2008年4月8日火曜日
泣いても泣いても涙が止まらなかった夜、僕は何を考えていたのだろう。
泣いても泣いても涙が止まらなかった夜、僕は何を考えていたのだろう。どうしてあんなに悲しかったのか、どうしてあんなに悔しかったのか、どうしてあんなに辛かったのか。それらを思い出して、理解する事はそんなに難しい事ではない。僕は誰よりも凡庸な人間だから、僕の感じる悲しみや、苦しみや、辛さは、どれも皆凡庸なものだった。わかりやすい愚かさで、わかりやすい道筋を辿り、わかりやすい袋小路に陥って、わかりやすい幼稚さと無能さで、抑揚のない平凡な涙を流して唇を噛んだ。でも、あの夜、何を考えていたのかが思い出せない。何を思っていたのかが思い出せない。何を夢見て、何を望んでいたのかが思い出せない。
あの夜の悲しさを、今の自分にインストールするのは簡単だ。あの夜と同じように泣き濡れるのは簡単だ。筋道に沿ってあの悲しさや悔しさを指でなぞりながら辿れば、僕の心はあの日と同じように正しくはたらき、あの頃と同じように、逃げ出したくもなるだろうし、自分という生き物が全部嫌にだってなるだろう。けれども、あの頃のように思うことも出来なければ、あの夜のように感じることは出来ない。願いはもう、戻らないのだ。
全てが焼け落ちてしまった。悲しさと、苦しさと、愚かさで積み上げた楼閣の上から、それでも滅びる事のない、ちっぽけな夢とか、取るに足らない望みとか、小市民な憧れとか、思い、心、そういったものを最後に見渡したのは、何時の事だっただろう。広大さ。果てのなさ。360度の広がり。見渡す限りの情悪。木々に覆われた地平線。泣き疲れてへたりこんだ僕はその日から、自分の心を見つめる事を止めたのだ。その夜が特別だったわけではなく、いつだって僕は臆病で、いつだって僕は勇敢。誰よりも特別に女々しい。私というものから逃げだしたのだ。
自らで放った炎で焼け落ちた楼閣の残骸から、もう随分と歩いてきた。焦げた臭いは聞こえなくなったし、自分がどこにいるのかも、もはや見当が付かない。心地よい錯乱の中に居る。野蛮に光を求めて伸びる無節操に絡み合った青臭い植物の大群が行く手を遮り、絡み合う蔦が光を遮る。その一葉、一葉が、悲しみであり、苦しみであるという事はわかるけれど、その一葉々々の表面に何が書かれているのかを確かめる術は、もはや無い。
どの新芽も、どの若葉も、どの木の葉も、皆同じように天を目指す。あの夜と同じように、上へ、上へと育ってゆく。楼閣の上に一人立つ、僕の瞳に向かって伸び続ける。もうそこにはいない。僕はここに居る。行く宛はなく、行くことも出来ない。這い蹲って、息をする。
2008年4月6日日曜日
Followingが全員男な奴はリア充。
ネットファックの見本市であるTwitterで、Followしているのが男ばかりという人間は、ネットで女の尻を追いかけ回す必要が無いくらい、リアルで愛に満ちあふれた充実した人生を送っている超勝ち組超リア充。あいつもこいつもこんちくしょう。
アウトライン無惨
ネットで出会った若くて綺麗な女の子とネット恋愛をして朝までスカイプしてぞっこんになって一緒に暮らすつもりで部屋まで買ったのに会ってみたらキスはおろか手を繋いでさえもらえなくてそれから数ヶ月音信不通でも諦めきれなくてなんで連絡来ないのかと悩んだりして思い切って三行半突きつけてさっぱりして新しい人を好きになったりしてでもうまくいかなくて諦めてそれでも夢を見たりして苦しくなって自殺。
というブログが仮に存在していたとして、「そういうふうに読まれること」と、「そういうふうに読まれないこと」はどちらが良いのだろう。
定かではないが、「そういうふうに読まれないこと」の方が良い事なのだと信じている人が圧倒的に多いように見受けられる。いや、断じて読むべきではないのだ、という強いメッセージすら感じられる。如何なる場合もブログなどというものは無視するべきなのだというような。僕はブログは全てを凌駕すると思っているような真性のブログ人間なので、そういう空気に酷く戸惑う。
ブログという、血肉を削って書き続け、記録し続けた自らというものが、完全に無視される。それはブロガーにとって幸せな事なのだろうか。*その方がよいことだから*と、まるで無視されることが、よいことなのだろうか。何を。誰が。
これはそういう事なのではなくて、「この場合その方がよいことだから」と無視されたのかもしれない。つまり、社会に貢献した素晴らしい良い人物の歴史からは、ネガティブな事柄は全て取り除いて記録され、悪い人物の歴史にはそれとは対照的に、ポジティブな事柄は全て取り除かれ、ネガティブな事柄のみが記録される。そんな単純な話ならば、それはそれで、わかりやすくて良い。良くはないが。
いや、彼らは別に無視しているわけではないのかもしれない。つまり、ただ、ブログなどというものを真面目に読んでいないだけで、真面目に読む気も毛頭無いだけなのかもしれない。そうだとしたら、どうなのだろう。リップとでも言っておけばいいのか。
そこでちょっと思い立ちました。
保存しなくては。
弾幕を。
シューティングゲームが消えてなくなってしまう前に、この芸術的な弾幕の数々を保存しなくては、と。
ふと、この一文が頭に浮かんだ。
保存すべきだけの「芸術的なもの」を残せる人間がどれだけ居るだろうか。書き残すべき「偉大な物事」を成し遂げられる人間がどれだけ居るだろうか。居まい、居まい。僕等はJSバッハでもなければ、ウィルライトでもフェリーニでもない。
それだけではない。「保存したい」と思うだけの愛するものを僕等は持たない。氏のように愛を語れるだけのものを僕等は持たない。何かを愛せた事すらない。愛するものなど1つもない。後世に残したいものがない。保存したいと思う事などない。ただ、壊したいとか、潰したいとか、皆殺しにしたいとか、、、。破壊衝動ばかりだ。愛などない。思いなどない。
自分自身は誰かを愛するに値すると思う事の出来る人間がこの世界には無限に存在している。同じように、自分自身は誰かに愛されるに値する考える人が、今現在も幾十億と存在している。キスをして、抱きしめて、結婚して、子供を作って、、、、。それが正しいとされる世の中なのだ。
「私が消えてなくなってしまう前に、この醜く愚かな思考の数々を保存しなくては」という思いは彼らにとっては、間違ったものなのだろう。記録すべき事柄ではないのだろう。否定されるべきものなのだろう。無視されるものなのだろう。幾らかの人々にとって、ブログというものは生の道のりを記録するツールではなく死への道のりを記録するツール、レコーディングdieなのだ。しかし世の人はそれを認めない。保存するに値するのは美しい生であり、あるいは生への衝動であり、祈りであり、願いであり、愛であり、おまえ達のはそれに値しないと無視するのだ。無かった事にされるのだ。そして彼らはベッドに入り、キスをして、抱きしめて、結婚して、子供を作って、、、、。それが正しいとされるのだ。いったいどこをたゆとえばいい。
2008年4月4日金曜日
840万が美しすぎて思い浮かべる度にうっとりする。
840万は美しい。2でも3でも4でも5でも6でも7でも8でも割り切れるのに、9で割り切れない辺りが堪えられない。8までは君にも許すけど、そこから先はDO NOT ACCEPTだからね!!みたいな感じがたまらない。棍棒で殴って無理矢理こじ開けたい。未来が見たい。先へ進みたい。明日が欲しい。心安らかに過ごしたい。抱きしめたい。キスしたい。地下室に閉じ込められたい。一生監禁されたい。840万以外に頼れるものはない。840万だけが、僕を欲望で導いてくれる。うっとりする。生きようって気分になる。全宇宙に存在する数字の中で世界一美しいのは間違いなく840万だ。840万、840万、840万。はっぴゃくよんじゅうまんが、頭の中でリフレインする。840万人くらい殺せばどうにかなるんじゃないか、840万人くらい殺せばどうにかなるんじゃないか。いや、だとしてもどうやって殺せばいい。核爆弾か、核爆弾か。やっぱり核爆弾か。しかし核爆弾は無い。スーツケース型核爆弾か。だが、スーツケースすら無い。840万、840万、840万人が消し飛んだ所でまた次の840万、それがどっかいってもまた次の840万、840万。この空の下のどこかでは誰かが夜桜を眺めながら豚汁をすすってるんだ。840万、840万、840万。。。840万が重くのしかかる。840万のせいで今晩は最悪な気分だ。前頭葉がひしゃげて落ちてくる。口で息して、口で息して、はっぴゃく、、、
2008年4月3日木曜日
最近のゲームは3D。
FF7の戦闘中にコマンド入力後は画面から目をそらしたり、静止して行き先を確認後、読み込み音と音を頼りに移動したりしていた重度の3D酔い持ちゲーマーから見れば、昨今のゲーム市場の閉塞感は凄いものがある。
実際問題最近のゲームの中で、食指が動くのは3Dゲームばかりだ。ドラクエ8はトレイラーで即酔い。メタルギアソリッドも、ワンダと巨像も駄目。もちろんマリオギャラクシーも酔う。ゴッドオブウォーもモンハンもゼルダも駄目。ヘルゲートロンドンは別の意味で駄目。civ4は糞ゲ。FPSとレースゲームは全部駄目。ヘイローもバトルフィールドもアウト。PGR3とか無理。後何だ。無双駄目、鉄騎駄目、デビルメイクライ駄目。ここ数年で興味があって遊べそうなのって、メテオスくらいのものだった。つまらん。これはつまらん。一人蚊帳の外。何この疎外感。
こうして見ると、僕がWarCraft3を買い続けたのって、「他に面白いゲームが存在しない」という側面も強い。WC3 + Esports scene + MODを上回れる酔わないゲームって存在しない。
2008年4月2日水曜日
あんたは「努力しろ」「努力しろ」って口を酸っぱくして言うけどさ、あんたの言う努力ってのは「真似をしろ」ってことじゃねえか。
努力しろ、努力しろってあんたは口を酸っぱくして言うけどさ、あんたの言う努力ってのは、「誰かの真似をしろ」ってことじゃねえか。馬鹿にすんじゃねえよ。俺を誰だと思ってんだ。真性引き篭もりhankakueisuuだぜ。
しかも、それですらねえ。つまりだ、あんたの言う「努力しろ」ってのは、「誰かの真似をしろ」じゃなくて、「俺の真似をしろ」じゃねえか。いや、もっと酷くて「俺が真似をしたいと思う野郎の真似をしろ」か。
反吐が出るぜ。反吐がよお。そんなに一人が寂しいか。誰かと群れて仲良しこよしじゃなきゃあ、頑張る事すら出来ねえんだろ。一人じゃトイレにも行けねえからって、お手々繋いで御小便。はっ。誰かの真似をしろ、俺の真似をしろ、俺が真似したいと思うやつの真似をしろか。臭えぜ臭え、ああ臭え。
あー、くだらねえくだらねえ。連中と来たら誰かの真似さえしてりゃあ何でも出来ると思ってやがる。おめでてえなあ。おてんとさまだ。あのなあ、よお、教えてやるよ。どんなに上手に虎書いたって、屏風の中から出られやしねえ。虎はなあ、虎だから荒野を駆けてるわけだ。わかるかい?
いいかい。よく聞くんだ。俺はおまえに「努力をするな」なんてこたあ一言も言ってないんだぜ。「努力しろ」って言ってんだよ。その点は俺も連中も同じ穴の狢ってわけだ。だけどな、けれどもな、俺の言う努力ってのは、連中の言う努力とはわけが違うんだ。
誰の真似でもねえ。二番煎じじゃねえ。本物の努力ってやつを、本気で貫いてみろって言ってるわけだ。そうすりゃあなあ、世の中にはなあ、出来ねえ事なんて一つも無いんだ。何だって出来んだよ、何だって。
努力したのに、頑張ったのに、って泣き言吐いてる連中の話をよく聞いてみな。あいつら、努力なんてこれっぽっちもしてねえんだ。こんなに上手に描いたのに、どうして荒野を駆けねえんだって、屏風の前で泣いてるだけだ。
だからよお、おまえさんはあいつらみたいになるんじゃねえぜ。いいかい。間違っても、誰かの真似をしようだなんて思っちゃあいけねえ。己の道を諦めて、妥協して、誰かの切り開いた道をてくてく単車で走ってこうだなんて考えちゃあならねえ。
本当の努力ってやつをやってみなよ、本物のオリジナリティってやつをさ。イノベーション革命、レボリューション大爆発ってやつをよお。連中の言う努力、つまり「誰かの真似」なんかじゃなく、本物の努力ってやつをさ。本物の努力ってやつをよ。
俺を見なよ。あいつらではなくて、俺を見てみろよ。いいかい、これが本物の努力ってやつだ。一眠りして起きるなり、キーボードを尻の穴にぶち込んで、括約筋を波打たせて書き上げたこの革命的エントリーをよ。これが本物の努力ってやつだ。
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