2008年9月26日金曜日
「ググると嘘になる。」という感覚。(加速的速やかという間違った日本語を使用した事について。)
先頃のエントリーで「加速的速やかに。」というフレーズを使ったところ、はてなブックマークで、「可及的速やかに」の間違いではないのか?という指摘を受けた。仰るとおりである。僕の日本語の素養が不足しているが故に、「可及的速やかに。」を、「加速的速やかに。」と間違って書いてしまったのである。
そして、実は、僕自身もその間違いに、気がついてはいたのです。
上の画像は、グーグルの検索履歴です。
件の投稿のタイムスタンプは「06:35」。
「かそくてきすみやか」でググったのが「06:34」。
つまり、投稿ボタンを押す寸前の読み直しで、「何かが違う」と気がついてはいたのです。そして、その「何かが違う」という予感は正しく、「加速的速やか」という日本語が「可及的速やか」の間違いである、という事も知っていました。
では、なぜ、「加速的速やか」を「可及的速やか」に書き直さなかったのか。正しい日本語に書き直さなかったのか、という事です。
それは、僕自身が持つ、「ググると嘘になる」という感覚が原因です。
グーグルは便利です。小さな日本語の間違いなどは、ググればすぐにわかります。用法に自信が無い言葉を使用する時、ググれば正しい用法がすぐにわかります。自らの文章を、「正しく修正出来る」のです。
けれども、ブログの目的は「正しい日本語で文章を書くこと」ではありません。少なくとも、僕にとってはブログで「正しい日本語で文章を書くこと」は、そんなに重要な事項であはりません。「正しい日本語で文章を書くこと」は、優先順位的に、かなり下の方に位置しています。
では、どのような事を大切にしているのか。
それは、頭の中にある事を、可能な限り再現する事です。僕の脳みその中で生じたシナプス的事象を、可能な限りインターネット上で再現する事です。
ご存じの通り、僕はあまり頭の良い人間ではありません。文章力もありません。日本語力もありません。知性も欠いていますし、人格的にもかなりの欠陥を持っています。素晴らしい人間とは言い難い人物です。それどころか、平凡な人物にもほど遠い、劣悪な人間です。
そんな僕自身が、いったい何を考え、何を思っているのかを、可能な限りインターネット上に再現し、それを見た何人かが、何かを思ってくれれば、何かを感じていただければ、僕はそれで良いです。
もちろん、その「なんぴとか」のうちには、僕自身も含まれます。僕が、その瞬間の脳の中の出来事を、可能な限り再現しようと努めなければ、「偽りの自分自身」がインターネットに残り続けます。いつでもアクセス可能な形で、いつでも読める形で、残されてしまいます。
たとえば、ググって正しい日本語を使えば、ググって正しい文章を書けば、ググって正しい情報を仕入れれば、こんな僕でもそれなりに、「ただしいもの」を書けると思います。少なくとも、件のエントリーで書いた文章よりは、遙かに「ただしいもの」を書けると思います。
けれども、そこで書き表されるものは、「ググる前の自ら」とはかけ離れたものです。必死にググって、体裁を取り繕った結果の自らに他なりません。それは、本望ではありません。
それに関して、「わざとやっているのか」という批判は、正しい種類の批判であると僕は考えます。そう言われても仕方がない部分があります。けれども、もしもグーグルが存在していなければ、僕は「可及的速やか」という正しさに辿り着くことなく、「加速的速やか」と書いていたでしょう。
これは「わざとやっているのか」という批判に対する反論にはなっていないとは思いますが、グーグルが存在していなければ、投稿ボタンを押すより前に「可及的速やか」という【正しさ】を知ることは、決してなかったのです。
たとえば、このエントリーを書いている最中にも、同じような事がありました。それが「あざとらしい」です。上記の画像にあるように、「あざとらしい」と書いたものの、「これはおかしい」と思ってググったところ、「あざとい」と、「わざとらしい」が混濁したものだと判明しました。このような事は、僕の日本語能力、学力においては、毎日のようにあります。
これらは別に、「受け狙いでやっている」とか、「独自色を出したい年頃だから」というわけではなく、単純に、僕自身の日本語的背景が不足しているからです。ゲームしかやっていなかったので、ほとんど成長しないままで、日本語力が停止してしまっているからです。
「それは直すのが正しい」、あるいは「それならば成長させるのが正しい」というご意見が存在するならば、それはご尤もです。「あざとい、わざとらしい」という批判は、甘んじて受けます。しかし、どうしても、「ググると嘘になる」という感覚が、僕の中には強く存在しており、拭うことが出来ないのです。
まれに修正する事もありますが、「こういう場合は修正する、こういう場合は修正しない」というはっきりとした基準をここでご説明する事は出来ません。ファジィな感じで判断しているようです。(あまりにもニュアンスが通じないと思った場合や、人名地名の間違い等により非礼に当たると判断した場合などは、ググった結果に従う事が多いようです。)
もちろん、極一部には「わざとやっている」ものもあります。語感や字面が気に入っていて、意図的に使用している間違った日本語もあります。(「とてものすごく」くらいしか今は思い浮かびませんが)
ただ、ほとんどは「日本語力の不足」が原因であり、それに「ググると嘘になる」という僕自身の持つ拭いきれない感覚が加わっての事であり、他意はありません。今では何が素直さなのかもわかりません。