私達は、自らの体験について語る事に極めて抑制的である。私達というのは、ゲーマーであり、かつテキストを書いている人間のことである。そのような態度に陥らざるを得ない最大の理由は、老人の昔語りは美化された自らの人生と歴史に対する言及に他ならず、即ちそれは自虐であろうとなんであろうと自慢である事を避けられず、私達によるゲームに対する言及は、年配者の自分語りによる自慢へと陥る事を避けられない。本人は雑談をしているつもりが説教になるだとか、本人は親身になってアドバイスをしているつもりがうざいだけの自慢になるといった、我が国に存在している当たり前の事は、当然のようにして私達の身に降りかかる。
こと、ビデオゲームはさらに大変である。
ビデオゲームは全てが接続されている。突然変異的にいきなり生まれたビデオゲームなどは存在しない。何かがあって何かがある。2018年に流行っているゲームのどれか1つを遡って辿れば、それは原始の世界まで、際限なく遡り続ける事は可能である。たとえば2018年において、世界で一番流行っているゲームである王者栄耀を遡れば、それはもはや誰の手によっても再現不可能なビデオゲームのプレイ体験にまで遡る事が可能であろう。2018年にストリートファイター2turboやバーチャファイターをプレイする事は可能であっても、そのプレイ体験を再現する事は不可能である。よって、ビデオゲームにおいても、現実の他の全ての事象において、年配者が行う若者への説教と自分語りに際し発生する出来事と、全く同じ事が発生する。曰く人々はそれを老害と呼ぶ。
ff15を無邪気に楽しむ人の目に耳に飛び込むファイナルファンタジーは、FF3のアイテム無限増殖であったり、ファミコン時代を終わらせたff7のプレイステーションだったり、あるいはff11だったりする。そんなものが必要であろうか。私達の住んでいる世界に、ビデオゲームに対する言及などというものが、果たして必要であろうか。
かくして私達ビデオゲームを真に愛するインターネットで文章を書く人々は、ビデオゲームに関する言及を行おうと思う度に自らに懲罰的とも言える多大な要求を行う。説教はしてはいけない、老害になってはいけない、圧力をかけてはいけない、歴史を語ってはいけない、体験を語ってはいけない、ビデオゲームを語ってはいけない。ビデオゲームは語る為にではなく、楽しむ為に存在する。果たして私達は沈黙する。僕等はビデオゲームを語れない。
けれどもそのような誠実さを宣言するのは不当である。そのような態度を人々に要求するのは尚のこと不当であり、それはもはや純然たる暴力である。何故ならば我が国において自由とは保障されるべき最大の権利であり、自由と対立する概念に関わる仔細は為べからず、全て否定されるべきことだからである。
僕には強い確信がある。ゲームに対するテキストに対する確信だ。僕がこのブログを書き始めてからというもの、その確信は一度として揺るいでいない。インターネットでゲームを語るゲーマーは紛い物であるという強い確信だ。ゲーマーはテキストを綴る暇があればゲームをプレイする。私達がゲームに関するテキストを書くのは、私達がゲームをプレイしていないからであり、ゲーマーではないからである。俺達はブラックベリーを愛用するスティーブ・ジョブズみたいなものだ。かくして、真の人々はビデオゲームについて語らなくなった。僕がこのブログを書き始めるきっかけになったブロガーは、もう10年以上ビデオゲームについて語っていない。僕にしたって同じ事だ。少なくとも、可能な限りビデオゲームについて語らないように務めてきた。何故ならば僕等はビデオゲームに対する誠実さというものを、せめてもの範囲内で、精一杯維持しようと努力し続けてきたからだ。その結果として訪れたのが、2018年というインターネットである。インターネットはしんざきのように金儲けの為にゴミみたいなテキストをばらまき続け検索エンジンを汚染する糞みたいな連中で埋め尽くされてしまった。
僕等はあれからもビデオゲームをプレイし続けてきた。これでもかこれでもかと、全力でビデオゲームをプレイし続けてきた。その上で、それについて語らずに口を噤み続けてきた。ビデオゲームについて語ることは、ビデオゲームに対する暴力である。たとえばそうではないにせよ、油断すれば、あるいは油断せずともすぐにその曲面へと墜ち果ててしまう。ビデオゲームは俺達の慰みものじゃねえ。ビデオゲームはプレイする為に存在する。果たしてその態度が正しいものであったかどうかを、僕等は知らないし知るすべもない。ただ1つ確かなものは、私達は「やらない理由」を決して語るべきではないという事だ。
人は嬉々としてやらない理由を語る。やらない理由を語るのは容易い。世の中に存在する物事をどれか取り出し、それにケチを付ければそれで済む。「故に私はそれをやらない」映画に読書に漫画にゲームに労働に、人々はケチをつけてそれらを見下し、故に私はそれをやらないという。知ったことか。連中は馬鹿にしたいだけである。見下したいだけである。侮蔑したいだけである。そうである事を僕等は知っているが故に、何かをやらない理由について語る事に、極めて抑制的である。やらない理由を万が一にも語ってしまわぬようにと、常に神経を張り詰めながら生きている。「おまえそんなことやってるの?俺はやらないよ?」という年配者の言葉が如何に私達若者にとって不愉快なものであるかを、僕等はかつてより知っていたからだ。たとえば僕が人のゲーム配信を一切見ない事は知る人ならば知っているだろうが、それについて書いた事も無ければ、書くつもりも語るつもりもない。インターネットは糞だ。インターネットは糞じゃない。インターネットのごく一部は糞だ。そしてごく一部の連中は声が大きい。
この不倒城のしんざきという糞から生まれた糞みたいなゴミは、「動画を見る時間があったらゲームがやりたい」とか得意気にテキスト装飾までして書いた挙げ句に、同じ糞以下の糞連中と、ゲームを出汁にしながら耳たぶをねぶりあってるが、おまえ時間があったらゲームがやりたいんだろ?じゃあゲームしてろよ。金儲けの為にブログを書いてるんじゃないと得意気に見得を切りながら、ビデオゲームとビデオゲームプレイヤーを小馬鹿にしながらインターネットで小銭稼いで悦に入ってるしんざきとかいう本物のゴミは、時間があったらゲームしたいのに、なんで糞以下のテキストを検索エンジンを汚染しながらインターネットで垂れ流してんの?糞の山から生まれた糞の塊みたいな人糞をリアルで育成してんの?そんなゴミはとっとと捨ててゲームしてろよ。時間があったらゲームしたいんだろ?まず自分の言葉に責任持って未来永劫インターネットから完全に消え失せろよ。いや、俺が言わなくても消え失せるんだよな。時間があったらゲームやりたいって書いてるんだから、糞以下の糞の山のテキストは全部削除して二度とインターネットに現れるなよ。いやー、良かった良かった。俺達はこのしんざきとかいう糞が量産したゴミ以下のテキストを検索エンジンの検索結果で二度と見かける事はなくてすむし、時間があったらゲームがやりたいって言ってる人は、ゴミみたいなテキストを未来永劫もう二度と書かなくていいから、ゲームが出来るわけだ。win-winだよね。いやー、よかった。あ、そうか。インターネットから過去ログを全削除する時間も惜しいか。時間があったらゲームがやりたいんだもんな。まあ、じゃあ、それはしゃーないね。それくらいは我慢するか。とりあえずこれ以上、不倒城とかいう有害サイトと、それ以上に劣悪なスパムサイトに、しんざきの書いたテキストがもう二度とupされる事はないという事実だけでよしとするわ。