わたしの人生を簡潔に言い表すならば、動きの無い人生だ。事実わたしは動いていない。乱雑に散らかった自らの部屋の、経年劣化でアームレストが割れ落ちた椅子の上の、真っ二つに割れてしまいもはやざぶとんとしての体を成していないウレタンの上で、一日中を過ごしている。動かすのは僅かに手首から上、指先だけ。他は何も動かない、動きのない人生を生きている。自らの人生の現実を見たく無いが故に、視線がモニタの外側に飛ぶことすら稀である。石像のように生き、石像のように死んでいく。そのようなわたしが「チカっとチカ千花っ♡」を見て、世界というのはかように動くものであったのかという驚きを覚えたのは自然なことであろう。世界というものはかくも動くものなのだ。膝は動き、腕は動き、指も動き、肩も動く。そんな事実を僕は忘れて生きてきた。僕の生きている世界において動くのは、唯一マウスカーソルだけである。他に動くものはなにもない。それ故に僕は「チカっとチカ千花っ♡」を見て驚いたのである。世界が動きに満ち溢れているという事実を思い出して、その事実に動揺を覚えたのである。しかし、youtubeで「チカっとチカ千花っ♡」を毎日繰り返してみていると、1つの問題が発生した。
youtubeが、わたしに対して、「チカっとチカ千花っ♡」の踊ってみた動画を推薦してくるようになってしまったのである。無論、それを悪い事なだと言つもりはない。「チカっとチカ千花っ♡」の動画を見る人が、「チカっとチカ千花っ♡」の踊ってみた動画に興味を持つ可能性が高いというのは自然なことであり、その点においてyoutubeは優秀である。問題はそこではない。問題は、「チカっとチカ千花っ♡」の踊ってみた動画のスカートが、悉く短い事である。これは致命的である。
「チカっとチカ千花っ♡」の何がよいかというと、スカートが舞う事である。動画では、開始と同時に膝が出ているが故に、膝上丈ののスカートを着ているように見えるが、それは大きな間違いである。あれは、寝転んだ上で、万歳状に両腕を上へと伸ばしているが故に、ワンピースのスカートが肩と腕に引っ張られる形で膝が露出しているだけであり、動画の中で着用されているスカートは明確に膝下丈である。断じて膝上丈ではない。「チカっとチカ千花っ♡」の踊ってみた動画はそれを理解していない。どれもこれも、膝上丈のスカートで踊っている。踊り手を自称する輩どもは、ただの露出狂である。脛を、膝を、太ももを、露出する好機とばかりにただ露出して、万人に見せつけんとしている、露出狂どもである。断じるが、連中は躍り手などではない。よしんば踊り手であったとしても、真の踊り手ではない。偽の踊り手である。真の踊り手であるならば、「チカっとチカ千花っ?」という動画を見て、膝上丈のスカートを着て踊ろうだなどとは、断じて思わぬだろう。その点において、私達が住むこの世界には、真の踊り手なるものは存在せぬと断言してよい。
ここでわたしは気が付いてしまった。世界には真の踊り手が存在していない。これは、好機である。チャンスである。千載一遇の好機である。ここでわたしが真の踊り手にならば、真の踊り手というNicheは私によって独占されるのだ。皆様ご存知の通りであろうが、地球の長い歴史の中で、メガファウナはこのタイプのNicheを独占する事でその存在を巨大化させてきた。パラケラテリウムはアフリカゾウよりも遥かに巨大であり、エピオルニスはダチョウよりも遥かに大きい。シロナガスクジラも、ゾウガメも、かつてはウルトラサウルスと呼ばれていたアルゼンティノスも、スカートの丈というNicheを利用する事でその存在を巨大化させてきた。そして今、僕等が生きてるインターネットには、スカートの丈が膝上であるか、膝下であるかというNicheを利用している巨大生物は存在せぬのである。わたしは、この好機を逃さない。インターネットで誰よりも巨大になり、インターネットで誰よりも有名になって見せる。決めた。僕は踊り手になる。膝上丈のワンピースを着て、くるくると回って見せる。俺が藤原書記になる。