2008年10月16日木曜日

対戦ゲームはそれ自体が言葉。



テイルズの戦闘が格ゲー的な戦闘だという事を踏まえずに書いてらっしゃる?ていうか「成功が約束された」と「努力が報われる」は互いに排他関係で、レベル制があるゲームにはプレーヤーの成長は存在しないという論?
これは僕の文章が全面的に悪かったように思う。

「なぜならば、ギルティは【対戦格闘ゲーム】だから。」
ギルティでは駄目、と書いた理由は、上記の一点です。
より正確に言うならば、「対戦ゲーム」という事になります。




「一人で遊ぶゲーム」と、「複数人で遊ぶゲーム」というのは、少し違うもの、より強く言えば、全く別の種類のビデオゲームだと、僕は考えています。(なんでですます調なんでしょうね!「それは多分心が荒みすぎてしまったからだよ……精神が崩壊し掛かっているんだ!」)いや……。はい。すみません。(誰に謝ってるんだ。)このエントリー多分もの凄く薄いです。(じゃあ濃くなるまで煮詰めろよ!)









対戦ゲームは、「新しい全く別の言語」に近い存在だと思う。

つまり、対戦ゲームでの対戦行為は、「新しい全く別の言語を用いた対話」だと思う。対戦格闘ゲームにおける「よみあい」と呼ばれているものなんかはその典型で、ビデオゲームの画面だけで対話が成立しているように思う。画面に表示されている情報だけで、相手の心を動かす。画面に表示されている情報だけで、相手と込みにケーションをする。それが対戦ゲームの醍醐味だと思う。つまり、対戦ゲームのクリエイターというのは、言語クリエイターだと思うのである。





一方の、テイルズに代表される非対戦ゲームは、「ビデオゲームの画面による対話」は、成立しない。成立しないからテイルズが下等だ、と主張したいのではない。対戦ゲームと、非対戦ゲームは、同じビデオゲームであっても、まったくの別物だと思う。

ギルティにはウルトラマンになって他の誰かと戦う、いわばウルトラマンゴッコ的な側面があるけれど、テイルズには、それがない。テイルズは、ウルトラマンそのものだ。ウルトラマンになって、順番に怪獣を倒していく、お話だ。




なぜ、僕がそのように、対戦ゲームと非対戦ゲームを別の物として見るかというと、それは僕自身が「言葉によるコミニュケーション」というものを、全く出来ない人間だったからに他ならない。そして、それは、今でもまったく出来ない。なぜ出来ないかというと、傷つくのが怖いのである。臆病なのである。

しかし、対戦ゲームという言語を用いれば、そんな心配は無い。対戦ゲームは、ゲームだけしていれば、ゲームを楽しんでいれば、それだけで完結してしまい、他には何の心配も要らない。ゲームの中で傷つくことはあっても、ゲームの外で傷つくことはない。故に僕は対戦ゲームが好きだったし、今でも対戦ゲームを特別視している。




非対戦ゲームでもコミュニケーションは出来る。ゲーム外で他の人と、その情報を共有することで、人と人とをつなぎ合わせる事が出来る。けれども、対戦ゲームのように、ただゲームをプレイし続けるだけで、色々な人と、コミュニケーションのようなもの、つまりは心と心を通じ合わせる事は不可能なのである。




実際のところ、現在のテイルズがどんなゲームになっているのかを、僕はあまりよく知らない。もちろん、格ゲー風戦闘で、3Dになった、とかその位の事は知っているけれど、まったく詳しくない。もしもテイルズが今現在、非対戦ゲームと対戦ゲームとの境界線を崩しつつあるのならば、それは僕のアンテナの低さに非があるし、ディアブロのように、一人プレイ時に他の人間をオンラインを通じて呼べる(乱入して協力プレイ出来る)ような所にまで来ているのだったら、それは「テイルズでもいいかなあ」と思うかもしれません。同じ画面内に他人が生存しているって、素晴らしい事だと思うんですよ。僕は。