2008年10月10日金曜日
moonはもの凄くて、素晴らしくて楽しくて、そして尚かつ面白いゲームなんだよ!
moonの登場人物は、三種類だ。
透明な人達。
不透明な人達。
その中間に値する、半透明な人達。
この三種類のみで構成されているのが、moonという世界だ。
この3者は同じ場所を歩き、同じ場所で笑い、同じ場所を生きる。
けれども、この三者はそれぞれ、決定的な違いを持っている。
それこそが、moonというゲームにおいて語られた御伽噺だ。
不透明な人物とは何か。
それは、「生活と、夢を共に併せ持った人物」だ。
彼らは、パンを焼いたり、釣りに出かけたり、石を掘ったり、花を売ったり。
あるいは、バーで独り身のお客さんの話し相手になってあげたりしている。
それが、彼らの日常なのだ。そうやって、皆それぞれに生きている。
moonの世界の住人達は、そんな何気ない、当たり前のような生活を毎週々々繰り返す。不透明な人物には皆、生活があるのだ。太閤立志伝型、という表現が正しいかどうかはわからないけれど、たとえるならば太閤立志伝や、ワールドネバーランドやシェンムーのように。
それでいて、彼らには夢がある。目標がある。希望がある。
生きて行くための行動原理に基づいて、地に足付いた生活を何らかの形で続けながら、彼らは夢を持っている。不透明な人達は、夜中や真夜中、あるいは土曜日や日曜日、金曜日の晩といった、特定の日時が来る度に、その夢に向かって突っ走る。目標に向かって歩き出す。
彼らが抱く夢は、大それたものから何気ないものまで、十人十色、人それぞれだ。
それは、「幼い子供のために、とても良く飛ぶ紙飛行機を折る」だったり、「宇宙ロケットを作って月まで飛ばす(アポロ計画!)」だったりする。あるいは、「ロックンローラーになる」だとか、「平和な世界を作る」なーんてのもある。もちろん、「国家転覆」だったり、「魔王を倒す」なんて類のおどろおどろしいものもある。
そんな風に、夢の大きさには違いがある。夢見るものは、それぞれ違う。けれども、不透明な人達は皆、何かしらの夢を、そして希望を、願いを、心の中に持っている。心の奥底に秘めている。それを絶えず口に出しているような人もいれば、頑なに隠している人もいる。日常の形はそれぞれ違う。夢の形もそれぞれ違う。形はそれぞれ違うのだけれど、不透明な人物は皆、日常と夢とを併せ持っている。
では、透明な人物とは何か。
それは、「生活も、夢も持たない人物」だ。
彼らは何もしない。
微動だにしない。
動かない。
夢も持たない。
目的もない。
何もない。
ただ、死んで行くだけ。
それが、透明な人物だ。
彼ら透明な人物こそが、いや「彼」こそが、プレイヤーキャラクターである。
そして、彼こそが、moonという世界においてたった一人の透明な人物である。
moonというゲームには、目的が無い。目標も無い。
敵を倒す?強くなる?世界を平和にする?愛する人を救う?
無い。全部無い。何にもない。そして、尚かつ、生活もない。
生活、つまり恋もない、仲間もいない。
友達もいない、家族もいない。家もない。
このゲームいおけるたった一人の透明な人物は、
たった一人の透明な人物として、唐突にそこに存在する。
彼には生活が無く、そして夢もない。
行動原理が無く、目指すものがない。
ただ、唐突に生きている。
そして、唐突に死んでゆく。
では、その中間的存在である、半透明な人物とは何か。
それは、「生活はあるが、夢を持たない」人達である。
彼ら半透明な人物は、皆、なんらかの生活を持っている。
特定の行動原理に基づいて、彼らは懸命に、そして必死に生きている。
それぞれ違うものを食べ、それぞれ違うものを好み、
それぞれ違う場所に住み、それぞれ違う生活を営んでいる。
しかし、彼には夢がない。
半透明な人物は皆、一切の夢というものを持たない。
目標を持たない。目的を持たない。希望を持たない。
彼らはただ生きて、そしてただ死んで行く。
半透明な人々は皆生きている。
懸命に生きている。しかし、彼らには夢がないのだ。
しかし彼らには、夢がないのだ。
つまり、こういう事だ。
不透明な人物は「生活が有り、夢を持つ。」
半透明な人物は「生活は有るが、夢がない。」
透明な人物は「生活も、夢も持たない。」
moon世界は、それら三種類の人物によって成り立っている。
即ち、そう。
それらが体現する言葉は何よりもまず明らかだ。
moonというゲームが語るところは、彼らそのもの、そこなのである。
生活も夢も持たない人間は存在しないに等しい。
夢や目標を持たない人は、居ても居ないようなものだ。
生活も、夢も共に併せ持つ事こそが、人として生きる事なのだ。
moonはそう言っている。
念のためにもう一度申し上げておくと、彼らが持つ「夢」っていうのは、そんな大それた者じゃあない。綺麗な花で人の心を和ませたいとか、素敵な歌を作って言葉では言い表せないような思いを他人に伝えたいとか、思わず笑みがこぼれるようなおいしいパンを焼きたい、だとか。見知らぬ鉱石を掘ってみたいとか、まだ誰も知らない世界の秘密を知りたいとか、孫の喜ぶ顔が見たい、とか。彼らが生きる「生活」っていうのは、そんなたいした物じゃない。クッキーを焼く、魚を釣る、CDを売る、手紙を運ぶ。もちろん、「だいそれたゆめ」を持っていたり、「だいそれたせいかつ」を過ごしている人も、何人か、少なくはあるが、居るには居る。
さて。
そんな「不透明な人物」の中でも一際目を引く人物が居る。それは、「勇者」と呼ばれる人物だ。moon世界の世界において、彼の存在は一際目を引く特徴的で、輝いている。特徴的な姿を見せる。
彼、即ち勇者と呼ばれる人物は、「生活は有るが夢がない」半透明な人々に対し、一方的な搾取を行う。あらゆるものを奪い取る。金を奪い、生活を奪い、日々の暮らしを完全に奪う。持つもの全てを奪ってしまう。生活は有るが夢がない、半透明な人達は、夢を持たないが故に、そして目標を持たないが故に、奪われ、利用され、全ての汁を吸い尽くされて、使い捨てにされてしまうのである。
彼ら半透明な人々を利用し、彼らの生活を奪い、彼らから様々なものを搾取して、自らの力に変え、自らの人生を強引に、そして強力に推し進め、自らの夢を希望をドリームロードを邁進、驀進し続ける。それが「勇者」と呼ばれた男の人生である。もしも勇者と呼ばれる人達に、何かを奪われたくないならば、君は夢を持たねばならない。目標を持たねばならない。どんなささやかなものでもよいから、小さな希望を胸に抱き、それに向かって前進せねばならないのである。そうせねば、勇者と呼ばれる人達に、何もかも奪われてその生涯を、ただ、虚しく、終えるだけである。
そして、彼、即ち勇者と呼ばれる人物を動かしている夢の源。
それは、ただ一つ。
異常なまでの性欲である。
「異常なまでの性欲」である。
moonという世界において、ただ一人、猛烈な人生を果敢に生きるこの男を、突き動かすのはただ性欲である。「呪われた」とも形容し得る、異常なまでの性欲なのだ。異常なまでの性欲、つまり、キスをして、セックスをして、子孫を残す。遺伝子的に優秀な交配相手を見つけ出し、それとキスをして、セックスをして、子孫を残すという目標、欲望、夢、いや、根源的欲求。それが彼、即ち勇者と呼ばれた人物を突き動かしている夢であり、希望であり、彼の人生の究極の目標なのである。
つまり、である。
moonというゲームは「透明な人物が、半透明を手に入れてゆく過程」である。
そしてmoonのエンディングは、「透明な人物が不透明を手に入れる」という終着駅なのである。プレイ経験のある皆様にはご周知の通り、moonのエンディングは、透明な人物が不透明を手に入れて、ハッピーエンドで終わるのである。
もちろん、これだけでは不十分だろう。
プロローグについても書いておかねば不十分だろう。
moonというゲームのオープニングでは、1つの出来事が起こる。
それは、「不透明な人物が、透明な人物に変わる」という現象である。
その摩訶不思議な超常現象により、moon世界の扉は開かれる。
そしてゲームはスタートするのだ。
西健一は何を語ったのか。
いやmoonというゲームは、何を語ったのか。
それは、「不透明であること」の素晴らしさである。
そして、「不透明を生きる事」への賞賛である。
生活もある、夢もある。そんな不透明な人物が、一服の清涼剤として、娯楽として、人生を彩る楽しみとして、友人達との円滑なコミュニケーションの種として、ゲームを遊ぶ事は素晴らしい。けれども、生活もない、夢もない、そんな透明な人物が日常も夢も持たないままに、惰性でゲームを遊ぶ事への非難である。moonとは、ゲームという"娯楽"への賛美歌である。ゲームという"人生を豊かにするもの"への全肯定なのである。それは同時に、一部ゲームプレイヤーへの賛辞であり、一部ゲーマーへの三行半なのである。
ラブデリックは(あるいは西健一は)、UFOというゲームにおいても透明を使用した。しかし、こちらには致命的な欠点があった。「心の目で見よ。さらば見えん。」というクリエイターの傲慢とも言える心の声を語るには、UFOというゲームはあまりにも、出来が悪すぎた。しかし、moonは違う。
moonというゲームは、非常に良くできたゲームだった。1つの到達点とも言える優れたゲームだった。巧妙に、そして丁寧に作られた、バランスのとれた素晴らしい、面白い良くできたゲームだった。それ故にmoonというゲームの言葉には重みがあり、それは非常な意味を持っていた。
堀井祐二もゲームで透明を描いている。
その1つめは、ご存じポートピア殺人事件である。
ポートピア殺人事件に込められた文言はmoonとは比べものにならないくらい、ありきたりだけれど簡潔で、わかりやすくそれでいて鮮烈なものだ。「君が見たいと望まぬならば、何も見えないこの世界。」「けれども、君が見たいと願い望んで進み続ければ、見えないものなんて無いんだよ。」それが堀井の語りである。もう、僕なんかはこれだけで、胸がキュンとしてしまう。
もう一つ、ドラクエ6も透明であった。
ドラクエ6は、moonに非常に近い場所を語っている。
ドラクエ6とは、「透明が不透明を手に入れて始まる物語」だった。
生活と夢、その2つが合わさって、初めて力になるんだ、というゲームだった。
それは同時に、「語ること」と「面白さ」を併せ持って初めてゲームは優れたゲームになる、という堀井の信念の再表明でもあった。長く苦しい冗長な日々を乗り越えて、夢の中の悪夢、あるいは自らの夢という疑心暗鬼とでも呼ぶべき葛藤を打ち倒す。その葛藤を乗り越えて初めて、「なりたいものになれる」という自由が手に入るのだ。
そして、不透明になった瞬間からドラクエ6というゲームは初めてドラクエ6としての形を無し、夢は消え失せ現実となり、魔王討伐の紋切り型なドラクエ6というゲームはそこで、そこでやっと、初めてスタートするのである。
では、飯野賢治は透明で何を語ったか。
エネミー、ゼロ。
ゼロという敵。
それは飯野の抱えた、いや、抱えてしまった、飯野という時代の寵児が抱えてしまった、苦しく困難な、そして困難な、辛くて苦しい1つの大きな難題であった。エネミーゼロというタイトルで、飯野はそれに挑んだのである。
飯野は本人の特異なキャラクターと、その作るゲームの独特な食味との相乗効果により、3D時代の寵児としてタレント化されてしまった。「飯野賢治」という人は「いいのけんじ」ではなく、「飯野賢治という存在しない怪物」になり、独りでに歩きだしたのである。その、「飯野賢治という姿形の無い怪物」こそが、「ゼロ」、無理に直訳するならば「原点」と呼ばれた見えない敵の正体である。
即ち、エネミーゼロというゲームは、「メディアが造り出した飯野という偶像」を、「飯野が苦しみ抜いてクリエイトし、飯野と共に時代を歩んできたローラという大切な主人公」が矢弾を持って破壊する物語なのである。悲しい悲しい、そして苦しく辛い物語なのである。
「敵は飯野という幻想だ。」飯野はそう言ったのである。
「そうだったんだろうなあ。」そんな風に思ったりもする。
実際の所はたいして売れてもいない弱小ゲームの、情熱と才能を持ち合わせたちっぽけな弱小クリエイターが、時代の寵児として持ち上げられてしまい、その姿だけが一人歩きをしてしまう。特徴的なキャラクターがメディアに重宝がられてしまう。クリエイトしたゲームではなく、飯野というアイコンの一挙手一投足に注目が集まってしまう。それは正しく、ゲームクリエイター飯野にとっては、不幸以外の何物でもなかった。
そして飯野はその困難と勇敢に戦い、そして死んだ。いや、殺されたのだ。
自らが生み出したローラというキャラクターに殺されて。
正真正銘本物の、生身の飯野に撃ち殺されて。
クリエイター飯野は生きて虜囚の辱めを受けず、自死を選択したのである。
敵を知り、自らを知り、限界を知り、分をわきまえ、表舞台から消えたのである。
moon、ドラクエ、エネミーゼロ。
過ぎ去りし日々の、そんな思い出。