2013年4月21日日曜日

親は自らの子に障害者と遊んで欲しくはない。

ウナギが川底の泥から生まれるように、やさしさもまた泥から生まれると信じられていたのはイスカンダルより昔の話で、やさしさは人に元来備わった才能ではなく、やさしさを育むだけの環境から生まれる。自らの子供がやさしければ、親は一先ずそれを喜び誇るが、その継続を何よりも恐れる。子のやさしさを育んだものはやさしさとはかけ離れた場所から生み出された親の金であり、何億年も前から生き残ってきた強い生物の能力としての親の愛である。そのやさしさは生まれついてのものなどではなく、まるで環境から捏造されたものなのだ。

果たして私達の住む社会が、やさしさによって生き残れる世界であったならば、親は自らの子のやさしさを真に誇り、その継続を願うだろう。けれども現実は違う。この世界を支配しているのは暴力だ。この国を支配しているのは暴力だ。それは骨と肉から放たれる拳の暴力ではなく、不満や嫉妬から生み出される言葉の暴力でもない。目に見えず、形にもならず、その正体を書き表す事すら不可能なほど、薄くて透明でつかみ所のない、より深刻な暴力が、この国のこの社会に生きる人々の心には隅々まで染みこんでしまっている。それは突如として方々で吹き出す。血肉の通った暴力として。

やさしさは何の役にも立たない。 やさしさは無力である。それだけの話であればやさしさもまた1つの選択肢であろう。けれどもそうではない。まことに残念な事に、やさしさは被虐の対象の目印になる。鳴く鳴かないに関わらず、誰もが銃を手にする場所では、雉である事が罰なのだ。故に親は願う。自らの子が銃を手にする事を。なるべく高性能の自動小銃を手にとることを。そしてその引き金を躊躇なく引く事を。撃たれる前に撃つことを。撃つ側に回る事を。故に親は恐れる。自らの子のやさしさを恐れる。

そのやさしさが一過性の物であり、あっという間に失われてくれることを願う。自然な形で消滅し、自然な形で暴力を手に入れる事を願う。何かの間違いでやさしさが継続し、どこまでも果てなくやさしいままの青年になり、最悪のケースにおいてはやさしいままの大人になる。やさしさの継続は無能を意味するわけではない。奇跡的に継続してしまったやさしさもまた、それはそれで1つの才能である。 けれどもその才能は役に立たない。この世界においてはリスクでしかない。悪い物事に巻き込まれ、犠牲者となる因子でしかない。やさしさは危険である。やさしさはリスクである。

親は知っている。経験から知っている。攻撃すること、暴力をふること、加虐の側に回る事。先に引き金を引くこと、鍬を手に罵声を浴びせること、石を投げること、唾を吐くこと、何もせずただ存在するだけで、他者を傷つけられること。なんの意識もせず立っているだけで、毛穴という毛穴から、誰をも傷つけることのない、自らを守る為の最低限度の暴虐の風が吹き出すこと。親は自らの手によって鋳造されたやさしさの継続を恐れる。被害者ではなく、加害者ではなく、ただ犠牲者になってほしくはないと。

むかし、少し遠くに障害者の立つバス停があった。