それは糞ゲーだった。
目も当てられないクオリティの、酷い馬鹿ゲーだった。
dota allstars。
それは、WarCraft3というゲームのMODであり、糞ゲーだった。
ビデオゲームの歴史上、最も偉大なリアルタイムストラテジーゲームの1つである、WarCraft3。そのWarCraft3に付属していた、カスタムエディタというツールを用いて、一介のユーザーが作り上げた、5対5の対戦ゲーム。それが、Defense of the Ancientsだった。そう、dotaだった。
dotaは、WarCraft3というゲームを購入していないと遊べない。極めて一部の人達の為の「フリーゲーム」だった。けれども幸いな事に、WarCraft3は500万本ものセールスを記録していた。極めて一部と呼ぶには、十分すぎるだけの母数だった。
WarCraft3は、確かに優れたビデオゲームだった。
StarCraftよりも優れているという人も居るし、匹敵するという人も居る。見る分にはStarCraft2よりも上だという人が居たり、1対1ならWarCraft3が上という人や、逆に2対2ならWarCraft3が上という人も居る。WarCraft3とは、そのような、素晴しい完成度を誇る傑出した、優れたビデオゲームだった。
そんなWarCraft3にも、致命的な欠点が存在していた。
WarCraft3は、難しいのである。息が詰まるのである。疲れるのである。そのゲームは、娯楽としてのゲームである以上に、真剣勝負の為のツールだった。たのしいけれど、苦しく辛い、1対1の差し迫った戦場だった。
最初の頃、人々はそれを面白いと思って楽しんでいた。
これだ、これこそが求めていたものだ、神ゲーだ。
けれども、である。
辛いのだ。
苦しいのだ。
勝てないのだ。
僅かなミスで自分の軍隊が半壊し、僅かなミスで自軍の将を失う。
学校からの帰り道ではMAXだったモチベーションも、ゲームを立ち上げて僅か12分後、1ゲーム終了した段階で随分と低下し、僅か25分後、2ゲームを終了した時点で大きく息を吐いて、「もういいか」という気分になる。それはまるで苦行だった。面白いという免罪符こそあれ、面白いだけの苦行であった。タワーディフェンスというWarCraft3のmodの一大ジャンルは、そんな空気の中で栄えた。辛くない、苦しくない、勝てるゲームとして、それは人々の支持を集めた。
WarCraft3にはMODというシステムがあった。
付属のエディタを用いて、WarCraft3のグラフィックやモーション、あるいはサウンドなどを利用して、ユーザーが自由にゲームを作る事が出来た。そして、それをゲーム内で自動ダウンロードする事で、あるいはゲーム外で各自がダウンロードする事で、自由に遊ぶ事が出来た。
WarCraft3に矢折れ、疲れて、草臥れたユーザーを癒す慈母のような存在。それがmodだった。そこにはタワーディフェンスが有り、キャッスルディフェンスがあり、ヒーローアリーナがあった。操作量も、技術力も、知性すらも不要な、簡単で、単純で、それでいて刺激的な、多種多様なMODが溢れていた。そして僅か10秒でそれらユーザーが作った無数のMAPをゲーム内で瞬間的にダウンロードする事が出来た。
人々は1日2ゲームから3ゲームだけWarCraft3を遊び、毎日のように打ち拉がれて、MODを漁り、世界中のユーザーが睡眠時間を削って作り上げたくっだらない、完成度の低い、くだらなくてくらだなくて、それでいてたのしい糞ゲーを遊び、陳腐なゲームで癒されていた。
WarCraft3という神ゲーではなく、勝負の世界ではなく、勝ち負けではなく、ただFUNの世界を謳歌していた。たのしいは正義。そんな世界に、そのゲームは現れた。Defense of the Ancients。そう。dotaである。
dotaの最大の特徴。
それは、完成度だった。
良くできていたのだ。
本当に、良くできていた。
dotaは神ゲーだった。
奇跡的な完成度を誇る異様なmodだった。
MODというのは、基本的に、BAKAゲーの世界であり、KUSOゲーの世界だった。ケラケラと笑い、カラカラと遊び、キャッキャウフフする為の世界だった。くだらない砂場のおままごとや、ちょっとした空き地の戦争ごっこみたいな世界だった。そんな世界にあって、dotaは元から傑出した完成度を誇り、バージョンアップを重ねる事で、遂には異常とも言える完成度を誇るに至った。dotaは、究極の5対5対戦ゲームだった。WarCraft3の本編は、せいぜい3対3までしか遊べない。けれども、dotaは5対5だった。みんなで遊べて、操作は簡単で、尚かつBAKAゲーでもなく、KUSOゲーでもない、面白くて気軽な対戦ゲーム。素晴しい完成度の素晴しいゲーム。それがdotaだった。
ブリザードエンタテイメント社のゲームは、パッチによって要素が追加されたり、バランスが調整されたりという事を何ヶ月、何年にも渡り繰り返されてゆく。ブリザード社のゲームソフトは、発売された段階では得てして酷いゲームバランスなのだ。WarCraft3もその例外ではなかった。
WarCraft3本体が、対戦ツールとしては未完成と言っていいほどの未熟だった時期に、完全に完成し、完全に成熟し、これ以上修正する場所が存在しないという域にまで達していたのがdotaだった。かくして、当時のdotaは、「WarCraft3よりも優れたゲームだ」という評価すらされるほどの、唯一無比の存在だった。
dotaは評判を高めた。
知名度を得た。
不動の名声を手にした。
一番のMOD。それがdota。
世界の頂点。それがdota。
MODの中のMOD、それがdotaだった。
WarCraft3を購入する事で遊べる究極のゲーム。
その時代におけるそれは、WarCraft3本編ではなく、dotaだったのだ。
インターネットの世界では有志が50ユーロもの自腹を切って賞金をかけたトーナメントを開催した。各国で攻略サイトが芽生えた。WarCraft3は本編を遊ぶ為ではなく、dotaとタワーディフェンスをプレイする為だけにでも購入する価値がある、というレビューまで書かれた。WarCraft3の為にではなく、dotaを遊びたいが為にソフトウェアを違法ダウンロードする、という人達までが出現しはじめた。
WarCraft3の世界は、dotaを楽しむユーザーで溢れかえった。
5対5の対戦席は、僅か10秒で満席になった。
WarCraft3を購入した人間は、誰もが一度は遊んだ事がある。
dotaとはそういう存在だった。WarCraft3をも超えた、究極の存在だった。
そんなdotaが、ふいに死んだ。
dotaの歴史は、あっけなく終わった。
The Frozen Throne。
氷の玉座。
TFT。
ウォークラフト3、ザ・フローズンスローン。
WarCraft3の拡張パックが発売されたのである。
WarCraft3と、その拡張版のWarCraft3、The Frozen Throne。
両者には、互換性が無かった。
WarCraft3は「war3.exe」。
WarCraft3 The Frozen Throneは「war3tft.exe」。
WarCraft3を遊ぶためにクリックするexeと、The Frozen Throneを遊ぶ為にクリックするexeファイルは、別のものだった。「遂に完成したWarCraft3」だとか、「事実上のWarCraft4」とまで言われた、伝説的なビデオゲームであるWarCraft3TFTが世に出た事で、WarCraft3の世界は僅か1日で過疎ってしまった。WarCraft3ユーザーの95%はTFTに流れ、20倍の人口差がついてしまった。それは、死であった。突然死であった。modの中のmod。dotaの、あっけない死であった。
WarCraft3で作られたMODは、WarCraft3TFTでは遊べなかった。
両者には、互換性が無かったのだ。
もちろん、dotaを遊ぶ為に「war3.exe」をクリックする人達も居た。けれども、敵は「事実上のWarCraft4」であり、「遂に完成した歴史上最も偉大なリアルタイムストラテジーゲーム」だった。それは決して抗う事の出来ない、時代の移り変わりだった。常に新しいものを求める人々の習性も、dotaには逆風だった。伝説のゲームであり、究極のゲームだったdotaは、その地位を追われた。玉座は空いた。知る人ぞ知るゲーム。かつて偉大なゲームだったもの。それが、dotaだった。「dotaは良かった」人々は口にしたが、それは遠く過ぎ去った過去の歴史の出来事だった。
そして、一つのコメントが出された。
僕はね、xboxで遊びたいんだ。
だからさ、dotaをTFTに移植する作業には関わらないよ。
dotaはさ、もうみんなのものだし、好きにしていいよ。
今までいっぱい遊んでくれて、ありがとうね。
こうして、1つのゲームが死んだ。
dotaは死んでしまったのだ。
かくして、新たな時代が到来した。
新世紀TFTである。
新世紀TFTには、dotaは存在していなかった。
modの中のmodたるdota、絶対的存在たるdota、最高のmodであるdota、modの頂点であるdota。WarCraft3よりも優れたゲームであったdota。そのdotaは存在していなかった。超える事の出来ない壁たるdotaの存在しない場所で、世界中のmod制作者達は考えた。「今modを作れば、modの頂点に立てる」。dotaの存在する世界では決して不可能だったmodの頂点。人々はそれを夢見た。目を血走らせ、一銭にもならない成功を夢見た。自らの能力を証明する為に、他の誰かから愛される為に、mod制作に身を投じていった。戦いの火蓋は切って落とされた。誰もがぎらつき、野心と欲望でエディターを立ち上げ、自らの青春を夜通し費やした。
そこに、一人の男が居た。
野心的な男である。
男は考えた。
有名になる方法。
誉めそやされる方法。
成功する為の最短ルート。
男の頭に1つのフレーズが浮かんだ。
「dota」
男の頭に1つの名案が浮かんだ。
「パクリ」
彼は、パクった。パクったのだ。
パクって、パクって、パクりまくった。
世界中のMODをパクった。
あるmodからはキャラクターをパクり、あるmodからはアイデアをパクった。
あるmodの内部を覗いてコードをパクり、あるmodからはシステムをパクった。
アイテムをパクリ、魔法をパクり、必殺技をパクり、3Dモデルをパクった。
そしてそのパクりにパクりを重ねた自作のMODを、こう名付けた。
「dota allstars」
たしかに、である。
確かに、オールスターだった。
そりゃあ、そうだ。
盗んだのだから。
そりゃあ、そうだ。
パクったのだから。
世界中の優れたMODのキャラクターを盗み、
世界中の優れたMODのアイテムを盗み、
世界中の優れたMODのアイデアを盗めば、
自然、それは、自ずから、オールスターになる。
当たり前である。
当然である。
パクったのだから。
パクってパクってパクりまくったのだから。
そりゃあまあ、オールスターみたいな雰囲気にはなるのだ。
けれどもね、所詮はパクり。
パクりはパクり。
そんな行為で、面白いMODが完成するわけがない。
当たり前だよ。志が低いんだ。心が汚れてるんだよ。
出来上がったのは、ゴミだった。
正真正銘の、ゴミだった。
クリックされると死ぬ。
そういうゲームだった。
いや、ゲームじゃない、ゴミだった。
dota allstarsってのは、ゴミだった。
パクってパクってパクりまくった、正真正銘のゴミだった。
けれども、男には野心があった。
TFTという新世界で、王になるという夢があった。
そのくだらない夢に向かって、男は努力を重ねた。
毎日コードを書き換え、毎週数度のバージョンアップを重ね、さらに、パクり元を探してmodの世界を旅し、dota allstarsと名付けたゴミを改良し続けた。そのゲームは、ゆっくりだけど、少しずつ、よくなり続けた。その頃、dota allstarsよりも優れたmodは無数に存在していた。けれども、それら優れた素晴しい完成度の楽しく遊べる良くできたmodと、dota allstarsというゴミの間には、決して超えられぬ壁があった。
それは、名前である。
「dota allstars」
その名前だった。
これを超える命名は無かった。
dotaという歴史上最も有名で、最も偉大で、最も支持されたmodの名前を取り込み、さらにallstarsとまで名付ける図々しさ。野心。欲望。そのどす黒さ、さもしさの勝利であった。野心と欲望の勝利であった。この卑劣極まる命名が、希望に満ち溢れたmodクリエイター達のTFT世界を黒く醜く覆って行った。
少しずつ、少しずつながら改善され続けたdota allstarsは、そのゲーム内容や完成度によってではなく、その命名によって、氷の玉座に平坐した。「クオリティの高いオリジナルの新しいmodを作ってTFTのmodの頂点に立つ」といった純粋な野心を持った世界中のmod制作者達にとって、それは受け入れがたい光景であった。パクって、パクって、パクりまくって、出来上がったゴミ、いや出来上がってすらいない、まともに遊ぶ事すら出来ないバグの塊に、「dota allstars」と名付ける卑しさが、その世界に君臨してしまったのだ。無数の優れたmodを差し置いて、勝利してしまったのだ。
それは悪夢であった。
押しとどめる事の出来ない、悪夢の巨大なうねりであった。
他のmodが夢見ても決して叶わないような莫大なユーザーを抱え、他のmodが1年かけて達成するようなプレイ人数を僅か10分で達成してしまう。その巨大な人口を背景に、膨大な数のバグ報告が寄せられた。ゲームの致命的な欠陥に関するレポートも寄せられた。さらには新しいアイデアが寄せられ、新しいパクるべき要素の提案まであった。それらを少しずつ消化して行く事で、dota allstarsは進化し続けた。その過程の中で人々はある思いを胸に抱いた。「俺がdota allstarsを育てた」。いや「俺がdota allstarsを作ったのだ」と。
かくしてdota allstarsは一人の男の野心ではなくなった。dota allstarsは世界全人民の夢であり、世界全人民の希望であり、世界全人民の野心となった。人々の夢は、人々の希望は、人々の成功と未来を願う強い心は、折り重なり、絡み合い、dota allstarsというゲームを発展させ続けて行った。
そして、dota allstarsは一定の水準に達した。
かろうじて、ぎりぎり遊べるゲームになった。
それは糞ゲーだった。
目も当てられないクオリティの、酷い馬鹿ゲーだった。
かつてWarCraft3の世界で栄光を極めた素晴しい完成度の見事なゲームであるDefense of the Ancientsと、TFTの世界に君臨する正真正銘の糞ゲーであるdota allstarsの間には、天と地ほどの差があった。それでも、dota allstarsは、一定のクオリティには到達していた。ぎりぎり、かろうじて、どうにか、たのしく、うんざりしながら遊ぶ事が出来た。
「これはdotaではない。allstarsなんだ。」
人々はその糞ゲーを、巧妙な言い訳で受け入れた。
「そうだよ。確かに糞ゲーだよ。だからどうしたの?それが何?」
ゲームの面白さと、プレイヤーが感じる楽しさに相関性なんて無かった。
dota allstarsには大勢のユーザーが居た。
誰かと遊べる。
誰かと同じ時間を過ごせる。
くっだらねえなとケラケラと笑って遊べる。
それだけで十分だったのだ。
ゲームの完成度。
ゲームの面白さ。
よく出来ているかどうか。
そんな事はどうでもよかった。
ゲーマーは寂しかった。
ゲーマーは孤独だった。
誰かと一緒の時間を過ごしたかっただけなのだ。
誰かに愛されたかった。
誰かに認められたかった。
ただthank youと言われたかった。
その為の最短手段。
その為の最善のツール。
それがdota allstarsだった。
5対5の対戦ツールであったDefense of the Ancientsとは違う価値観。
10人で糞ゲーをケラケラと眺めてカラカラと笑うという世界観。
それがdota allstarsだった。
糞ゲーであった事はむしろメリットだった。
究極の完成度を誇り、5対5の真剣勝負ツールと化していたdotaとは違い、dota allstarsはパーティーゲームだった。気楽に遊べて、おもしろくて、おもしろくなくて、たのしくないけどたのしくて、くだらなくて、本当にくだらなくて。dota allstarsとは、糞ゲーであり、誰もが笑える場所だった。
一方のWarCraft3TFTは、WarCraft4と呼ばれる程の完成度を誇っていた。
ゲームの中のゲームであり、ビデオゲームの極北であった。
真の対戦ツールであり、真剣勝負のコロシアムだった。
TFTの世界には、スポンサーが付き、定期的にリーグ戦が行われ、トーナメントが開催され、プロチームが生まれ、プロゲーマーは世界的名声を手にし、人々はその試合の様子を観戦し、その凄まじい技術レベルに酔いしれた。そして、人々はプロの試合の観戦の、今見た興奮冷めやらぬ、熱々ホットなハイテンションで、TFTの世界に身を投じ、1対1の真剣勝負であるWarCraft3TFTをプレイし、その難しさに心を折られ、自分の限界を知り、軽くうなずいて諦めて、馬鹿ゲーに手を伸ばした。ケラケラ笑える5対5の糞ゲーの世界に身を投じた。それは癒しであり、チャットツールであり、傷つき矢折れた僕達に差し伸べられた、やさしいやさしい救いの手だった。
馬鹿ゲー。
糞ゲー。
ゴミゲー。
くっだらねえゲーム。
dota allstars。
そんな糞ゲーのトーナメントなんて、開催されるわけがなかった。賞金がかかり、真剣勝負として観客を集めて行われるeSportsの大会において、「dota allstars」という競技が採用される事は無かった。eSportsと呼ばれる類の巨大なビジネスの世界で採用されるのは「WarCraft3TFT」というあまりにも偉大なリアルタイムストラテジーであり、dota allstarsなんて糞ゲーは、箸にも棒にもかからなかった。
ところが、世界中にただ1つだけの例外が存在していた。
デンマークである。
「Dream Hack」
世界最大のLANパーティー。
普段はインターネットで遊んで居るゲーマー達が、自らパソコンを持ち寄り、夜通し遊ぶ。夜を通してゲームをプレイし続けるだけの、ゲーマーによる、ゲーマーの祭典。ゲーマーのお祭り。ゲーマーの為の巨大なパーティー。Dream Hack Winterと、Dream Hack Summer。年に二度のゲーマーのヘヴゥン。
その巨大な夢のLANパーティーの中のちょっとしたイベントとして、WarCraft3TFTや、カウンターストライクといったような、「真の対戦ゲーム」の大会は当然の如く開催されていた。高額の賞金を争い行われる、プロゲーマー達のトーナメントは開催されていた。それと同時に、dota allstarsなる糞ゲーのトーナメントも小さく些細に行われていた。
糞ゲー、ゴミゲー、単独では大会なんて行えるようなクオリティではないdota alsltars。eスポーツワールドカップだとか、ワールドサイバーゲームスなんていったような、世界的な大会では決して採用されない駄目ソフト。けれども、DreamHackはゲーマーの為の場所である。なんの制約もない、自由な空間である。どれだけ出来が悪くても、どれ程酷い糞ゲーであろうと、多数のプレイヤーが存在しているというだけで、トーナメントのはじまりである。Dream Hackとは、そういう場所だった。人民が作り上げた、人民の為の夢、人民の為の人民の糞ゲー。dota allstars。そのトーナメントが開催されるのは、当然の成り行きだった。
WarCraft3TFTの大会なんて、なんの希少性も無かった。
カウンターストライクの大会なんて、人々はもう見飽きていた。
「dota allstars」というなによりも有名な糞ゲーの真剣勝負トーナメント。
それは、新しいコンテンツだった。
人々はそれを見た。
それに注目した。
未知の世界。
未知のイベント。
未知の体験、未踏の地。
新たなる歴史の幕開けに立ち会っているという興奮。
世界中で、ここにしかない大会。
ここにしかないトーナメント。
それがDream Hackにおけるdota allstarsだった。
大勢の視聴者を集め、世界中から取材が訪れる巨大な場所で、トーナメントが行われ、それが大勢の人民の注目を集めるという事実は、プロチームの誕生という結実を迎えた。Meet Your Makers、MYMというデンマークのeSportsチームが「dota allstars部門」の立ち上げを決めたのだ。デンマーク中から最強プレイヤーが集められ、デンマークオールスターとも言える最強のチームが完成した。デンマークに栄光と歓喜をもたらす為の、無敵の5人が集まった。
ソビエト、という国がかつて存在していた。
その国は寒い。その国は貧しい。その国は巨大。
スウェーデンよりも、デンマークよりも、遙かに多い人口。
冬には雪が積もり、ゲームくらいしかやる事がない。
そこはビデオゲームの国。
ゲーマーの連邦。
糞ゲーであり、ゴミゲーであり、ひっどいひっどいゲームだったdota allstarsにおいて、世界で一番強い地域はソビエトだった。疑う余地の無い最強の地域であり、最強の国家だった。WarCraft3tftというゲームは、非常に低いスペックのパソコンでも動くように作られており、それもソビエトに味方した。ドイツ、フランス、あるいは北欧といった大国のゲームユーザー達が、ハイスペックでしか動かない新しいビデオゲームを移り気に摘み食いしている間も、決して豊かではない地域のソビエトでは、WarCraft3TFTとそのmodは、大勢のアクティブユーザーを抱え続けた。
その巨大なユーザーの母数を背景に、ソビエトはdota allstarsの最強地域として不動の地位を築いていた。けれども1つの不幸があった。デンマークは、遠い彼方に有り、ロシアは欧州統合の外側に位置していたのだ。それはあまりにも絶望的な現実だった。
5対5のdota allstarsというゲーム。
Dream Hackという唯一無比のオフライントーナメントに参加するには、5人のプレイヤーをデンマークに送り込む必要があった。自分の育った町から一度も出た事が無い、僅か15歳の天才プレイヤーが、「賞金がかかったトーナメントに参加する」という為だけにビザを取得し、列車と飛行機を乗り継いで、物価も言語も違うデンマークに辿り着く。それは途方もない困難であった。これが仮に、1対1の対戦ゲームであれば、ソビエトにも可能性はあった。けれども5対5である。5人である。5人もの人間が、それを行わねばならないのである。
飛行機代。
電車代。
ホテル代。
ビザ。
国境。
言語。
全てが逆風であり、全てが障壁であり、全てが障害であった。
かくして、DreamHackに辿り着けず、ソビエトは臍を噛み涙した。
デンマークから僅か100マイルの距離しかないエストニア人すら、DreamHackに辿り着く事は出来なかった。確かに、彼一人ならばデンマークに行く事は出来たかもしれない。けれども無念、dota allstarsは5対5。彼のチームメートはロシア人であり、ウクライナ人であり、モルドバ人だった。一人でデンマークに乗り込んだ所で、彼に出来る事は何も無かった。
そして、ソビエトは崩壊した。
世界最強地域たるソビエトは、身悶えながら死んで行った。
スウェーデン、ノルウェー、ドイツといったデンマーク周辺地域のプレイヤーは、DreamHack Summerと、Dream Hack Winterという、年に二度開催される、膨大な観客を集めるトーナメントに向けてモチベーションを保つことが出来たし、スポンサーも付いた。けれども、そのような大会の存在しないソビエトにとって、5人のプレイヤーがモチベーションを保ち練度を高め続ける事は不可能だったし、真剣勝負の場すら存在していなかった。オンラインの大会で最強を誇っていたソビエトは、DreamHackが開催される度に技術の進化から取り残され、その地位を落とし、あっというまに中堅国、やがては弱小国にまで落ちぶれてしまった。それ以降、ソビエトという地域がdota allstarsにおいて強国の地位を取り戻す事は終ぞ無かったのである。Dream Hackを守る鉄のカーテンが、1つの最強国家を死に追いやってしまったのだ。
その大会。
そのトーナメント。
それは、デンマークの栄光の為の大会であった。
デンマークが勝つ。
デンマークが喜ぶ。
デンマークが光り輝く。
Meet Your Makers。
デンマークの象徴。
デンマークの栄光。
最強のチーム。それがMYM。
世界中のdota allstarsプレイヤーの注目を、デンマークが浴びる。
強いMYM。勝つMYM。決勝に進出するMYM。
dota allstarsシーンの幕が開ける瞬間。
決勝の相手は、隣国スウェーデンから自費で訪れたアマチュアチーム。
そのチームには一人のプレイヤーが居た。
ジョナサン・ベルグ。
Lodaである。
Lodaは、デンマークが全てを手にするはずだったトーナメントの決勝で、事もあろうかMYMを木っ端微塵に粉砕した。粉砕して、粉砕して、粉砕しまくった。キャンプをはって、トレーニングにトレーニングを重ねた、プロゲーマーの集団である、デンマークオールスターの5人を千切っては投げ、千切っては投げ、誰が一番強いか、誰が最強であるかを完全に証明した。そのあまりの衝撃に、人々は酔いしれた。あるものは言った。Lodaこそがヒーローだ。Lodaこそがdota allstarsだと。
確かに、そのトーナメントで優勝したのはMYMというチームだった。
けれども、そんな事はどうだってよかった。誰1人としてMYMの事など気にはとめなかった。世界中のdota allstarsプレイヤーの記憶に刻まれたのは一つの名前、Loda。その名前だけだった。それは物語が始る瞬間であり、歴史が始る瞬間だった。そして、dota allstarsシーンのはじまりでもあった。
かくしてDream Hackの終了と同時に、Lodaという男に率いられたアマチュアチームは、SK gamingのdota allstrs部門としてプロチームとなった。それ以降、Dream Hackとは、Lodaによる、Lodaの為の場所だった。Lodaの為の大会だった。Lodaは様々なチームを渡り歩きながら常に最強チームのエースであり続けた。世界中のdota allstarsプレイヤーの模範であり続け、Dream Hackのヒーローであり続けた。
MYMは世界一の座を手に入れようと、「この人は強い」と噂になったプレイヤーに片っ端から節操なく手を伸ばし、メンバーを入れ替え続けたが、その試みは全て失敗に終わった。唯一例外的にMYMが世界一のチームだと認識されていたのは、Lodaというスウェーデン人を僅かな期間だけ入団させる事に成功していた時期だけである。
Dream Hack Samar。
Dream Hack Winter。
年に二度開催される、巨大な聴衆を集めるイベント。
その存在は、dota allstarsを「デンマーク周辺地域の国技」へと変えていった。
大会に向けたモチベーション。
舞台が引き寄せるスポンサー。
ノックアウト式のトーナメントがもたらす経験。
ソビエトにはそれが無かった。
目指すべき場所も、戦うべき場所も存在していなかった。
エストニア人のpuppyというプレイヤーが、ネット対戦でLodaと壮絶な死闘を繰り広げた末に勝利し、終了直前にLodaからkillを取り、Lodaに向かって発言した「noob」というコメントがちょっとした話題になったりしたけれど、誰一人としてソビエト人の発言をまともに取り合おうとはしなかったし、ソビエトを評価する人も居なかった。dota alsltarsシーンとはDream Hack Winterであり、dota allstarsシーンとは、Dream Hack Summerだったのだ。そしてそこにLodaという人物が存在し、輝き続けている限り、彼こそが世界のヒーローだった。
Dream Hackがdota allstarsをソビエトの国技からデンマーク周辺地域の国技へと変貌させると同時に、Dream Hackはdota allstars本体をも、まったく別のゲームへと造り替えていった。
馬鹿ゲー。
KUSOゲー。
くっだらないゲーム。
そんなゲームであったdota allstarsは、「Dream Hackの為の対戦ツール」へと造り替えられていった。少しずつ馬鹿ゲー要素は削除され、少しずつKUSOゲー要素は削除され、少しずつ、少しずつ、くっだらないゲームではなくなっていった。普通のゲームへと、普通の対戦ツールへと造り替えられて行った。
巨大な聴衆を集めるトーナメントを背景としたプロプレヤーとeSportsチームが先に存在していて、その存在に向けてdota allstarsは擦り寄せられて行ったのだ。Lodaが1勝する度に幾つもの問題点が明らかになった。「これはひどい」「あれはひどい」「このゲームはLodaに相応しくない」。少しずつ改良され、少しずつ変化し、それはLodaの栄光に値する、相応しいゲームへと姿を変えていった。くっだらないゲームから、eSportsに相応しい普通の対戦ゲームへと変貌を遂げていったのである。
完全な馬鹿ゲー、完全な糞ゲー、ケラケラ笑うだけのくっだらないアトラクション。そんなdota allstarsはもうどこに存在していなかった。dota allstarsという犠牲の上に、dota allstarsと引き替えに完成したdota allstarsという新しいmodは、その命名とパクリによって不正に手に入れた「TFTのmodの頂点」という地位を、世界中全ての人に認めさせる事に成功した。こともあろうか、dota allstarsこそがmodの頂点に立っていた。そうして訪れた新たな時代のユーザーの多くは、dotaというmodがかつて存在していた事すら知らなかった。dota allstarsの略称は、いつの日からか「allstarts」から「dota」へと変化してしまっていた。皇位簒奪は完結した。
そうしてdota allstarsが「対戦ツール」に変化していくと、世界中でdota allstarsが真面目に遊ばれるようになった。特にその傾向が強かったのは中国やアジアで、ネットカフェやウェブサイト主体の大会が行われ、チームが生まれ、特に中国という地域は、レベル的にはデンマーク周辺地域を完全に上回っていた。極稀になにかの間違いで世界的なeスポーツイベントに採用されたdota allstarsの大会では、中国が他の地域に勝つという光景が当たり前の出来事として繰り返された。
けれども、dota allstarsプレイヤーの視界の中心にあったのは、あくまでも年に2度、定期的に開催されるDream Hackであった。そして、Dream HackのヒーローLodaだった。やがてLodaから数年遅れて現れた、KuroKyという悪魔の化身がLodaの地位を脅かしたが、人民のヒーローは常に変わらずLodaだった。dota allstarsシーンの開幕を告げた、Dream Hackの英雄だった。
dota allstarsシーン。
それは、死につつあった。
dota allstarsというゲームは、WarCraft3本体の違法ダウンロードを背景に、2000万人とも3000万人とも言われるプレイヤーを得ていた。同時接続だけでも300万とも言われるくらいのゲームだった。けれども、時の流れは残酷である。時間の流れと共にその勢いは失われて行った。
dota allstarsのメンテナーがriot gameに入社して作り上げたLeague of Legendsというゲームは、基本プレイ無料という強みにより、多くのユーザーを集めた。一方でdota allstarsは廉価版で30ユーロもするWarCraft3tftというゲームを購入しなければプレイする事が出来ない。あるいは、違法ダウンロードしなければ遊ぶ事が出来ない。
それに、dota allstarsは所詮modだった。modであるが故に、マッチングシステムは存在していなかった。技術レベルが近い人同士が遊べるレーティングシステムを採用したLoLと違い、dota allstarsは同じくらいの強さの人達と遊べるシステムが無かったのだ。
dota allstarsはDream Hackという大会によって、かつての「誰もがけらけらと笑いながら気軽に遊べるBAKAゲー」ではなく、「プロ同士の真剣勝負に値する、よく出来た対戦ツール」に進化してしまっていた。それは「楽しく遊べるくだらないゲーム」が「初心者は熟練者に狩られるだけの対戦ツール」になってしまっていた事を意味した。
そうして、dota allstarsは消えて行った。
League of Legendsが大量の新規ユーザーを獲得し、一気に盛り上がる一方で、dota allstarsは順調にやせ細り、dota allstarsシーンも衰退し続けた。あるトーナメントが終わり、あるチームが解散し、有名なプロも引退したり、別ゲーに行ったり、復学したりして、シーンと呼べるだけの姿すら維持出来なくなりつつあった。dota allstarsシーンと言えるものが生きていたのは、中国やマレーシアシンガポールといった、極めて例外的な地域だけだった。世界の中心であったはずのデンマーク周辺地域は、完全に廃墟と化していた。
そんな時期に、steamで有名なvalve社が、dota allstarsのメンテナーを入社させ、「dota2」というdota allstarsのコピーゲームを作った。それは、dota allstarsの完全なコピーを目指していたが、まったくもって未完成だった。見るも無惨な劣化コピーだった。
そのdota allstarsの30%にも満たない、酷い酷い劣化コピーを用いてvalve社は、100万ドルトーナメント、なるものを開催した。ある者は歓喜し、ある者は激怒した。「あの伝説のプロが現役に復帰するって!」「なぜ未完成のゲームで大会などやるのか」
然りである。
そのdota2の大会において優勝したのは、誰もが認めるdota alllstars最強の無敵地域であった中国のチームではなく、NaViというソビエトのチームだった。valveが湯水の如く広告費を散蒔いたお抱えメディアの提灯記事によって、5人のソビエト人は、一夜にして大スターになった。dendiというウクライナ人は、国で最も有名なスポーツ選手の一人にまでなった。
仮に完成度30%にも満たないdota2という未完成の劣化移植ゲームではなく、dota allstarsというコピー元のWarCraft3の操作性を受け継ぐ完成したゲームで大会が開催されていたならば、優勝したのは間違いなく中国のチームだっただろう。100万ドルを手にしていたのは、まったく別の人達だっただろう。それに僕等は、賞金総額200ユーロの大会で、素晴しい名勝負を繰り広げた幾多のプロゲーマー達を思い出す事が出来る。そしてLodaを思い出す事が出来る。
そんな世界で大スターになってしまったソビエト人達を、僕等は上手く受け入れる事が出来なかった。僕がNaViに無関心で、消極的なアンチNaViになってしまったのは、安い安い、チープなdota allstarsシーンをずっと楽しみに見させてもらった、その刺激と興奮の記憶が今も生きているからなのだ。
数年後には完全に消滅してしまうはずだったdota allstarsシーンが、valveによる劣化コピーと、卑劣な課金商法と、膨大な広告宣伝費によって復元され、生き返った事については、喜ぶべき事なのだ。それは理解している。それでも、僕はまだ、dota2という現実と、NaViという現実を、うまく受け入れる事が出来ていない。
でも、思い出してみるべきだよね。
dota allstars自体が、欲望に塗れたパクりだったんだから。dota allstarsというゲーム自体が、元来どす黒い野望によって生まれた存在なのだから。valveの課金商法が酷いとか、広告宣伝費によるお抱えメディアの提灯記事が酷いとか言うのは、完全に筋違いだ。dota allstarsってのは、始まりからしてそうだったんだから。きたなく薄汚れていたんだから。それに、ありし日のスターがお金を儲けるのはよいことだしね。大抵の人生の苦しみなんて、お金があれば解決するんだ。
先日、Dream Hack Winterが開催された。
極めて僅かな賞金額のその大会に、dota2で不動の名声と、巨額の賞金と、不朽の栄光を手にしたNaViというソビエトのチームが目の色を変えて参加した事に、違和感を覚えた人も居たかもしれない。NaViの大スターであるdendiが、NaViのチームリーダーであるpuppyが、並々ならぬ決意を語る事に、違和感を覚えた人も居たと思う。ヨーロッパ周辺のチームしか参加しない、極めてローカルな大会に、どうして世界中の人々が注目するのか、理解出来ない人も大勢居ただろう。
けれども、僕等は覚えている。
悲しい、悲しい出来事を。
あの日のソビエトを。
1円の賞金も存在しない大会で輝き続けた続けたソビエト。Dream Hackというオフラインではなく、インターネットのオンラインヒーローだったソビエト。KUSOゲーのオンライントーナメントで大活躍し、世界中の憧れだった髪を赤く染めた10代半ばのロシア人。15歳の天才少年。ビッグマウスの高校生。彼らの未来を奪った、国境という壁。国境という現実。Dream Hackという表舞台。雪に閉ざされた裏世界。重く冷たい無数の屈辱的な敗北の積み重ね。無敵を誇ったソビエトが、鉄のカーテンに遮られ、凋落していった歴史を僕達は知っているのだ。
ソビエトの悲しみ。ソビエトの無念さ。それを晴らす為の舞台。
Dream Hack Winterとは、復讐の場だったのである。
そこで起こった出来事は、いつかの夜明けと同じくらい、皮肉なものだった。
NaVi、Evil Geniuses、Mousesports、Fnatic、Absolute Legends、そしてMYM。ソビエト、アメリカ、ドイツ、フランス、デンマーク。多くのプロゲーマーを抱える高名なeSportsチームが多数参加したDream Hack Winter 2012で優勝したのは、隣国スウェーデンから自腹を切って訪れた、名もないアマチュアチームだった。そのチームのエースプレイヤーは、Jonathan Berg。お察し、他ならぬLodaである。なんてこったい。Lodaって人は、生きていたんだ。今日も元気に生きていたんだ。
ずっと死んだと思っていたのに。
それは、生きていたんだ。
死んだと勝手に思い込んでるだけで、たぶん生きているんだよね。
きっとどこかで幸せに、今日も元気に生きているんだろうよ。