金輪際スポーツを見るのを辞める事にした。



僕はスポーツを見る事が好きだった。もちろん、今も好きだ。
けれども、スポーツを見る自分が嫌いだった。ずっと、である。

結局のところ、スポーツを見るという行為は、リスクを背負いません、という事に他ならないと思う。「勝ちたい」けれども、リスクは背負いません、努力もしません、という事である。スポーツ観戦というものは、ずるいのである。諸々をすっ飛ばして、勝利の歓喜を味わいたいという、ずるさなのである。

もちろん、それだけではない。スポーツには勝利だけではなく、敗北も付きものである。即ち、スポーツを見るという行為は、勝利への欲望だけを意味するものではなく、敗北への欲望でもあるのだ。

スポーツを見るという行為は、自らの人生と勝ち負けとを完全に切り離し、勝ち負けとは別個の安全な場所で、安定した基盤を築いておきながら、それと同時にテレビジョンを通じて、ただ勝利だけを、ただ敗北だけを、ただ不可逆性の勝ち負けというものを、どん欲に貪るものである。

もちろん冒頭で書いたように、スポーツを見るという事自体はは嫌いではないし、否定するつもりも無い。それ自体は好きだし、スポーツを見る人も嫌いではない。好きであるし、人はそうするべきなのである。しかし、スポーツを見るという行為を行う自分自身が嫌いなのである。

なぜならば現実の僕の人生は日々絶え間なく続く自らとの存亡を賭けた攻防の歴史であり、そこには血も、涙も、吹き飛ばされた肉片も節操なく散乱しており、不可逆の勝ち負けというものをもしも仮に僕が望んでいるとするならば、その為に行うべき事はスポーツを見るという行為をこれまでのように続ける事ではなく、スポーツを見るという行為を今すぐに辞め、固く握りしめた右の拳を手に取り立ち上がる事であるという結論に達したので、右の拳が固く握りしめられ次第、それを手に僕は行くのである。