完璧な間違い

躍動感溢れるペースで躍動感溢れるブログを書けないのは、躍動感が溢れているタイミングでブログを書いていないからである。(ここでいう完璧なタイミングとは、頭が痛くなく、胸が痛くなく、健康で気力に満ちあふれ、心が憎悪で支配されていないタイミングの事を差す)。そういう完璧なタイミングは日々頻繁に訪れるけれど、そういうときに何をしているかというと、主に、完璧にくだらないインターネットをネットサーフィンして「ああ、これは、完璧にくだらないね」と頷いたり、あるいはくだらない(本当にくだらない{本当の意味で[そうではなくて真に(まじで{冗談抜きで[そっち系のいみではなく(純粋に)]})]})ゲームを遊んだりしている。




なぜそのように完璧なタイミングを、インターネットやインターネットよりもくだらない事で浪費するかというと、完璧なタイミングを”それなりに有意義なこと”で消費してしまうと、「それなりに有意義なことなんかよりも、もっと完璧な事の為にその時間と努力を費やせば良かったのに」という非難のそしりを逃れられないからである。僕はただ他順に、自らによる自己批判を避けるために、完璧なタイミングで訪れた完璧な時間を完璧にくらだらないインターネットをネットサーフィンする事で浪費し、「完璧にくらだないインターネットは完璧にくだらないね」と興に入って非難見下し嘲笑し、それによって自らが批判されること、強いては非難見下し嘲笑される事を回避しているのである。




そんな事をしても何にもならないという事は理解している。けれども、完璧なタイミングで訪れた完璧な時間に完璧な行動を選択したとしても、何にもならない。何故ならばその結果生み出されるのは、猫も喰わないようなブログのエントリーだけであり、それによって僕の人生が僅かでも楽になることはなく、それどころかそれ自体が大きな害を成しており、完璧なタイミングの完璧な時間に完璧な努力をして何かを成し遂げたとして(重ねて言うが、それで出来上がるのは猫も読まないブログのエントリーだけだ)、何かが前進することも、自らが満たされる事も無い。あるいは僕の知らない見知らぬ愛しい誰かの助けになることもない。(見知らぬ誰かは実在するが、他者に対する愛をもはや持ち得ない僕にとって愛しい誰かは存在しない)




今日、今、自らに、完璧なタイミングで完璧な時間が訪れたとして、そこで完璧な努力を行い、自らが望む完璧な成果を得る事は、僕にとって完璧な一日ではない。なにしろ、自らが望む完璧なせいかこそが完璧に間違っているからだ。重ねて言うがおそらくそれは、ブログのエントリーを書くとか、レートを500上げるとかそういう類の完璧に何の役にも立たないし、何の満足も得られない(満足が得られたとして、それは捏造された謝った人生における捏造された謝った願望が満たされただけにすぎない、そこで得られる満足というのは、寄生虫に寄生されて木の枝の裏ではなく、葉の上を歩くように干渉制御されたカタツムリが、カラスにその身を啄まれてそれを喜ぶのと同じ類いの満足である。)




ならば、完璧なタイミングで訪れた完璧な時間を、完璧にくだらない方法で浪費する事が完璧な一日であり、浪費し続ける事が自らの望む完璧な人生であるかというと、それも僅かには疑わしい。その僅かな疑わしさの根拠は、僕の力では半ば言語化不可能な僅かさであり、僕はその僅かな疑わしさの事を、希望と呼んでいる。それは、完璧に間違っている。