夢が希望に成り果てる時。



「夢とは願いの単数形であり、希望とは願いの複数形である」
とは、彼のリヌスミケルスの言葉である。




いや、実のところ記憶が曖昧模糊としており、あれはリヌスミケルスの言葉ではなく、マークキューバンの言葉であったかもしれない。はっきりした事は言えないし、どちらかと言えば後者だったような気がするけれど、今、ここでは、そんなことはたいした問題ではない。何故ならば、夢とは願いの単数形であり、希望とは願いの複数形であるからである。




正直に言ってしまうと僕はいつだって正直だ。そのいつだって正直な僕が正直に言ってしまうと僕は、曖昧模糊という四字熟語が好きである。大好きである。常にその使用機会を伺っている。曖昧模糊の四文字を使いたいが為にブロガーになった、と書いても決して誇張にはならない程である。「いもこ」という響きがたまらなく好きなのである。他に理由は無い。そんな安直な理由において、今日は今日なで曖昧模糊を語り、明日は明日なで小野妹子を語るのである。明後日は大統領選挙について語る予定である。
















夢とは願いの単数形であり、希望とは願いの複数形である。
これは、昨晩僕が凍えながら発見した事実だ。

誤解の無いように弁解しておくと、僕は夢というものを希望よりも優れたものと位置づけるつもりもなければ、その逆に希望というものを夢よりも優れたものだと説くつもりもない。夢と希望の違いは、ただそれが、単数の願いであるか、複数の願いの複合体であるか、というあまりに些細なものでしか無いのである。

そしてまた、夢というものが願いの単数形であり、希望というものが願いの複数形であるという明確な事実について書くつもりも、毛頭無い。だってそれは、もう何百年もの昔から幾多の人々が論じその確かさを証明し続けてきた何よりも明確な事柄だからである。僕の疑問はただ1つ、夢と希望のどちらが容易く抱けるものなのかという一点のみである。




夢とは願いの単数形であり、希望とは願いの複数形である。もしも仮にそうであるとすれば、「夢を抱く事」と「希望を抱く事」のどちらが人間にとって容易いものなのだろうか。




多くの人がこう言うだろう。
「夢を抱く方が簡単に決まっているじゃないか。」と。

確かに、それには、一理ある。夢と希望の違いは、願いが単数であるか、それとも複数であるかという、ただ一点だけである。「複数の願いを抱くこと」よりも、「単数の願いを抱くこと」の方が簡単だというのは、確かに筋の通った話である。けれども、本当に、そうなんだろうか。

僕が思うに、人間という生き物は巨大化しすぎていると思う。複雑化しすぎていると思う。肥大化しすぎていると思う。僕等が単細胞生物であった時代には、悩む必要すらかったような事柄に、多くの時間を割きすぎていると思う。

人間という生き物は、朝にはコーヒーを願い、昼にはパスタを願い、夜にはシチューを願う。それだけならば、それら全ては夢である。コーヒーという夢であり、パスタという夢であり、シチューという夢である。けれども、それら全ては夢では居られぬのである。夢は儚く潰えるのである。何故ならば、人間という生き物は、コーヒーを願うと同時に、パスタを願うと同時に、シチューを願うと同時に、並行的に、四六時中シュークリームを願い続けからである。即ち人はシュークリームのみにて生きるにあらず、パスタもシチューもコーヒーも、それらは全て希望である。

願いというものは、どのようにして生まれるのだろう。僕が思うのには、願いというものは、不可能から来るのだと思う。困難な問題から来るのだと思う。20秒やそこらでは解決出来ない問題がこじれた結果、それが、1つの、願いとなる。この地球上が困難な問題で満ちあふれれば満ちあふれる程に、人の願いが満ちあふれ、人々の夢を、夢のままでは居られなくしているのだろう。願いと願いで満ちあふれたこの地球上に、もはや夢などというものの存在する余地は無いのかもしれない。

「私の夢は」とか、「今年の夢は」などと、たいそう立派に威勢良く、喜んで語る人達がいる。けれども、よくよく聞いてみると、それらは、全てが夢ではない。ただの希望である。願いの複数形である。もはや単数形としての願いは死に絶えたのである。先日も「夢はウェブデザイナー」と宣う小学生を見つけたのでよくよく聞いてみると、ウェブデザイナーになって給料をいっぱいもらって有名になってジャガーに乗って女子アナをゲットしてゆくゆくはメジャーリーガーになりたい、との事だった。それなら、ウェブデザイナーではなく、プロ野球選手の方がいいんじゃないかな、と思ったけれど、言い争いになれば負けそうなので「そりゃあよか夢さばい」とだけ言ってその場を逃れた。生まれも育ちもインターネットである。














僕の夢を夢たらしめているものはただ1つ、セピア色のキーボードが指先を叩く度に痛みが走る尋常ならざるこの寒さ。それが失われる場所を古来より人は希望の季節、即ち春と呼び称った。そこで僕の唯一の、願いは滅んでしまうだろう。もしかして。