学賞の出した数字を見れば、そのようにして無数のいじめがもみ消され、表面化することなく数字に出ないままで抹殺されていったであろうことが容易に推測できる。現在の1教師1学級というシステムを続ける限り、いじめの事実は表面化しないものなのである。親が学校に怒鳴り込むか、自殺した場合を除いては。
つまり、僕がなぜ教師を増やせという主張を行うかというと、それは学級という閉鎖空間の解体を求めているからである。1人の教師が口を閉ざせば、いじめの実態が簡単に揉み消せてしまうという、現状の制度を改めることを求めているのである。

少し離れた話になってしまうが、ロシア軍ではいじめが横行しており、昨年の数字で言えば、いじめの発生件数は約二万件で、年間500人以上がいじめが原因で自殺し、5000人以上がいじめを原因にして脱走したという。我が国のいじめ問題は、ロシア軍が抱えるいじめ問題と幾らかであるが、共通点がある。
共に外部から閉ざされた閉鎖空間(ロシアは軍という特殊な環境、我が国は1学級1担任制度)で、共に逃げ場が無い(ロシアは18ヶ月~24ヶ月の徴兵制で、我が国は9年間の義務教育)という共通点を持つ。つまり、いじめ問題を解決するには、閉鎖空間を解体し、それと同時に逃げ場を用意する以外に道はないと、僕は考えるのである。
「担任が複数いる」という事が、逃げ場として機能するかどうかについては、わからない。率直に言うと、機能するだろうけれど、その効果は極めて僅かだと思う。ただし、1人の人間が口を閉ざせば外部からは何が起こっているかを知ることが出来ない閉鎖空間を解体する、という点については、その効果は甚大だろう。

例えばである。単純に教師を4倍にしたとする。1学級20名2教師か、1学級30名3教師である。おそらく、いじめは減るだろう。劇的には減らないかもしれないが、幾らかは改善されるだろう。2倍でもいい。1学級2教師である。1学級につき2名の教師を配置すれば、システム的に、1名を常時教室内に配置し続ける事が可能となる。休憩時間も、朝夕も、常に教室には教師がいる、という状況を作り出せる。暴力や、物品の破壊といった、極端なものについては、抑止、軽減する事が出来るだろう。いじめの中で最も深刻である、精神的なダメージという点についても、少なからずの効果が見込めるだろう。基本的に、いじめは教師の目の届かないところで行われるのである。
それだけでいじめが劇的に減るか、となると答えはNOである。教師を増やせば、教師の目の届く範囲が増え、教師の目の届く範囲でのいじめは減る。しかし、教師の目の届かない場所で、いじめは生じ続けると思う。


なぜか。
答えは、簡単である。教師には権限が無い。教師にあるのは、制約だけである。まずスケジュールという制約があり、いじめを無くす事に授業時間を費やしてはいられない。自由に使える時間は極めて限られている。さらに、生徒に罰則を与えることが出来ないという制約がある。体罰は行う事が出来ないし、問題生徒を追放する事も不可能である。そればかりか、被害生徒を避難させる事すら出来ない。
つまり、我が国にはシステムが存在しないのである。いじめは発生して当然であるという見解に基づいた準備を行えていないのである。いじめは発生しないという前提に基づき作られた教育システムなのである。いじめの発生を抑止するというシステムも無ければ、いじめが発生した際にどのように解決するか、という準備もない。
それどころか、今現状の義務教育というものは、いじめが発生するようなシステムの中で行われているのである。作り出された閉鎖空間の中で、教師には制約のみが与えられるという、いじめが発生して当然の状況が作り出されているのである。
即ち、いじめとは、システムの問題である。「いじめによる自殺」とは、システムの問題である。現状の制度を貫く限り、並の教師に取れる手立ては非常に少なく、狭い範囲のものであり、解決できる可能性は無きに等しいのである。にもかかわらず、いじめによる自殺が生じる度に、「教師が悪い」「学校が悪い」「教師は、学校は、いじめの事実を知りながら何もしてくれなかった」という声がセンセーショナルに電波に乗る。それに押されて世の人は、いじめに対する根本的な解決する為の策も権限も与えられていない、教師を非難するのである。これは、間違いである。現在の我が国におけるいじめとは、失政なのである。政府の責任なのである。


では、どうすればよいと考えているのか。
全ての学校に警官を置く。それ以外に手は無いと考えている。全ての学校に警察署(派出所)を併設する。以前にも書いたが、特に深刻ないじめを減らすのに最も効果的なのは、警官の配置であると考えている。他に道は無いと考えている。
いじめ問題が語られる度に語られるのが、体罰である。体罰を禁止されているが故に生徒はつけあがり、教師を恐れない、いじめを阻止できない、だから体罰を解禁しろ、というものである。この声には、賛同できない。体罰を解禁しても、いじめが減るとは考えられないのである。まず第一に、体罰を行える教師というのは、限られている。教師の半数近くは女性であり彼女らの皆が皆、体罰を行えるとは思えない。また、暴力という懲罰を与えるには、最低限度、手続きを踏んだ上でなければならない。単純に体罰を認めるということは、裁判にあたる手続きも無しに、教師にただ暴力を振るう権限を与えてしまうという、まったくもって悪い冗談でしかないのである。
しかし、警官の配置は、体罰とは全く違う性質のものである。警官には元々権限が与えられている。彼らには職務がある。我が国の治安を守る、という職務である。同時に教師にも職務がある。我が国の青少年を教育という職務である。
そして、学校とは、1つの社会である。そこでは犯罪も発生する。即ち暴力を伴ういじめ、物品の破壊や強奪を伴ういじめ、金銭の恐喝を伴ういじめといった、明らかな犯罪行為が発生する。それに対して、動かなければならないのは教師ではない。それは警官の職務である。それら犯罪を抑止し、取り締まるのは、教師ではなく、警官の役割なのである。
全ての学校に警官を配置する事、より進んで言えば、全ての学校に派出所を併設することは、いじめの抑止力としての効果を生むだろう。登校する生徒に対して、"起き掛けで機嫌の悪いジャージの体育教師"などではなく、拳銃を所持した制服姿の警察官が校門に立ち挨拶する事は、学校という教師と生徒のみという閉鎖空間に風穴を開けるものであり、治安の改善と維持に明らかな効果があるだろう。極めてシムシティ脳な考え方であるが、必ず効果があるものと考えている。
警官は、生徒に対する外部の目として機能するばかりではなく、教師に対しての外部の目としても機能する。警察官が餓鬼の面倒を見るなど馬鹿げている、と仰られる方もいるかもしれないが、学徒も日本人である。学校も社会であり、我が国の一部である。その治安を維持する為に、その職務と権限を持つ人を配置するのは、当然の事なのである。有罪が確定した人間は皆、昔学生だったのである。
さらに、学校内に警察官がいる、派出所があるという事は、いじめられた生徒にとって、逃げ場があるという事である。現状の学校には、いじめられた生徒に対しての逃げ場として機能する場所が用意されていなかった。ロシア軍と同じように、脱走(登校拒否)するか、自殺するかしか無かったのである。
警察官と生徒との距離を縮めるという事は、犯罪行為を伴ういじめを受けた生徒が、初期の段階で、その被害を訴えるに最も適切な場所が、すぐそこにあるという事である。もちろん、そのような訴えが行われた時に、警察官がどのように対応し、いじめを絶つために必要な対処を行うかについては、きちんと整備する必要がある。


現在の日本の教育システムの中で、いじめの対象となった人間の逃げ場となっている場所はどこなのか。最後に、それについて書いておきたい。
今現在、いじめの対象となった生徒の唯一の逃げ場は、自宅の子供部屋である。俗に言う、引きこもりというものである。しかし、逃げ場としての自宅、自室というものには、問題が多すぎる。
何故ならば、我が国には、自室で教育を受けるシステムというものが用意されていない。学校にはいじめを抑止軽減する手段が用意されておらず、尚且つ逃げ場も無く、そして唯一の逃げ場として存在する自宅には、教育のシステムが無い。
義務教育の名のもとで、一切登校しなくても、全ての生徒が、義務教育を修めたものとして扱われ、自宅、自室を逃げ場として選択した彼らには、学習機会が与えられていない。教育が与えられていないのである。
この逃げ場が用意されていないという問題によって、「学校に通う」以外の選択肢が用意されていない社会の圧力によって、親は子を無理やりにでも学校に通わそうとし、その親の期待がいじめの表面化を妨げ、長期化を招き、子供が親にいじめられているという事実を伝えられないという現象に繋がっているのである。
これは、失政である。システムの欠陥である。あらゆるプログラムにエラーが存在するように、あらゆる場所にはいじめが発生する。具体的に処理しづらく、「人間関係のトラブル」と言い換えてしまえるような、警察官を配置し、教師の数を増やしても解決しづらい精神的ないじめに対しては、「逃げ場を用意する」以外の解法は存在しない。
その、どのようにしても発生してしまう、いじめを原因にした引きこもりの学徒に対応したシステムを用意し、いじめにより引きこもる事が、社会の底辺への転落とイコールで結ばれてしまっている現状を、改善し、一変させる必要がある。


よく、巷では、何らかの分野において一定以上の成功を収めた人間が「私もいじめられていました。」と発言し、「だからあなたも生き抜いて。」という、精神論以外の何者でもない、いじめられた人間であっても、頑張れば必ず一定以上の成功を収め、人並み程度に幸福な人生を過ごせるかのような主旨を垂れ流し、世の人々はそういった発言を、逆境を跳ね除けた感動のストーリーとして受け入れ、支持し、熱い喝采を送っている。
茶番である。まったくもって茶番である。成功を収めた人間が、自らがいじめられていた事を明らかにするのは良い。いじめられている人を勇気付けるくらいには、役立つ事もあるだろう。しかし、それによって、いじめが減る事は決してない。いじめの対象者をどれだけ美しく力強い言葉で勇気付けたところで、いじめは減らないのである。
いじめ対象者を勇気付けた結果、より懸命に学校に通い、よりいじめが悪化する中で生活を続け、その頑張りがより悪い結果を招くこともある。無論、全否定しているわけではない。しかし、重ねて言うが、いじめの対象となっている人間をどれだけ勇気付けたところで、いじめは決して減らないのである。即ち、いじめによる自殺は決して減らないのである。
そして、いじめられる人間は、誰しもが優秀な人間であるわけではない。誰しもが、素質に溢れた人間ではない。英国の皇太子が言っていたが、誰もがパイロットやサッカー選手になれるわけではないのである。いじめられている人間の中には、当然優秀な人間もいるだろう。さきほどの仮定を思い出してみてほしい。我が国の現時点におけるいじめ対象者は、100人に1人と見積もっても15万人いるのである。30に1なら45万だ。
当然、その中には、特筆に価する才能を持った人間もいるだろう。どのような逆境に身を置いても、そこから抜け出し、成功を手にする事が出来る優秀な人間もいるだろう。強い精神を持ち、自分を信じ、あらゆる苦難に打ち勝つ事も出来る人間もいるだろう。中には、その才能、成績の優秀さが故に、いじめられていたという人もいるだろう。
しかし、それら一握りの人を一般化して考えてはならない。彼らの言葉に必要以上に耳を貸してはならない。15万人のうちの、僅か105名が自殺するように、15万人のうちの、僅かな人間だけが成功を収めるのである。その陰には、常に、膨大な数の人々がいるのである。
たとえば、単純に、いじめ対象となった人間の生涯賃金を想像してみればよい。あなたが、学校生活において実際に目にしたいじめ対象者は、才能に満ち溢れていただろうか?客観的に見て、社会的に成功を収める可能性が高い才気の持ち主だっただろうか?性格的に、どのような人物だっただろうか?彼らは一生のうちで、どのくらい稼げただだろうか?人並み以上だろうか?人並み以下だろうか?
もちろん、これらの問いかけと、それに続く主張が、万全のものであるとは思わない。性質の悪いものだという事も理解している。しかしながら、書こうと思う。
いじめの対象となる人間の大多数は、「何らかの要素が平均レベルよりも劣っている人」である。その劣っている要素とは、ある者は学力であり、ある者は肉体的な能力であり、ある者は外見的な能力であり、ある者はコミニケーション能力である。
それら、特定の能力が劣っている人間が、自宅を逃げ場として選択した時に、なにが生じるか。それは、元々存在していた能力格差の拡大である。普通の人間が、あるいはいじめている側の生徒が、毎日学校に通う為に歩き、毎日他人と挨拶をし、毎日運動し、毎日4時間から6時間の学業を修め、毎晩出された宿題をこなしている間に、自宅を逃げ場として選択したいじめ対象者は、ただ、呆然と、時間を過ごす以外に道は無い。
一定以上の、教育的ゆとりを所持している平均以上の家庭であれば、様々な選択枝を視野に入れる事が可能だろう。家庭教師を雇うなどの対応もできるだろう。自分の子供が一定以上の学力を持っているという事を理解している親なら、小中と学校に行かずとも、高校や大学に行かせればよいと、そう説き、合意を形成し、その為に動くことも出来るだろう。
しかし、経済的にゆとりがなく、自分の子供の学力が平均的か、平均以下であるという事を理解する、一般家庭の親は、子供が引きこもったという事実を、純粋に100%ネガティブなものとして捉える。当然、必死で学校に行かせようとするのである。なんとしても、能力格差の拡大を阻止しようとする。親心である。学校という教育の場へと送り込もうとする。世間体もある。「学校に怒鳴り込んだから」あるいは「先生にちゃんと言ったから」などと自らの動機を正当化させ、学校に行かせようとするのである。
対して、一度自宅を逃げ場として選択した学徒は、学校へ再び行きたがらない。引きこもったという事は、忍耐の限界を超えてしまったという事である。彼らは、制約だらけの教師が1人いるだけの、我が国の治安を維持するという職務を帯びた警察官もいない学校へと再び足を運ぼうとしない。いじめ対象者の多くが、複数年にわたりその対象となっているのであり、彼らは経験上、どのような教師も、いじめにたいする決定的な解決能力はおろか、軽減能力すらまともに有していないという事を知っているからである。現状の学校は、いじめ問題を解決する能力を有していないという事実を知っているのだる。
即ち、現在の日本において、自宅は、言い換えるならば「家庭」あるいは「家族」は、逃げ場として機能していないばかりか、再びいじめが必ず発生する場所へといじめの対象となった学徒を送り込むだけの場所として機能してしまっているのである。
この、惨憺たる現状を改めない限り、いじめにより社会の底辺へと転がり落ちる人は、決して減らない。いじめの被害者を減らすことは出来ない。


つまり、現状では逃げ場として機能していない場所である「自宅」を、現状では人生の放棄としてしか機能していない「自室」を、逃げ場に変化させる必要があるのだ。いじめの対象となった学徒が取りうる1つの選択枝へと昇華させるべきなのである。
即ち、国は、政府は、いじめとは、どのような対策を用意しても必ず生じてしまうものであり、完全に無くす事は不可能なものであると認め、それによる登校拒否も当然生じるものであると認め、それが必ず生じてしまうものである以上は、彼ら登校拒否児童に対する教育システムを用意するべきでなのである。
現状の事なかれ主義を改め、全ての問題を浮き彫りにするべきであると認め、その発生と報告を恥じることをやめ、構造的な隠蔽体質に終止符を打ち、執拗な精神的ないじめ等の、教師が何を言ってもなくならないどころか、時としていじめの巧妙化、悪質化を招いてしまう危険性があるような、教師には到底解決不可能ないじめを受けている児童に対して、「自宅に逃げてもいいですよ」という提案が出来るようにすべきなのである。

その為に、自宅を逃げ場として機能させる為に、自宅で教育を受けるシステムを用意すればよいのである。まず、登校拒否児童を担当する教師を用意する。幸いにしてこのような時代であるから、ブロードバンド端末の貸し出しによる遠隔授業というものも可能だろう。もちろん、閉鎖空間に閉じ込められたものとしての登校拒否児童に対する処置として、最低でも月に1度、可能であるならば2度以上は各家庭を訪問する必要がある。その訪問における教師の役割は、登校拒否児童に対して自らの将来図というものを具体的に認識させ、高校からの社会復帰、大学からの社会復帰、就職による社会復帰の為に必要な能力習得を認識させる事である。これも丁寧にマニュアル化し、教師の練度も高めねばならない。
と言っても、現状の登校拒否児童に対するそれと比べれば、遥かに難易度の低いものとなるだろう。何故ならば、現状のいじめによる登校拒否児童の抱える問題は、そのほとんどが、システムの問題なのである。いじめに対する対処能力を全く所持していない学校という閉鎖空間の問題であり、国の教育行政の問題なのである。
現在の1人の教師に対して40人の生徒というシステムを維持したままでそれを行えば、登校拒否児童の優遇であるとの非難が出るだろうが、教師を2倍以上にして1人の教師に対して10~20人の生徒という比率にまで持っていけば、登校拒否児童担当の教師も出席児童担当教師とほぼ同数の生徒を担当する事が可能となるので、そのような非難も和らぐだろう。これは、登校拒否児童の引きこもりへの転向を抑止し、150万人とも言われる引きこもり人口の削減にも繋がるものである。


最後に、金の話である。
予算の側から見た話である。
教師数を4倍にし、全ての小中学校に派出所を併設し、警察官を1名ないし2名置くという提案が、いかに膨大な予算を必要とするものであるかは理解している。さすがに、いくらただの主張であるとはいえ、4倍は少し無茶な数字かなとも思わないでもない。しかし、全てが荒唐無稽であるとは考えていない。
現状では、教師1人を雇えば4億~4億5000万円もの人件費が必要となる。これは、勤務時間や、労働内容と比較すれば、まったくもって凄まじいとしか言いようのない金額である。しかも、特権階級的な地位まで与えられるときては、国民世論が教師に対して否定的な感情を抱き、厳しくあたるのも当然である。
その反感の元となっている特権階級的な地位を剥奪し、生涯賃金も、半分とまでは言わないが、それに近い額にまで引き下げる。また、教師の数を増やすと同時に、校長や教頭といった地位は一般教師の兼任とし、減らせる所は徹底的に減らす。言うならば、問答無用の、強い意志をもった、痛みを伴う改革というものを、教育にこそ断行せねばならない。
「給与を減らし、特権的地位を剥奪すると、人材が集まらなくなる」という指摘に対しては、少し答えづらい。しかし、そのような心配は無用であると考える。特権階級的な地位を剥奪すると言っても、無能な教師をリストラするわけでもなければ、会社が倒産して路頭に迷うというリスクも無い。午前0時まで残業をさせられる事も無いのである。宿題の処理や授業の準備にしても、1学級2教師にすれば大いに軽減される。
たとえ生涯賃金を半分程度にまで切り下げたとしても、教職を魅力あるものと考える人は一定以上いるのではないか。また、純粋に教師になりたい、という夢を持ち、意志と意欲を兼ね備えた人を、きちんと教師として採用する事が可能となるのではないか。十二分に人材は集まるだろうと、楽観的ではあるが、予測するところである。
一方、警察官を置く、という事に関しては、どう足掻いても莫大な予算が必要となる。現在の、派出所の削減するという国の方針からは完全に逆行する案であるし、残念な事に警察組織も1つの閉鎖空間であり、その極端な増員には色々な問題も生じるだろう。しかし、それであっても、全ての小中学校に警察官を置く、というものは実行するに値するものだと思う。少なくとも、語るを許される程度の価値は有していると考える。
警官は学校の荒れに対してこの上無い抑止力と、決定的な処理能力を有しているという点において、警官の学校への配置は、いじめに対する効果だけではなく、教育への相乗効果も期待できるものである。




現在の我が国が国家予算を最もつぎ込むべき場所は、どこだろうか。それは、未来である。ここで言う未来とは、少子化対策であり、教育改革なのだ。あらゆるインフラよりも、人材育成こそが重視されるべきなのである。2006年のインターネットを闊歩する人達は、誰一人として、100年後の日本を生きてはいない。その、100年後の日本のために、100年後の世界のために必要なのは、次の世代、そのまた次の世代を担う若者の育成なのである。即ち、教育である。そして、教育とは金がかかるものなのだ。無論、予算を投じるべき場所なのである。
いじめを減らすのは簡単である。改革を行うだけで良い。
それを行わないのは国家の怠慢であり、未来に対する犯罪である。