貧民は、人を好きになってはいけない。



あなたが、良識有る、健全な、日本人であろうとするならば、スターバックスで買ったばかりの本日のコーヒーを、道行く人にぶっかけてはいけない。

なぜならば、道を歩いていて、いきなり、コーヒーをぶっかけられると、迷惑だからである。それも、ただの迷惑ではない。大変迷惑なのである。コーヒーの染みは中々落ちないのである。故に、スターバックスで買ったばかりの本日のコーヒーを、道行く人に向かって、ぶちまけてはならないのである。
















僕は、何一つ、おかしなことなど言ってはいない。僕が今ここで主張しているのは、人として、至極、当然、当たり前のことである。より正確に書き示すならば、これは主張ですらない。何一つ、主張などしていないし、主張しようともしていない。現実に従い、ただ、淡々と、事実を述べているだけである。




世界は、不心得者で満ちているからして、今し方この場に置いて行われた事実の羅列に対して、懸命至極必死になって、反論してくる人が存在するかもしれない。「スターバックスで買ったばかりの本日のコーヒーを、道行く人にぶっかけても構わない。」と、反論してくる人がいるかもしれない。

「本日のコーヒーは、私が自ら代価を支払って購入した物だから、それを飲むのも自由であるし、飲み残すのも自由であり、道行く人に向かってぶちまけるのも自由である。」と、反論してくる人がいるかもしれない。

「本日のコーヒーをぶっかけられると迷惑であるというのは、<あなたの個人的な見解>でしかありません。広い世界は十人十色、本日のコーヒーをぶっかけられる事を夢見ながら道を歩いている人だっているわけです。もしも、本日のコーヒーをぶかっけられた人間が迷惑だと思ったならば、我が国は法治国家なのですから、法的な手続きを踏んで、私を告訴して、賠償金を奪えば良いのです。」と、反論してくる人がいるかもしれない。

「道を歩いていて本日のコーヒーをぶっかけられたくないというのはゆとり世代特有の甘えだ。そんな軟弱な人間は道を歩くべきではない。」と、反論してくる人もいるかもしれない。

「道を歩いていて本日のコーヒーをぶっかけられた事すらないような人なんて、底が知れている。何事も経験。経験無くして成長無し。」などと、反論してくる人が居るかも知れない。




けれども、それらの主張は、今更僕が書くまでもなく、全て間違いである。
何よりも明らかな誤りであり、詭弁ですらない。


















自由は、何よりも肝心である。人は、元来自由である。その本来の姿、即ち自由を妨げようとする物があるならば、それは悪である。明確なる悪である。即ち、「スターバックスで買ったばかりの本日のコーヒーを、道行く人にぶっかけてはいけない」という主張は悪の主張であり、そのような主張を行う人間は、疑う余地無く悪の人間である。何らかの思想に基づいて、人が人として生きることを妨げようとする、悪の根源の手先である。

人は自由であり、世界は自由であらねばならない。







自由は、大事である。
何よりも、肝心なことである。
だからこそ、用心せねばならない。


肝心要の事柄というのは、肝心要であるが故に、必ず悪用される。
それは、必然である。何故ならば、悪とはそういうものだからである。

取るに足らない物を利用して、取るに足らない物を奪うのは悪ではない。
肝心要大切な物を利用して、肝心要大切な物を奪って行くのが悪なのである。













たとえば、命は大事である。

命は大事であるが故に、悪用される。「癌が治る」とか、「アトピーが消えた」といった類のでたらめで、藁をもすがる思いの純朴なる人民から、金やら、尊敬やら、崇拝やら、そういった類のものを得ている人が、大勢いる。命は大事であるが故に、命は悪用される。




たとえば、現金は大事である。

現金は大事であるが故に、悪用される。「5年で2倍」とか、「年間利回り20%」といった類のでたらめで、老後の足しにと算段した善良で夢見がちな純朴なる人民から、金を巻き上げ、あるいは働かせ、欺き、騙し、釣り上げて、利している人が、大勢いる。現金は大事であるが故に、現金は悪用されるのである。




たとえば、平和は大事である。

平和は大事であるが故に、悪用される。「悪の枢軸」とか、「大量破壊兵器」といった類のでたらめで、平和と平等を愛し、戦争と人権侵害を憎む人民を欺き、騙し、負担を強い、戦場へと赴かせ、それにより、利を得ている人が、大勢いる。平和は大事であるが故に、平和は悪用されるのである。








即ち、警戒せねばならない。
己の利のために、自由を騙る輩。
己の利のために、自由を利用とする輩。
己の利のために、自由を名乗り自由を破壊する輩。
我々は、立ち上がり、それらと闘い、そして滅ぼさねばならない。


「スターバックスで買ったばかりの本日のコーヒーを、道行く人に向かってぶちまけても構わない。」と主張する者を、炙り出し、追い詰め、一人残らず引っ捕らえ、縛り上げ、スターバックスで買ったばかりの本日のコーヒーをぶかっけねばならないのである。















不自由とは何か。
それは、自由の総体である。


不自由とは、自由の積み重ねであり、自由の集合体である。
即ち、純然たる不自由とは、純然たる自由のスフィアである。




自由とは何か。
それは、不自由の総体である。

自由とは、不自由の積み重ねであり、不自由の集合体である。
即ち、純然たる自由とは、純然たる不自由のスフィアである。










「スターバックスで買ったばかりの本日のコーヒーを、道行く人に向かってぶちまける自由」といった類の、数々の、無限に等しい自由が積み重なり、結びつき、巨大化して出来上がる物が、不自由である。たとえば、<何不自由ない暮らし>の総体は不自由である一方で、<自由な半生>の総体は不自由である。

即ち、自由を主張し、自由を叫び、自由の御旗の元で、自由を広めようとする人達が招くのは、自由ではない。彼らの言う自由によってもたらされるものはただ一つ、不自由即ち悪である。

それらの悪から、我々は守らねばならない。自由を守る光の戦士として立ち上がり、彼ら、即ち本日のコーヒー派と呼ばれる一派と戦わねばならない。そして、滅ぼさねばならない。二度と立ち上がれぬように叩きのめさねばならない。それらが繰り返されぬように、彼らを根絶せねばならない。

無論の事、それは、達しがたい困難な事柄である。
この世界において、悪ほどに、たやすい事柄は他にない。








例えば、この中にNEET、ワーキングプア、チビ、デブ、ぶさいく、がいたならば、あなた方は、恵まれている。悪の素質に恵まれている。悪の才能があると言ってよい。

たとえば、NEETでも、ワーキングプアでも、チビでも、デブでも、ぶさいくでも無い何者かが、「我、悪たらん」と志したならば、それは成しがたく、達しがたい、極めて困難な道のりである。

NEETでも、ワーキングプアでも、チビでも、デブでも、ぶさいくでも、ライブドア社員でも無い何者かが、「我、悪たらん」と志したならば、彼らが取り得る選択肢は、「自由を主張する事」だけである。自由を主張し、自由の為に立ち上がり、自由の為に闘い、自由を体現する事だけである。世界100億の不自由に立ち向かい、一寸たりとも抜かることなく戦い続ける事だけである。





しかし、あなたが貧民であったならば、そのような、困難な闘いに身を投じる必要はない。貧民が「我、悪たらん」と志したならば、誰かを好きになるだけでよい。貧民、即ち、経済的困窮者ではなく所謂<まずしいもの>に好かれるという事は、道を歩いていて、本日のコーヒーをぶっかけられる事よりも、遙かに迷惑な事である。上着についた本日のコーヒーは、クリーニングに出せば綺麗になるし、万が一落ちなくても、また再び上着を買い直せば済む。しかし、貧民即ち<まずしいもの>に好かれてしまうと、それはもう、人生おしまいである。人生に傷が付き、それはもう二度ともとの姿には戻らない。

つまり、世界を恨み、世界を憎み、世界を破壊せんと企む貧民は、適当な誰かを好きになればよい。簡単な事である。ただそれだけでよいのだ。大学に、爆弾を送りつける必要もなければ、給油に訪れる人をロングライフルで狙撃する必要もない。ジャンボジェットをハイジャックしてビルディングに突っ込む必要もなければ、高層ビルの地下駐車場に時限爆弾を仕掛ける必要もない。

ただ、誰かを、好きになり、身を賭して思うだけで、盤石に思えたる鉄壁の兄弟で絶対なる世界に、痛恨の一打を加える事が出来るのである。







即ち、世界を愛し、世界を尊ぶ我々には、本日のコーヒーを道行く人に向かってぶちまける自由は無く、本日のコーヒーを道行く人に向かってぶちまける自由も決して訪れない。それら不自由の総体こそが、世界人類一人一人が手にするべき人間本来の姿である自由そのものであり、同様に、人として、一人の人間として、世界を愛し、世界を尊ぶならば、芳情を持たざる貧民は、決して、人を好きになってはならない。この秋新作の青林檎フラペチーノのように。




悪を憎み、悪を嫌う。
do、not evil。