2006年10月25日水曜日
「自分にしか書けないこと」を探して悩む必要など無い。
到来である。
100億全人類ブロガー時代の到来である。
どこもかしこもブロガーで埋め尽くされている。
地球上で、ブロガーのいない場所など、もはや存在しない。
K2峰の頂で、マリアナ海溝の海底で、アマゾンの森の奥深くで、人知れず今や目覚めんとするブロガーの野望が蠢いている。収縮を繰り返し、殺ぎ落とされ、凝縮されて膨らんだ幼羽抜けきらぬブログの翼が、リアルの風を切り裂いて、ワールドワイドウェブの水平線の向こうへと、飛び立ち彼方へ消えてゆく。その群れ、太陽を遮り、荒野に帳、摩天楼に停電。新月の夜の嵐の如し。惑星軌道の彼方でも、ブログの野心が黒く煌き、夜空の果ての向こうまで、タイピングの音が響き、渡り、共鳴し、この世の全てを震わせている。今や宇宙が揺さぶられ、ブログによって揺れている。
悪夢である。
これは、悪夢である。
もはや、この地球上で、いや、この狭い世界で、1人のブロガーが世界の新たな1ページとして、ブログのエントリーを書く事など不可能なのである。
悪夢である。
それを悪夢であると考える者にとっては、悪夢である。
この狭く短い宇宙の歴史に、未知なる1ページを追記するためにブログを果敢に書かんとする者にとっては、確かにそれは悪夢である。しかし、幸いである。幸いにして、この狭く短い宇宙の歴史に、未知なる1ページを追記するために、ブログを書いている人間など、ただの1人も存在しない。誰もが、凡庸で、狭く、小さな野心に基づきブログを書いている。些細で、取るに足らない、ありふれた欲望に突き動かされてブログを書いている。
即ち、これは、悪夢ではない。我々がブログを読む事により知るのは、未知の中から形作られた宇宙の歴史の新たなる1ページなどではなく、人間とは、人とは、即ちブロガーとは、それぞれ様々な心を持つ存在であり、その心と心の間には、大きな違いなどなく、誰もが凡庸であり、極めて似通った存在であるという事である。
そして、そのほぼ同質に似通う中でもそれぞれに、小さく違っているという、当たり前にして当然の、周知の事実を読むのである。あるいは些細なそれぞれの、共通点を目にしては、通じるなにかを感じ取り、当たり前にして当然の、小さな揺れを得るのである。
それが、ブログである。
地平線の彼方まで続く100億のブログの巨大な群れの末尾にすぎぬ1つのブログに、ただ1人にしか書けぬエントリーがアップロードされる事など、決して無いと知り覚え、それに怯える事などは、今すぐ止めるべきである。
個性であるとか、オリジナリティであるとか、私らしさであるとか、そういったくだらない言葉に、子供じみた幻想に、能無しどもの能書きにに、100万ボルトを流し込み、叩きのめし、燃えカスにし、踏みつけ、その彼方へと歩みだすのだ。
ブログは、人を縛り付ける制約などではない。ブログは、人を束縛し萎縮させるゴム鋼鉄の拘束服などではない。ブログは翼である。人を自由にする翼である。二度の大戦を経て、核の恐怖を乗り越えて、人々が手に入れた、輝く自由の翼である。
即ち全てのブロガーは、あらゆる物事に怯えるべきなどではない。匿名コメンテーターの罵詈雑言を恐れ縮こまるべきではない。記名コメンテーターの長講釈にうんざり折れるべきではない。id:otuneの無言ブックマークに夜道で単車につけられるような恐怖を感じる必要などない。徳保隆夫やスタパ斎藤の嫌絡みに萎縮する必要なんてない。何も恐れる事は無い。一切の制約を設けるべきではない。ただ1つ、胸にブログを持つべきである。
「自分にしか書けない事」を探して悩む必要など無い。「叩かれない妥協点」などに指打ち進める必要も無い。そこには、もう、先人がいる。K2の峰を駆け上がっても、マリアナの底まで潜っても、アマゾンの奥へと分け入っても、既に誰かが歩いた後だ。ブロガーはただひたすらに、誰かが鉈で切り分けた、道を書き進むだけでよい。なにも恐れる事はない。怖がるものなど何も無い。そのブログという自由の翼を、ただ懸命に動かせばよい。飛ぶも落ちるも八卦である。
Dont Think GOだ。考えるのではない。感じて、考えて、ブログを書くのだ。考えている暇があったら、その考えをブログに書くのだ。悩んでいる暇があったら、その悩みをブログに書くのだ。感じたことをブログに書くのだ。幻想を打ち砕き、ただひたすらに進むのだ。幻想に捕われて、立ち止まらずに歩むのだ。ブログの翼で羽ばたいて。
僕は、向けて、旅立つぞ。
今夜宇宙の頂点へ。