ペレが空を飛んだというのは、ペレに関する事実の中でも最も有名な嘘である。
喋ることにかけては右に出る者は居ないと自負する出自も知れない怪しげな人達が、フットボール場ではなくラジオ局でマイクの前に座り、一日中代わる代わるに思い思いを喋り続けていた時代においても、フットボールはブラジル人にとってはセックスと並び人生において、最も重要なものの1つだった。
カナリア色のブラジル代表が旧世界、即ち欧州の国々と対戦する度に、彼らはただ喋り続けることにより、それを伝えた。映像が電波に乗るより以前、広大な国土を誇るブラジルという国において、ペレの姿を見た者は皆無に等しかった。
今なお最も偉大なフットボール選手の一人に数えられているペレの姿を、いかにして大衆の元に届ければよいのか。彼らはその巨大な難問と向き合い続け苦心惨憺を続けた結果、遂に、遂にペレは空を飛んだ。ペレは空を飛んでしまったのである。
けれども、誰一人としてペレ本人に「あなたは本当に空を飛んだのですか?」などと問いただす人は居なかった。それは、誰もがその嘘に気がついていたからなのではなく、むしろ、誰もがそれを、ペレが空を飛んだという事実を、真実であると頑なに信じていたからである。
ブラジルの黄金時代とでも言うべき長い戦後を支えたのは、その嘘を頑なに信じ続けた人々であった。ファルカンが、ソクラテスが、トニーニョセレーゾがそれを信じ、ペレに憧れ、ブラジルという国を形作った。グレンホドルに言わせれば、「ブラジルのフットボールは嘘で出来ている」というわけである。
けれども、誰がそれを不誠実な行為であると責められよう。海を越えて試合結果だけが電信で伝えられて来る中で、90分もの間でたらめを喋り続けるような事が許された時代においては、ペレが空を飛ばない限り、ペレの偉大さが大衆の元に届くことは、決してなかったのである。
テレビは、そんな時代を終わらせた。伝えたいという思いが先端技術を発展させて、それは普及し時代を変えた。映像は、常に真実だけを伝えた。街頭テレビのブラウン管は、ラジオによって作られた嘘を1つ1つ暴いていった。力道山は空手チョップで世界中の強者共を片っ端から薙ぎ倒し、日本国民はそれに酔いしれた。
世界で初めてのテレビオリンピックとなった東京五輪において、テレビはそれを世界に伝え、市川崑だけがそれに刃向かった。市川は、オリンピックの100メートル走の決勝戦の、下半身だけを撮影し、誰が走ったのかも、誰が勝ったのかもわからない、荒唐無稽な映像を作った。
それが伝えたのは、ただ、いそいそと回る足だけだった。それにより人々は、オリンピックで100メートルを走っているのは、陸上選手とは名ばかりのコマ送りの棒人形などではなく、血の通った生身の人間だったのだと、その時、初めて知る事になった。もう二度とペレが空を飛ぶことは無かった。
時代が流れるにつれ、技術は進歩した。映像は進化し続けた。もうあの日のように下半身を賢明にカメラで追う必要は無くなった。40インチのハイビジョンは、筋肉の動きまでをも正確に捉え、電波に乗ったその映像は、2秒遅れで世界に飛んだ。
ペレが空を飛んだ頃には、いや、東京五輪が開かれた頃ですらただの1台も存在していなかったようなテクノロジーのカメラが18台も国立を囲み、22人の選手と2人の監督を絶えずその枠内に捕らえ続けたが、それを喋るのが角澤照治であったという事実は、技術の進歩が人類の幸福に必ずしも貢献しないという紛いなき真実を顕著に伝えた偉大な1つの例である。実況者とは真実を大衆に伝える仕事である。角澤もまた、その例に漏れず、職務を忠実に果たしたのである。
一部、聴衆の間では、格闘新世紀1の鳳凰という称号に対し、大覇王はないんじゃないか、そんな声もささやかれていました。だがしかし、その肩書きを、より強く、深く、高いものに自ら伸し上げていったのが、この大覇王、超南アキラ。今やこの大覇王という称号は、揺るぎないもの、そして、かつてのものとは計り知れないほど高いものになっています。その、大きな壁に立ちはだかる、猛者、ムームーダンス。まずは1ポイント。大覇王がその格式を見せつけます。
僕は、この実況こそが我が国のEスポーツの歴史において最も素晴らしい実況であったと、今も信じて疑わない。この実況の素晴らしさは、「一切実況していない」点にある。普通、実況者というものは、映像をなぞる。映像に捕らえられている事実を出来る限り正確に喋ろうとする。けれども、斉藤はこの実況において、その努力を完全に放棄した。
見て解る事は一切喋らない。対戦が始まっているにも関わらず、一言も喋らない。実況しない。その代わり、見ているだけでは伝わらない事を、全力で伝えに行ったのである。斉藤がこの実況で伝えようとしたのは、大会の歴史であり、プレイヤーが背負ってきたものであり、プレイヤーと、クリエイターと、会社と実況者とが、寄りかかりながらそれぞれに、裏道をとぼとぼと歩いてきたバーチャファイターという細く長い道のりだった。
株式会社セガの中にも、流石に「この実況者は凄い」という事に気がついた人が居たらしく、家庭用のバーチャファイター5は「実況パワフルVF5」として作られたが、ワゴンに積まれた。バーチャファイター5はワゴンに積まれた。ゴダールに言わせれば、「セガは悪くない。大衆が馬鹿なのだ」と、なる。どうあれ、バーチャファイター5は、ワゴンに積まれた。ワゴンに積まれてしまったのである。
そろそろ、このエントリーの主人公であるDAICHIにご登場いただこうと思う。
「俺、この動画はやくあげてえよ。」
このフレーズこそが、DAICHIを象徴する。
え、これ今何分?動画
今2時間47分です。予定通りです。予定通りです。
俺この動画はやくあげてえよ。(野次:だいちはやく帰れ!)
でも実況してえよ。(野次:直帰直帰!)
わかった、今日徹夜で作業するわ。
前述のバーチャ実況の斉藤は、セガの社員だった。セガという会社が、開発したゲームのユーザーの為に、そして会社の利益の為に、大会を開催し、それを社員に実況させた。そこで生まれた実況だった。けれども、DAICHIは違う。DAICHIという人は、自らで大会を開催し、自らで実況をし、自らでエンコードし、自らでニコニコ動画にアップロードしたのである。それを続けたのである。DAICHIという人は、なぜそんな事をしたのだろうか。僕が思うに、DAICHIという人は、よっぽどの暇人だったのだと思う。他に理由など無いと思う。
DAICHIという人が、自らで開催し、自らで実況した大会の動画をニコニコ動画にアップロードし始めたのは、今からちょうど一年くらい前の事である。彼が取り上げたのは、北斗の拳という完全にバランスの崩壊した、非常に不人気な2D対戦格闘ゲームで、当初は、8人の出場者を集めるのにも苦労し、彼が携帯で呼び出し、あるいはゲームセンター中の人に声をかけてやっとの事で開催していたくらいのものだった。そしてDAICHIの実況もまた、お世辞にも聞けたものではなく、僕はそれを慎重に聞いて、非常に失望したのを今でもはっきりと覚えている。
「ニコニコ動画に凄いゲーム実況が居る。」
そんな噂が僕の耳に入ってきたのは、昨年のクリスマスの頃だった。
WarCraft3というゲームのプロゲームシーンの熱心なファンで、3年以上に渡って毎週十時間以上もプロゲーマーの対戦動画のリプレイを欠かさず見続け、それだけには飽きたらず、韓国人の実況動画やドイツ人の実況動画、あるいはロシア人の、中国人、アメリカ人の実況に至るまで、言葉を全く理解出来ないにも関わらず見続けていた酔狂な、狂信的とも言うべきEスポーツ好きの僕にとって「日本人の凄いゲーム実況が聞ける」という話は、まるで素晴らしい夢のような出来事に思われた。
仕方が無しに嫌悪していた、そして今でも嫌悪しているニコニコ動画のアカウントを取得し、DAICHIの実況動画を探し、一番古いものを選んでそれを見た。見るべきものは何もなかった。舌は回らない。済んだ事をディレイで喋る。言い間違いや思い違いを延々引きずる。まるで聞き手の事を考えていない。独りよがり。自己満足。
それは、地方都市のゲームセンターの店員が場末の大会でだらだらと喋っているのと、たいして違わないレベルだった。酷い実況だと思った。同じ動画で実況していた、もう1人の実況者の方が、まだまともに思えた。今聞いても、同じように感じるだろう。「この実況どこが凄いんだ」と不愉快な気分になった。身内が内輪で褒めているだけなんだろうと僕は考えた。インターネットに騙された、と思った。
けれども、DAICHIは変わっていった。
目に見える速度で変化していった。
何がDAICHIを変えたのだろう。
その問いには、はっきりした答えがある。
DAICHIが、DAICHIを変えたのである。
DAICHIは、自らの実況動画を、自らでエンコードし、自らでアップロードした。当然、DAICHIは誰よりも早くDAICHIの実況を耳にする事になった。ニコニコ動画のシステムでは、コメントを読む為には動画を再生する必要があった。必然的に、DAICHIは自らの声を自らで聞き続ける羽目に陥った。適当な人間でありながら、些か神経質な所を持つDAICHIはコメントを読むためにニコニコ動画にアクセスし続け、その度に自らの実況を聞き続けた。そうして聞いたDAICHIの声が、DAICHIという人を、もの凄い速度で変えていった。
DAICHIは毎週2度もの大会を自ら勝手に開催し、自ら勝手に実況し、自ら勝手にエンコードし、自ら勝手にアップロードし続けた。その度にDAICHIは自らの実況を自らで聞いた。「自分の実況を繰り返して聞き続ける」という希有な体験が、DAICHIを常識では考えられない速度で成長させていった。DAICHIは言う。
俺さあ、滑舌よくなったんだよね。
喋れるんだよ。自分でもびっくりした。喋れるの。
実況動画の試合と試合の合間に、DAICHIがぽつりと漏らした時、周囲の反応は薄かった。それもそのはずである。周囲のプレイヤー達は皆、「大会参加者」だった。彼らにとってのDAICHIの喋りは大会を彩るリアルタイムの出来事でしかなかった。大会の参加者達は、現場でDAICHIの喋りを聞き、大会の様子を生で見ていた。ニコニコ動画で見るにしても、精々一度きりだった。
その場に居た人達の中で、ただ一人DAICHIだけが、DAICHI動画を繰り返し見ていた。何度も、何度も繰り返し見ていた。自らで開催した大会であるという誇り、自らで実況をしたというプライド、自らでエンコードしたという情熱、自らの動画に付けられたコメントを読みたいという欲望、そして止まるところの無い自己愛。それらがDAICHIをDAICHI動画へと向かわせ、結果としてDAICHIは成長し、その成長したDAICHIの姿に誰よりも驚いたのがDAICHI本人だったのだ。そして彼は言ったのである。「自分でもびっくりした。」と。
今日は18名もの北斗プレイヤーが、参加してくださいました。
ありがとうございます。ありがとうございます。
DAICHIが変わるにつれ、変化していったものがもう1つだけあった。
大会参加人数である。当初8名の参加者を集めるのにも苦労していたDAICHI大会は、あっという間に16名の壁を越えた。ニコニコ動画で噂を聞きつけ、ニコニコ動画でDAICHIの声を聞いたプレイヤー達が、渋谷から、新宿から、あるいは横浜から、ぽつり、ぽつりと少しずつ、中野ブロードウェイへと集まり始めた。
それは、スポンサー付きプロゲーマーらによって、高額の賞金を巡って繰り広げられるWarCraft3シーンを見続けていた引きこもりである自分にとっては、とても奇妙な光景に思えた。賞金もない、賞品もない、得る物の無い大会に、汽車と地下鉄を乗り継いで、一人、一人と参加者が増えていった。
そうして集まった都内各所の名プレイヤー達によって、DAICHIの声は割れ、喉は枯れ、大会は日増しにその熱を増していった。動画はそれを伝え続けた。精密機械の異名を持つKIが圧倒的な実力で大会を連覇し続けた。「帰宅しようとする対戦相手にお金を渡して対戦を求めた」あるいは「北斗をプレイする為に上京した」というエピソードを持つイチは、色物プレイヤーに4連敗を喫して良い所無く負けて消えて行くという損な役回りを演じながら、何時しか復調し、DAICHI動画において最も存在感のある必要不可欠なプレイヤーの一人にまでなった。弱キャラの中堅プレイヤーという、弱小選手の一人にしか過ぎなかったひげは、いつの間にかDAICHI動画のもう一人の主人公とでも言ってよいようなサクセスストーリーを歩み始めた。
土曜日と水曜日が来る度にDAICHIは喋り、回を追う毎にDAICHIは成長し、参加者は増え続け、DAICHI動画は不思議な熱を帯びていった。その動画の熱を作り出していたのは、プレイヤー達だった。DAICHIではなく、中野ブロードウェイに集うプレイヤー達だった。その事実を指して、「DAICHIは個性的な参加者に恵まれたのだ」と言う事は簡単である。おそらくに、それは真実だと思う。けれども、僕はその事実を認めたくないし、それを真実だなどとは思わない。そこには、ただ、DAICHIが居た。
土曜日が来る度に3時に家を出て4時に着くや否やマイクを持ち、野試合をプレイしながら野試合を実況し、午前0時まで息も絶え絶えに喋り続ける。見慣れない顔を見つけては迷惑とも言えるまでにアドバイスを繰り返して丁寧に育て、大会のレベルに付いていけない人が増えると見るや初級者限定の大会を開催し、しかもそれを自ら喋り、自らエンコードし、自らアップロードし、その大会から幾人もの名プレイヤーが生まれるにまで至った。
何が彼をそうまでさせたのだろう。僕は、多分、DAHICIという人は、よっぽどの暇人だったのだと思う。僕の貧相な想像力では、そのように理解するのが精一杯である。けれども、幾人かの北斗プレイヤーはそのようには捕らえなかった。そして、彼らは中野ブロードウェイを目指した。
渋谷勢、新宿勢、横浜勢。
それら「外敵の侵入」とでも言うべき事態は、DAICHI動画にそれまでとは少し違った色を加えた。それは、僕が何年も前にWarCraft3シーンで目にした、「北米勢の参入、韓国勢の乱入、中国勢の登場、ロシア勢の台頭」といったものと同じような、新しい刺激と衝突を生み、それらは必然的にプレイヤーの譲れぬ意地となり、新しい名勝負を生み出した。
「小さなコミニティの気持ち悪い身内色」といった空気が完全に払拭される事は決してなかったが、DAICHIは彼ら外敵とも呼ぶべき外様勢に、ぎりぎりの所まで極限に気を遣って喋り続けた。僕はDAICHIが身内のノリで、内輪の面子を「おいこら○○!」と何度も呼び捨てにした後で少しの間沈黙してから、申し訳なさそうに「○○さん……、○○さん。あ、試合お願いします。」と縮こまっているのを何度も見た。そういった点において、DAICHIが成長することはまったく無かったが、驕り高ぶる事もまったく無かった。DAICHIは最初から最後まで、変わらずDAICHIのままだった。変わったのは、実況技術だけだった。そして、それは何よりも大切なことだった。
「遠路遙々ありがとうございます。」
「またの参加をお待ちしています。」
都内各地の実力者が中野ブロードウェイに来る度に、DAICHIは彼らの目を見てそう繰り返し続けた。来る度に、来る度にDAICHIは同じフレーズを心を込めて読み上げ続けた。8人を集めるのがやっとだったDAICHIによるDAICHIの為の大会は、遂に32人の壁を越えた。参加者から優勝賞品が寄せられるようになった。ゲームセンター側からDAICHIに送られた報酬は、ジュース一本だけだった。DAICHIという人は、世界中で一番ジュースが好きなんだと思う。僕の想像力ではそう理解するのがやっとだった。けれども、世界はそうは思わなかった。大会は熱を帯び、誰もが見たことの無かったような奇跡的な試合展開が録画され、その度にDAICHIは声を割って叫んでいた。それはDAICHIの手によってエンコードされ、ニコニコ動画にアップロードされ続けた。そして生まれた名勝負の後にDAICHIは言った。「ゲームは楽しむものです。」。
もう、俺もなんでもいいわ。
楽しければなんでもいいわ。
ゲームは楽しむものです!
これを聞いたとき、初めてDAICHIを理解出来たような気がした。僕にとってゲームとは心に生まれた恐怖を埋める為の道具であり、現実からの逃避だった。けれども、DAICHIにとっては、違ったのだ。「ゲームは楽しむもの。」そう言い切れる強さが、DAICHIにはあった。そのメッセージは何よりも鮮烈で、何よりも強力なものだった。そしてDAICHIはこう続けた。
さあ、こんな楽しい空間中野TRF
是非、全国の、北斗プレイヤーは一度遊びに来てください。
お待ちしております。
それに、1つのコメントが付いた。
北斗の拳というゲームはあまりのバランスの悪さから、商業的には完全に失敗し、全国各地で筐体が撤去されつつあった。秋田には、既に1台の筐体も残っていなかった。秋田の北斗プレイヤーは自ずから全滅し、数人のプレイヤーだけがわざわざ仙台まで北斗をプレイしに行くという惨状だった。そして、その仙台のゲームセンターすら閉鎖されてしまうという話だった。
秋田と東京。あるいは、秋田と仙台。
それらの距離がどれくらいの物なのかを、僕は知らない。
知らないが、このコメントをした当人は、本当に、中野ブロードウェイに現れた。
そしてDAICHI動画初の「秋田勢」は、DAICHI動画に嵐を巻き起こした。
彼は一回戦でまず関東屈指のプレイヤー(渋谷勢)を葬り、次に中野ブロードウェイ生え抜きの、DAICHI動画の主人公とでも言うべきひげというプレイヤーを何もさせずに葬ってしまった。それは、衝撃的と呼ぶにはあまりにも衝撃的なデビューだった。地方のレベルは都心よりも低い、というのが当然の常識として皆の中にあり、DAICHIが彼の試合を一言実況する度に、その常識は砕かれていった。秋田勢、ジェフリーラオウというそのプレイヤーの次の相手は、大会に出る度に優勝をかっ攫って行く、あの憎たらしいKIだった。他のゲームの大会を3連覇し、「このゲームやってなくても勝てる」と言って大顰蹙を買ったあの、尋常成らざるKIだった。
ところが、ジェフリーラオウは、そのKIから1本を先取してしまった。並々ならぬ事態が起ころうとしていた。あの小憎たらしい憎たらしい、スーパーヒールのKIが、誰も名前も知らないような田舎から来た見ず知らずの外敵に敗れ去ろうとしていた。ジェフリーラオウはヒットポイントをほとんど全て残したままで、KIを残り1割にまで追い詰めた。ジェフリーラオウの冒険はそこで終わった。
KIはいつの間にか素知らぬ顔で勝っていた。それはいつもと同じ光景だったけれど、見たことのない光景だった。あの憎たらしい、憎たらしいKIが、まるで中野ブロードウェイを何かとんでもない侵略者から守った英雄のように光り輝いて見えた。あの忌々しいKIが英雄に見えてしまう。それも、手に汗握って秋田勢を応援していた僕の目にすら、光輝いて見えてしまう。
呆然とした。ああ、DAICHIという人は凄い。僕はこの時初めて思った。ブログを書き始めてから、誰かに負けたと思った事はほとんど無かったけれど、この瞬間、僕ははっきりと自らの敗北を自覚した。自らのブログパワーがDAICHIという人の持つブログパワーに完膚無きまでに打ち破られたのだと、強く感じた。悔しくて仕方がなかった。
もしもあの日、DAICHIというなんの才能も持たない一人の北斗プレイヤーが、自らの稚拙な実況を記録した動画をアップロードしなければ、こんな日は決して訪れなかっただろう。参加者を募り、新規参加者へのケアを行い、ニコニコ動画という場所で日本中のプレイヤーへと呼びかけ続けなければ、こんな日は決して訪れなかっただろう。DAICHIの熱は熱を呼び、それはやがて熱波となって日本中を駆け巡った。
このように書くと、DAICHIという人が、情熱的な色物実況者であると勘違いされてしまうといけないので、終段を迎えるより前に、DAICHIの実況技術の堅牢さというものについて、ほんの少しだけ書いておきたい。
お互いどう動くか。
開幕はお互い、その場で様子見。
そこから、先に攻めるはナオリシン。
小足から、コマ投げ。そして、
グレイブ当てて、小パン小パン小パン小パン小パン獄屠拳
星取って、蓄積も相まって
バニからの、これはいいガークラ連携。
小パン小パン小パンで刻んで
ここでせいえいこう。
ガーキャンは、ばれてた。
小足が刺さるが、2Bが届かない。
これは、追撃をミスった。ガーキャンで
切り返して起き責めは
小足、小パン重ねか。
ジャンBから、2B、ジャンC、2C、バニ。
起き責めは、ブー昇竜からバニぃ……新しい!
獄屠カウンター、ジャンBで追撃
小パン、ジャンC、小パン、はくは。
小パン、バニ届かない。
ここで浮かし投げ。
そっから、小パン、近B
グレイブ、遠B
そして天派活殺。
起き責めは、低ダ、見えなかった。
ラウンド取るのは種籾勢。
上の実況が、DAICHIの典型的な実況である。
DAICHIは有力プレイヤーの特徴を覚え、「彼ならばこう立ち回る。彼ならばこういうコンボをする。」というパターンを記憶し、それに対応した「喋ること」を、試合が始まるよりも前に頭の中できっちり完成させている。
その脳内で前もって準備していた「喋ること」を、忠実に読み上げる、とでも言うべきなのが、彼の実況スタイルである。動きを見てから喋るのではなく、DAICHIがマイクを持った時点でもう既にDAICHI実況は完成しているのである。DAICHIは、「リアルタイムで喋る」という実況者に必須の能力は極めて低く、完全に努力の人、あるいは現場の人とでも呼ぶべき実況者だと僕は思う。
それ故に、DAICHIは「驚く」のである。対戦の中で、自らの予想を超えた現象が発生した際に、誰よりも驚き、ショックを受け、取り乱し、叫び、自らを見失い興奮し、いつもとはまったく違う調子の実況を行うのである。そのDAICHIの驚きが、たとえば僕のような「北斗というゲームを全く知らない人」に普遍的な説得力を持たせ、DAICHI動画に不思議な力を生み出しているのだと、僕は考えている。
一方で、たとえ決勝戦や、事実上の決勝戦であっても、予想された範囲内の展開であれば、まったくテンションを上げようとしない。過剰に盛り上げようとしない。凡百の実況者なら「決して負けられない戦い」などと何度も何度も効果のない盛り上げ煽りフレーズを繰り返す局面であっても、DAICHIは決してそのような事をしない。たとえどんな有力プレイヤー同士の対戦であっても、脳内に前もって書き上げておいた「喋ること」を平坦に、そして丁寧に読み上げ続けるだけである。
「淡々とした決勝戦をありのまま淡々と実況する」というのは、なかなかに難しい事だと思う。とくに、ネット上に自ら実況動画をアップロードするという立場の人間にとっては、かなり困難な事だと思う。DAICHIという人は、それを決して気負うことなく成し遂げてしまっているのである。これは凄い事である。
話をDAICHIに戻す。
無名の実況者というよりも、無名の1プレイヤーにすぎなかったDAICHIは、僅か数ヶ月間の実況動画アップロードにより、満場一致で08年度の闘劇実況に推されるまでになった。そして、見事に選ばれた。08年度の闘劇実況がDAICHIであるとの決定に北斗プレイヤー達はビビットに答えた。DAICHIが都内各地、いや日本中から中野ブロードウェイに呼び寄せたプレイヤー達はそれまでとは逆に、中野ブロードウェイから日本各地へと散っていった。そして、闘劇決勝戦の切符を手に入れて中野ブロードウェイへと帰還した。
あるプレイヤーなどは、わざわざその為だけに沖縄まで出かけ、沖縄予選の切符を取ってDAICHIの元へと帰還した。日本土着のEスポーツ事情にあまり詳しくない僕から見れば、それはまるで悪い冗談のようなものだった。そうして迎えた闘劇の本戦では、あの小憎たらしい憎たらしい、忌々しいKIが、全ての北斗プレイヤーの折り重なった夢と希望を完璧な形でぶち壊しにして優勝し、それをDAICHIが喋り伝えた。それはまるで、何かとてつもない1つの素敵な夢のような出来事だった。
そして闘劇の後。
それまでと同じように、大会が開催された。けれども、ちょっとした変化が生じていた。大会動画が、リアルタイムでネット中継されるようになったのである。「そこまで来たか」と僕は思った。
世界各地で自然発生的に生じたEスポーツ大会のうち幾つかはやがて企業化され、しっかりとした収益基盤を確保するようになった。そしてそれらの大会のうちのいくつかが、「ネットによる動画配信」を実現すべく、ネット動画の技術を持つ企業を買収したり、あるいは提携したり、といった方向へと展開していった。
DAICHIという人がまるで一人で始めた誰も名前を知らないような小さなゲームセンターの大会は、遂にそこまで来たのである。それは正しくWeb 2.0的な光景だった。中野trfのオフィシャルページには自虐的に「プロゲーマーw」と書かれているが、リアルタイムのネット中継まで手に入れたそれはまるで、収益化に失敗した完璧なプロゲーム大会のように見えた。
そして1つの事件が起こった。
DAICHIがマイクを握らなかったのである。
「Web 2.0大会」と銘打たれた、記念すべき初ネット配信大会の決勝戦が行われたとき、DAICHIはそこに居なかった。中野TRFの隅に置かれた筐体で、野試合をしていたのである。決勝戦を喋ったのは、DAICHIではない別の人間で、そのままDAICHIは一言も喋る事なく、大会は終了してしまった。「DAICHIは終わったんだ」と僕は思った。それは疑いようのない事実だった。DAICHIは終わってしまった。
DAICHIの代わりに実況をした、その名前も知らない実況者の実況が、DAICHIに匹敵するレベルの良くできた実況であった事も、僕を打ちのめした。DAICHIという1人の先駆者の手によって、「どのような実況が聞きやすいか」という事が完全に世界に知れ渡った。対戦格闘の実況、少なくとも北斗の実況をしようと試みる人間にとって、DAICHIという完璧すぎる青写真は、何よりも優れた目標到達地点だった。DAICHIのスタイルを可能な限り再現するだけで、聞きやすく、癖のない、それでいて不思議な説得力のある実況が出来てしまう。DAICHIが常々心がけてきた、「アドリブに頼らず、忠実に、丁寧に」という彼の実況スタイルにより生み出される「驚きを伝える能力の高さ」は、今や北斗のみならず、全ての対戦格闘ゲームの実況者にとっての目標となるべきものだろう。このように書くと事実からは多少の乖離が生じてしまうかもしれないけれど、今では誰もが少しの努力で、簡単にDAICHIを超える事が出来る。
けれども、だからと言って、DAICHIが風化する事は決してない。何故ならば、DAICHIという人は、世界中でただ一人、DAICHIになろうとした男だからだ。そして世界中でただ一人、DAICHIになった男でもある。いったい、誰が、他に誰が、DAICHIになろうだなどと志しただろうか。DAICHIを夢に見ただろうか。その大それた夢を、心から願っただろうか。そればかりか、夢で終わらず、完璧な形で実現させてしまった。それが、DAICHIという人である。
終わり。
それは必ず全てのものに訪れる。
DAICHIが夢見たDAICHIという夢。その夢にも、終わりは訪れた。
DAICHIはその夢を、完璧な形で叶えてしまったのである。
夢は終わった。
それは、現実になった。
現実になったDAICHIが、これからどこへ行くのかを、僕は知らない。僕ばかりではない。そんなもの、誰も知らない。DAICHI本人ですら知り得ないのだ。北斗から離れようと、ゲームから離れようと、野垂れ死のうと、僕らの知る事ではない。ただ、DAICHIの言葉を借りるならば、こうなるだろう。
ありがとう。と。
本当にありがとう。
信じて進み続ければ夢は必ず叶う。
2008年という年に、僕はDAICHIからそれを学んだ。
そして、そんなものは絵空事だったのだと知った。