2008年7月14日月曜日

ゲーム愛。



ゲーム愛がゲーム日記を書かせるわけではない。ゲーム日記はゲーム日記愛が書かせる。端的に「少なくともゲーム日記書いてる時はゲームやってないじゃん」という話。



もしもゲーム愛というものが、ゲームをする事により達成出来るとすれば、愛というものは目標対象とセックスをする事によって達成できるはずである。ところが現実はそうではない。目標対象とセックスを行う事のみで達成出来る愛など存在しない。「これが愛だ」と幾ら叫んでみたところで、相手の合意が無ければただの強姦である。相手の合意があればただの性交である。

同じ事はおそらく、ゲームについても言えるだろう。たとえば僕がどれだけゲームを愛してみたところで、ゲームは僕を愛してくれるだろうか。職も無く、友も無く、守るべきものなど何もなく、夢もなく、目標もなく、努力などとは無縁の生活を懲りもせず延々と続けている僕のような人間が、たとえばゲームを愛してみたところで、ゲームは僕を愛してくれるだろうか。一人部屋に閉じこもって不平や不満ばかりをぶつくさと、声も出さずにつぶやき続けているような人間が、たとえばゲームを愛してみたところで、ゲームは僕を愛してくれるだろうか。否である。答えは否である。

愛というものは、一人の人間の所存にて成り立つものではない。愛というものは、それぞれ両者がお互いに相対する事で成り立つものなのである。即ち、ゲームから愛されるだけの価値を持つ人間ならば、「ゲーム愛」と称してゲームをプレイし続けるのもよかろう。海運王の一人娘ならセックスだけで十分だろう。しかし、愛されるに値しない人間が「われこそがゲーム愛を体現するものなり」と叫んでゲームをプレイし続けたならば、それは、ただのストーカーである。犯罪者である。逮捕である。懲役刑である。牢獄行きである。世が世であれば、死罪である。

僕等はこういった類の言説を目にする度に、陰鬱な気分になる。そのような事を言う人達は、きっと立派な人間なのだろう。胸を張り、お天道様の下を歩いて行ける真っ当な人間なのだろう。愛する者と一生を共に出来るだけの資質を持つ、まことの人間なのだろう。だから、そのような事を疑いも無しに言えるのだろう。そして僕等はいつもみたいに、嫉妬と情念に泣き濡れながら、僕は背を向けて行くのである。愛に背を向け行くのである。