2018年5月15日火曜日

池内恵とインターネット。人生は誰かを悲しませない為にあるんじゃない。

今日も今日とてインターネットをしていると、池内恵がインターネットと戦っているのを目にしてしまい、とても悲しい気分になった。ぼくたちは、その人生の全てをインターネットに費やし極めた、インターネットの名人だから、インターネットと戦うことが、どれほどまでに不毛であるかを知っている。知り尽くしている。知り尽くした上で、インターネットと戦って負けたり、インターネットと戦って消耗したり、そんな毎日を過ごしている。それが自分の人生なんだと、自分の人生を受け入れている。そんな人生が存在するのは仕方が無いし、そんな人生があったって、別にいいじゃないかって思っている。だって、インターネットはそれ程までに、最高にたのしいものだから。インターネットは人生に値する。けれども、同じ事を池内恵がやっているのを見てしまうと、とても悲しい気分に陥る。僕は池内恵じゃない。池内恵なんだから、もっと他にやることがあるだろって思ってしまう。自分の人生は棚に上げたままで。

池内恵は、今をときめく研究者だ。イラク戦争と911に始まった、中東の新しい混乱は、イスラム研究者の池内恵を、時代の寵児へと駆け上らせた。仮に、中東の混乱を完全に別の次元の話として切り分けることが可能であるならば、それは僕等にとっても、池内恵自身にとっても、幸いな事だった。なぜならば、池内恵の書くテキストはとてもおもしろいし、読んでいて楽しい。人の不幸を遠くから眺めて知る事で、知的好奇心が満たされるのを、たのしいとか、おもしろいとか、そんなふうに思っていいのかは極めて疑わしいし、心がくるしいけれど、こんな中東の混乱の中で、池内恵を読めるのはとても楽しいし、とても面白い。とても面白いと思ったので、池内恵にはわりと課金した。ここ数年の人生において、池内恵以上に課金した個人コンテンツなんて、ほとんどない。せいぜい、staylish_noobにpoly bridgeの操作方法を課金して教えてあげたことと、おもしろくないとわかりきっている毎年恒例のレミュ金の新作を、今年も懲りずに課金して遊んだくらいだ。そんな三本の指に入る池内恵が、インターネットと戦っている。僕はそれを見て思う。「そんな不毛なことはやめようよ。他にやることがあるでしょう」って。自分のことを棚に上げながら。

インターネットはどこまでも深く、インターネットはおそろしい。掘っても掘ってもまだ掘り足らず、掘っても掘っても何も出ない。僕等は1日20時間も、インターネットをする毎日を、もう20年も過ごしてきた。だからそれを知っているけれど、池内恵はそれを知らない。僕はこの半生を、インターネットだけして生きてきた。友人はいないし、家族もいないし、仕事もないし、収入もない。インターネット以外との接点を、一切持たない。何故ならば、毎日毎日、来る日も来る日も、インターネットをし続けたからだ。インターネットは旅に値する。いや、旅どころのさわぎではない。僕等にとってのインターネットは、人生に値するという領域を越えて、もはや人生そのものだ。インターネットは僕達の、人生そのものを意味する単語だ。これまでインターネットと戯れて、僕等は歳を重ねてきたし、インターネットと戯れて、僕等は年老いて行く。僕達は、インターネットそのものなのだ。

なぜ僕達がそんなにも、一心不乱にインターネットをしたかというと、インターネットが楽しかったからだ。楽しいことのない人生において、唯一たのしかったのがインターネットだったんだ。インターネットで何かを書けば、見知らぬ誰かが返してくれる。こえかわいいねって書くだけで、ありがとうって言ってもらえる。うたうまいねって書くだけで、ありかとうって感謝される。あまつさえ、ハンドルネームを呼んでもらえる。素敵な文章ですねなんて書いた日には、人によっては感激してくれる。インターネット以外では、誰かに感謝されることなんてない。誰かに必要とされることなんて決してない。インターネットは、僕等が唯一必要とされて、インターネットとは、僕等が唯一感謝される場所だ。僕等はインターネットの中でだけ、世界の誰かの役に立つ。決して誰の役にも立たない、長く苦しい人生の中で、唯一誰かの為に生きる事が出来るのが、インターネットという空間だ。seakingjawsに14円を投げつけるだけで、「cheerありがとうございます」って言ってもらえるのはインターネットだけだし、pornhubの無修正違法動画をまとめているブログにアクセスして、興味の無い広告を意味もなくホイールクリックしてバックグラウンドで開いて見ずに閉じる度に、「ああ、僕の1クリックが、誰かの生活を支えている」って、満たされた気分になる。インターネットは生きるに値する。僕は生きるに値する。インターネットっていうのは、そういう場所だ。だからこそ僕等はインターネットで生きるし、インターネットで戦う。なんの意味もないってわかっていても、どうせ僕等の人生はなんにもないんだ。せめて戦う。せめて戯れる。せめて遊ぶ。せめて楽しむ。せめて消耗して、せめて堕落する。そうさ、インターネットする。だからこそインターネットする。インターネットは僕等にはちょうどいい、僕等の人生にもってこいの場所だ。人生を持たない僕達の、僕達の為の唯一の居場所だ。けれども、池内恵は、違うだろって思う。

インターネットは楽しい。際限なく無限に広がっている。多種多様なインターネットの側面は、僕等の心のいろんな場所を、ちょうどぴったりと満たしてくれる。戦いたいという欲望も、勝利したいという欲望も、誰かに必要とされたいという欲望も、愛されたいという欲望も。インターネットの世界では、どんな欲望も満たされる。それだけではない。インターネットをしなければ、生まれ得なかった欲望が、搔き立てられて目覚めて育つ。インターネットにインターネットの種をまき、インターネットで間引きながら、インターネットを追肥すれば、インターネットが収穫できて、インターネットで食べられる。お腹がふくれることはないし、それで幸せにはなれないけれど、心の中のインターネットが、インターネットで満たされる。僕等はそれを知っている。知っててそれをやっている。けれども、池内恵は違う。池内恵はおそらくだけど、それを知らずにやっている。だからこそ僕等は悲しくなる。なんで池内恵はインターネットしてるの。他にやることがあるだろう、って。自分の人生を棚に上げて。

池内恵はアカデミックな人だから、毎日20時間インターネットをやり続けるような人生は、過ごしてきてはいないだろう。僕等はそれをやってきた。僕等はそうして生きてきた。1日20時間のインターネットを、もう20年も続けている。インターネットで戦うことが、どれ程までに踏もうであるかを、知り尽くした上でやっている。今更どうにか出来るものか。僕等は一生インターネットだ。まるで誰かを信仰するかのように褒め称えては崇めたり、まるでカルタゴに塩を撒くように、誰かの何かを憎んだり。時として刃を交えたり、一方的に勝利宣言をしたり。あるいは都合良く逃げ出したり、うまくごかまして煙に巻いたつもりになったり。ノーダメージを装う為に、他の何かを「たのしいたのしい」と褒めそやし、好きなことに熱中して、他のことなんて眼中にないという演技をしながら、揚げ足をとって一発かましてやる為に、必死で過去ログを漁ったり。僕等はそんな人生を生きている。事実、僕はそうやって生きてきた。インターネットとはそういう場所だ。

インターネットはあまりにも刺激的すぎて楽しくて、いろんな欲望が満たされてしまう。人は皆、インターネットに堕ちてゆく。池内恵は堕ちている。既に完全に堕ちている。おそらくもはや何人たりとも、池内恵という人を、インターネットの魔の手から、救い出すことは不可能である。人は皆、インターネットの前では無力なんだ。人と自動車とがぶつかれば、人が跳ね飛ばされてしまうのと同じように、人とインターネットがぶつかれば、人間なんてはじけて消える。科学技術っていうのは、そういうものだ。人類の英知っていうのは、そういうものだ。池内恵はインターネットと戦って、インターネットを論破して、インターネットに勝利して、インターネットで味方を集め、インターネットで読み広められ、インターネットで共感を呼ぶ。それが、インターネットだ。それこそが、インターネットだ。僕等が人生を費やしたものだ。

僕には、わかる。よくわかる。池内恵がよくわかる。池内恵の血が沸き立ち、肉が踊っている様が、手に取るように見て取れる。インターネットは僕達に、最高の体験をもたらしてくれる。インターネットでしか出来ない体験を、他のどこでも味わえない興奮を、インターネットはもたらしてくれる。だからこそ、僕等がインターネットをしたように、池内恵もインターネットする。インターネットは他のどのような体験をも凌駕する。クリスティアーノ・ロナウドだって、イーロン・マスクだって、たのしいたのしいって大興奮して、踊りながらインターネットする。何人も、インターネットからは逃れられない。どんな勇敢な戦士も、どんな高潔な聖者も、インターネットには敵いやしない。インターネットは無敵なんだ。だからこそ、僕等はインターネットだ。インターネットは無敵なので僕達は、インターネットを続ける限り、死んでも無敵のままなんだ。インターネットがある限り、僕等の人生は負け知らずだ。

池内恵が戦っているのは、僕だ。僕こそが池内恵を不愉快にし、池内恵を怒らせて、池内恵と戦って、池内恵に論破され、池内恵に無視されて、池内恵にブロックされて、池内恵を満足させて、池内恵を満たしてやった。なぜならば、僕は、インターネットだから。僕こそがインターネットだからだ。池内恵はインターネットで不愉快になり、インターネットに激昂し、インターネットと戦って、インターネットを論破して、インターネットに無視を決め込み、インターネットを晒し上げ、インターネットをブロックしては誇らしげに公言し、インターネットで満足して、インターネットで満たされた。そんなことに、なんの意味があるってんだろう。インターネットをして、なんになるんだろう。インターネットは、なんにもならない。僕等それを知っているけど、池内恵はそれを知らない。いや、池内恵にしたって、インターネットがなんにもならないことくらい、きちんと知ってる可能性もある。まあ、知っていたところで、どうにもできない。インターネットとはそういうものだ。人の力では抗えぬものだ。

池内恵がインターネットと戦っているのを見て、僕等はとても悲しい気持ちになった。どうしてそんな事をしているの、って思う。他にやることがあるだろう。池内恵だけじゃない。インターネットと戦ってる人を、インターネットで見かけると、とても悲しい気持ちになる。やめておきなよ、って思う。けれども僕等は知っている。人生ってのは、そういうものだって。


私達は、誰かを悲しませない為に生きているのではない。自分のやりたいことをやっているだけなんだ。池内恵が「わたしはインターネットしたい」って言ってる以上、僕等はそれに意見することすら出来ない。だって、池内恵の人生は、池内恵のものなんだもの。どこかの誰かの人生は、他の誰かの為ではなくて、その人自身の為にある。誰かを悲しませない為に、僕等は生まれてきたんじゃない。誰かを悲しませない為に、僕等は生きているんじゃない。僕等は、自分自身の人生を、自分自身で生きているんだ。「そんな事をしたら俺が悲しむ」なんて言われても、知ったこっちゃない。えらそうに、人の人生に干渉しようとするんじゃない。何様のつもりだ。そんな権利は誰にもない。池内恵がインターネットをしたいって言うんだから、池内恵はインターネットをするんだよ。それで僕が悲しくなったって、それで誰かが悲しくなったって、そんなこと、池内恵は知ったこっちゃあない。おまえは、俺の何でもない。おまえはただのインターネットだ。インターネットは黙ってろ。

人生は、誰かを悲しませない為にあるんじゃない。人生ってのはね、やりたいことをやりたいだけ、悔いのないようにやるもんだ。人生はたのしむためにある。だからこそ、僕等はインターネットをして、インターネットで老いぼれて、インターネットで死んでいく。僕には友人がいない。僕には家族がない。僕には知り合いもいない。僕には収入がなく、僕には生きる希望も、生きる意欲もない。けれども、僕にはインターネットがある。実際のところ、ここだけの話をしてしまうと、事実上僕にはインターネットすらないんだけれど、僕にはインターネットがあり、僕はインターネットだ。セガBBSに書き込んでから、もう20年もの間、毎日毎日欠かさずに、僕はインターネットして生きてきた。インターネットで生きてきた。いや、インターネットとして生きてきた。言葉を発することもなく、また一日が明けてゆく。誰との接点も一切なしに、誰にも読まれぬブログを書いて、インターネットで生きてきたし、インターネットで生きている。毎日、毎日、インターネットだけをしている僕が、インターネットでなければ一体、どこの誰がインターネットたりえるだろうか。そうさ、僕はインターネットなんだ。誰かが悲しもうと、そんなこと、知ったこっちゃない。人生は誰かを悲しませない為にあるんじゃない。人生は自分自身の為にあるんだ。たとえば僕自身が悲しもうとも、そんなもの知ったこっちゃない。僕はインターネットなんだから。

池内恵がインターネットと戦っているのを見て、とても悲しい気分になった。どうして、そんな不毛なことをするんだろう。インターネットなんてくだらないのに。他にやることがあるだろうに。そんな悲しいインターネットは、今すぐやめてくれたまえ。いったいどんな気持ちで、アラブの春とは何だったのかを読めばいいんだろう。ページを1つめくる度に、インターネットをする池内恵が脳裏をよぎり、悲しい気持ちになってしまうに決まっているじゃないか。だから、僕を悲しませない為に、池内恵は今すぐに、インターネットをやめてくれ。なぜならば、僕が、悲しくなるから。池内恵をやめてくれ。なぜならば、僕が、悲しくなるから。インターネットをやめてくれ。なぜならば、僕が悲しくなるから。