五本足の蜘蛛。

掃除をすれば綺麗になるという幻想は世間一般でも広く共有されているし、実際に掃除をすれば綺麗になる。けれども綺麗になることがイコールよいことなのかというとケースバイケース。綺麗になった。片付いた。で。それで?なにも。金目のものは出てこない。オークションで売れそうなものもない。プラスチックの容器の真ん中に、干涸らびて死んだ巨大な蜘蛛の死骸があった。それは足が5本しか無い蜘蛛で、生きている所を目にした覚えがある。こんな部屋の片隅で水も飲めずに死んだのだろう。わけもなく悲しい気分になる。一度目にしたものが視界から外れると、順調に行っているのだろうと無責任に思う。人間とはそういうものだ。足が5本しか無い時点でうまくいくわけがないなどとは思わない。目に入らないものは全て順調だと信じる。そういう生き物なのだ。パン屋は小麦粉を吸って肺癌で死ぬという。部屋を綺麗に掃除して、今までを全てゴミ袋に詰める過程で僕は何をどれだけ吸い、どれだけ近づいたのだろう。喉の奥ではいつものように血が滲み、空っぽの内臓が気分の悪さで膨らんだまま揺れる。全世界に張り巡らされた不愉快さの罠。たとえ完全な爆弾で世界を爆破したとしても、それだけは綺麗に残るだろう。この人生には希望が無い。どこかのブロガーが斉藤祐は顔が出来てないと意味不明な文句を書いていたが、部屋で拾った長方形に切り取られた顔写真を見ているとその意味がなんとなくわかる。時期違いのが三種ほどあったが、どれもなんとなく顔が出来ていないような気がする。今日同じ写真を撮れば財務大臣はきっと言ってくれるだろう。これは気違いの目だと。けれども無念なにも変わらずほんの少しだけ綺麗になった部屋の椅子の上のモニタの前で平穏無事な日はのっぴきならずに夜が明けてもまだ続く。掃除をすると、文字通りのゴミと、正真正銘ゴミ以外のなにものでもないものが次から次に出てくる。必要なものは一つも出てこない。何かの間違いで札束でも落ちてはいないかと思ったが、そんなものあろうはずもない。読むに値する本も聞くに値するmp3も遊ぶに値するゲームディスクもこの部屋にはない。文字通りのゴミと、正真正銘のゴミだけがいやという程落ちている。掃除というものは、元来、要らないものを捨てる一方で必要なものを保存する為の仕分けなのだけれど、僕の場合は捨てるものと捨てるべきものしか出てこない。そもそも、どのような人物の、どのような要らないものにしても、一時は要るとされていたものだ。いると思ったから買った。いると思ったからしまった。いると思ったから置いておいた。かつては要るとされていた、要るはずだったものだけれど、冷静に考え見直してみると要らないから捨てる。空のペットボトルにしたって、かつては重要なタスクを担っていた大切な何かだったのだ。それが、もう要らないと判断されたから捨てられる。ペットボトルだけではなく、何にしたって同じこと。あの蜘蛛にしたって、ある時気がついたのだろう。足は八本も要らない。そんなタコみたいな事をしている場合ではない。だから右の2本と左の1本は捨てられた。しかし蜘蛛はしょせん節足動物。低能である。5という数字が奇数であると、まとまりが悪い数字であると気づかずに歩き続けたからこんな場所に迷い込んで干涸らびて死んだのだ。いかなる世界においても常に、頭の悪さは罪なのだ。近頃、ふいに、愛が足りないとか、愛されないとか言うようになった。まあ、ブログに書くわけでもないし、実際に口に出して誰か言うわけでもない。独り言として呟くでもない。ただ愛が足りない、愛が足りないと口うるさく思うようになった。たいして気にしてはいなかった。部屋を片付けている最中にその愛というものについて考えていると、僕の言う誰も愛してくれない、といった類の言葉は、ようするに、誰も僕を養ってくれない、という意味なのだとわかった。あんたの言う愛ってのは、三食昼寝と暖かい布団の事だったのかと、方頬をしかめて軽蔑する。自らへの侮蔑だけが積み重なって成長する。よしんば純粋に(いわゆる)愛が足りないと心の底から思っていたという事が判明したならば、そちらの方が萎えるかもしれないが、ここまでの軽蔑は募るまい。どちらにしろ似たようなものだが。薄さ、浅さ、それ以外の様々なことに辟易する。大切なものを全て大切にすれば大切なものだけが最後に残り、捨てるべきものを全て捨てれば捨てるべきものだけがそこに残る。透明のプラスチックの器の蓋の上で足を丸くして干涸らびた捨てるに捨てられぬ五本足の蜘蛛が口も効かずに居座って、空の心が困ったと呟く。