2006年8月9日水曜日
400のエントリー。
眠たいのに眠れない、という現状は辛い。
その原因を暑さに求めるのは簡単だけど、実際はそんな些細なものではなくて、書きたいのに書けない、という焦燥感と焦燥感の忘失により生み出される焦燥感に24時間27分追い立てられて眠れない。もしも僕が完璧な人間であったならば大げさでも冗談でもなく今日一日で400のエントリーの投稿ボタンを叩いていることだろう。けれども僕は完璧超人なんかじゃない。書きに書き時間に時間を重ねたにも関わらず投稿ボタンにたどりつけていないブログの水子が「どうして私をブログにしてくれないんだ」と耳元で囁き続ける。
夏、眠らず少し、すすり泣く。
謝りながら、詫びながら。
2006年8月7日月曜日
2006年7月10日月曜日
2006年6月17日土曜日
空飛ぶクラゲ、みぃと鳴く。
クラゲである。
空飛ぶクラゲである。
それだけならば有り触れてるが、その飛ぶクラゲはみぃと鳴く。
そこは小さな村で、外れにある神社の脇の大きな浅い池に掛かった木造の細くてとても長い橋と、国の金で掘り当てられた温泉の他には何もなかった。村民は温泉よりも橋よりも、山菜と空を誇ったけれど、外の空気は冷めていた。
そこに、一匹のクラゲが居た。空飛ぶクラゲである。それだけでは有り触れているが、その飛ぶクラゲはよく馴れていて「みぃ!」と呼べば、「みぃ」と答える。麩菓子やら、片栗粉やらを口に含んで目の前に吐いてやると、口を広げてパクリと喰う。
その愛くるしい姿が評判となり、地方紙に乗り、ラジオに乗り、地元の局が取材に訪れ、その飛ぶクラゲは温泉よりも橋よりも、広く知られることとなり、テレビカメラが訪れた。遥々、東京からである。
テレビの男は当然のように「橋で、」と言う。そこは、古くに作られた木造の細くてとても長い橋の村で、みぃと鳴くクラゲはその村の、新参者のスターである。小さくて少し肥えた男は「みぃや」「みぃや」と呼び寄せて、テレビの男に「みぃは言葉がわかってね、こうして呼べば来るんです。」と、みぃの知性を誇ってみせた。それは、誇ったと書くよりも、称えたと書いた方が正確なものであった。
普段は家中を好き放題に飛び回らせてる少し特別なそのクラゲを、インスタントコーヒーの空き瓶に入れて小脇に抱え、家族総出で橋へと向かう。中年の男と、年老いた父の2人きり。
テレビカメラが向いたとき、男はもう汗だくで、上唇が口元が、ぴくりぴくりと動いていた。「ちゃんと喋れますか?」若い眼鏡のテレビの男は呆れた空気を押し殺しながら男に尋ねる。「大丈夫、大丈夫です。ちょっとまあ、大丈夫です。」
世界が男を向いたとき、男は麩菓子を頬張って、目の前を飛ぶクラゲに向かい、器用にそれを吹いていた。ドングリよりは少し大きな空飛ぶクラゲはその度に、めいいっぱいに身体を伸ばして、落ちてく粉を一呑みにする。東京の、大学を出た黒い髪のアナウンサーが喋ってマイクを男に向けたが、男は構わず粉を吹く。空飛ぶクラゲはそれを一呑み。身の丈よりも、口を大きくして食べる。
やっとマイクを向いた男は段取り通りの問いかけに、段取り通り答えてゆく。「なんでも、そのクラゲは鳴くんですって?」「ええ、読んでやるとですね、答えるんですよ。ちゃんとわかっているんです。」言い終わらぬ内に懸命に呼ぶ。
「みぃ!」「みぃ!」「みぃや、みぃ!」男が呼ぶ度空飛ぶクラゲは、熱々のがんもどきをつぶしたような音で、みぃと答えて1つ鳴く。アナウンサーは手を伸ばし、マイクで小さなその声を追いかける。
朝のテレビで随分と、長く有名な男から、段取り通りの質問が飛ぶ。
「そのクラゲはどこで見つけられたんですか?」
「え?」
男はうまく聞き取れず、狼狽する。
「そのクラゲはどこで見つけられたんですか?」
より丁寧に、繰り返される。
「え?」
背筋を丸めて耳のイヤフォンを両手で抑え、聞き取ろうとする。
「その、みぃちゃんは、どこで見つけられたんですか?どちらで?」
アナウンサーが見かねてなぞる。
汗で光り輝く男は安堵して、段取り通りの質問に落ち着きを取り戻し、それに答える。
「物干し竿の、端に出来ていた、蜘蛛の巣にひっかっかっていたんです。蜘蛛の巣に空飛ぶクラゲが引っ掛かってるだけなら、私も気には留めんのですが、その蜘蛛の巣は、もう随分と前から主がおらんかったもんで、私がちゃんと掃除して、蜘蛛の巣を剥いでおったらそんな事にはならなかったと思うとですね、申し訳なくなって、蜘蛛の巣から離してやったんですよ。そしたらですね、疲れとったのか、朝露で重かったのか、上手く飛べずに落ちるもんで、拾って家へ入れてやったんです。」
男は喋る。
「今じゃあ家族みたいなもんでね、私は煙草を止めたし、親父も煙草を止めたし、昼も毎日家まで帰って一緒に食べているんですよ。」
男は称える。
「頭が良くてね、賢くてね、クラゲがこんなに頭が良いとは思ってもいませんでした。毎日同じ場所で寝て、朝は毎日同じ時間に鳴いて起こしてくれるんです。みぃ、みぃ、って具合に。」
次を急いだ東京のテレビは、段取りにはない問いかけで、男を黙らせようとする。
「最後にもう一度、餌を食べるところを見せて貰えませんか?」
背中を丸めて耳のイヤフォンを両手で押さえて聞き取ろうとする男。
アナウンサーが同じくなぞる。
「もう一度、餌を食べるところを見せていただけますか?」
「ああいいですよ。」と快諾し、男は麩菓子に手を伸ばす。
空飛ぶクラゲが見あたらない。
「みぃ?」
「みぃ、みぃ!」
と、男がクラゲを読んでいる間に「ありがとうございました、空飛ぶクラゲのみぃちゃんでした。」と声が聞こえてテレビは何処か、余所を映した。みぃ、と左手から熱々のがんもどきを摘んだような声がする。池の水面のすれすれをぷくりぷくりと飛ぶクラゲをカメラと皆とが捕らえたときに、クラゲは池の上に落ち、赤と白との鯉が来て、それを一呑みして消えた。
「いやあ、立派な鯉でしたね。」
汗だくの男はそのままの、満面の笑みでそう言って、橋を向こうへ渡っていった。
テレビカメラに背を向けて。
2006年6月16日金曜日
戦争とか差別とか貧困とかそういった類のものはみんななくなればいいのにね。
それは、髄分の間、僕の頭を悩ませている。
「こわくはないですか?」
と問われるに相応しい人は、どれくらいの数、いるのだろうか。
こわい。
おそろしい。
恐怖を感じる。
学童が剣道の練習に際し発する甲高い叫び声、昨晩の携帯の電話の着信の内容を喋る女学生、新作の清涼飲料水のまずさを人生の一大事のように語る学徒。それらの音、というよりは"空気の震え"と表現した方が適切な類のものが万年カーテンをかすかに揺らす度、恐怖を感じる。萎縮し、恐れ、脅える。おののく。体中の筋肉が強ばり、闇雲に疲労する。頬が、首が、肩が、リラックスの対極へと走り去り、その先へと突っ切ってゆく。一言で書き表すならば、こわいのである。
そして闘う。
闘争である。
苦闘である。
人は、そのような不毛極まる消耗戦に自らを突入させたりはしない。臆病にして無能、凡庸極まる普通の人は闘わずに、ファイナルファンタジー12をプレイしたり、本屋へ週刊誌を立ち読みに行ったり、友達の携帯にメールを打ったり、punyu2のサンプル動画を漁ったり、彼女を夕飯とは名ばかりの夕飯に誘い出したり、コネホを使わないレシャックに苛立ったりするのである。
けれども、僕は違う。
そのように、逃げたりはしない。
闘うのである。
微動だにするカーテンと闘うのだ。
英語で言うならファイターであり、イタリア語で言うならウォリアーであり、スペイン語で言うならクルセイダーであり、日本語でいうならラモス瑠偉である。「そうか、僕は、ラモス瑠偉か」などと早合点し、納得してみたところで、決して僕はラモス瑠偉ではない。サッカーも、フットボールも日本語も、ラモスのようには上手くはできない。ブログというものを書いていると、このように、自らの無能さという現実を改めて突き付けられて、悲しくなるばかりである。だから、僕は、ブログというものを書くことから懸命に、逃げようとしているのだ。けれども、そのもくろみは決まって失敗に終わる。キリストが行くところに必ず奇跡があるように、僕が行く所には必ずブログがあるからだ。
そのように、即ち「闘士である。」と書いてしまうと、まるで、僕が非常に勇敢で闘争心に溢れる人間のように聞こえるけれど、事実はそうではない。僕にはただ、逃げ場がなく、行く宛てもなく、やむおえず、しかたがなしに、生協のトラックの鳴らすオルゴールや、ワラビ餅を止める童の声、天を行くジャンボジェットの雄叫び。それらの音、というよりは"空気の震え"と表現した方が適切な類のものが揺らすカーテンと闘うのである。
僕だって、もしもここにDOTA allstarsがあったのならば、みんな、市井、普通の人のように、尻尾を巻いて逃げ出すだろう。本当に勇敢な、闘士と呼ぶに相応しい奴なんて、おそらくどこにもいないんだ。不毛な消耗戦に自らを投じることを"勇敢さ"と呼んでいいかどうかはさておいて。
けれども、一体である。
僕は、何に脅え、何に緊張し、何に萎縮し、何に圧迫されているのだろうか。
わからない。
よくわからない。
全くもってわからない。
わかっていたとしても、わかっていないふりをする。
それは未練であり、後悔である。
事実、未練であり、後悔である。
しらを切るのはやめにした。
何故なら僕は闘士だからだ。
否、即ちブロガーだからだ。
逃げない。
負けない。
闘わない。
世界が複雑なのに対し、僕の世界に対する認識は単純である。
1つ、宇宙は全てが敵だ。
僕を潰しにかかってる。
全宇宙が僕のブログに、エントリーに、才覚に、知性に、肉体美に、食生活に、美貌に、その他全ての諸々に、恐れ、おののき、脅え、緊張し、萎縮し、圧迫され、やっかみにやっかんで、僕を潰しに掛かっているのである。全宇宙が僕に嫉妬し、拒否し、否定し、潰しにきているのだ。十中八九、100%そうである。
僕はそれら、全宇宙と僕以外の全宇宙を創造した神による、極めて秋田県的なやっかみに基づく迫害と闘い、耐え、忍び、闘争し、それらに脅えながらも、逃げることなく闘い続けているのである。何しろ、逃げ場がない。当然である。敵は、全人類であり、全宇宙である。学童が、学徒が、ブロガーが、匿名コメンテーターが、大統領が、首相が陰のフィクサーが、ビルゲイツが、立花里子が、きめんどうしが、アメリカシロヒトリが、それら全宇宙の構成要素の全てが結託し、僕を、この僕を、立った1人唯一無比なる完全無欠のこの僕を、消しにきているのだ。迫害、心労、多忙、誤読の何れかを訴えるブロガーは決まって全員糞野郎だ。4つ全てが揃った奴はその究極である。
それとこれとは別の話。
即ち、こわさ、という題目から、かなり逸れてしまった。
こわさ、とは何だろう。
僕がこわくて震えていると、カーテンが震えて囁いた。
「そんなにこわがらなくてもいいんだよ。」
確かに、彼の言うにも一理ある。
そんなに、こわがらなくてもいいのかもしれない。
けれども、こわい。
こわいものはこわい。
壊れてしまうのがこわい。
これまでに、僕の回りでは色々な物が壊れていった。Diablo2のインストールキーとか、WarCraft3のインストールキーとか、WarCraft3 TFTのインストールキーとか、それとか、他にも、とにかく、全部壊れていった。だから僕は、今僕が有している、有形無形様々なものがこの先、延々と、壊れてゆくのではないかとおびえ、おそれ、恐怖しているのである。このままでは、全てが壊れてしまうかのように思える。
「おまえが有している有形無形の万物の中で壊れて困るものなど無いだろ」
という指摘は、正しくはある。
しかしそれは誤読に基づいている。
僕が怖がっているのは、その、これまで、僕が愛していた、愛してやまなかった、Diablo2とか、WarCraft3とか、WarCraft3 TFTとか、DOTA allstarsといった、何よりも愛おしく、掛け替えのない物を破壊し尽くしてきた、この僕自身が、これから先、全てを犠牲にしてでも守り抜くだけの価値、全てを犠牲にしてでも愛すべき価値ある、掛け替えのない、何よりも肝心な物全てを、これまでのように破壊し、テトラポットから投げ捨ててしまうのではないかという、自分自身の存在に対する恐怖である。こわいのだ。さらに、買い物依存症の女が買い物でしか快楽を得られないのと同じように、もはや僕は、最も大切な物を破壊し、踏みにじり、投げ捨て、裏切り、反逆の狼煙を上げ、自らを、新たなる苦境へと投じ赴かせる事でしか、生きることが出来ないのではないかという恐怖だ。
だとすれば、何だ。
僕は、こんなにも素晴らしい読者様とか、こんなにも素晴らしいコメンテーター様とか、こんなにも素晴らしいブックマーカー様とかそういった、正しく、問答無用の文字通り、掛け替えのない人々に囲まれて物凄く幸せなのに、それら全てを今宵この晩投げ捨てて、新たなる苦境、言うならばブログを捨ててリアルへという定番コースの黄金軸を指でなぞって辿るつもりですか?なんて心配は僕には無用。
幸いにして僕はとにかく臆病者で、そんな勇気はどこにもない。
もちろん、WarCraft3のインストールキーもここにはなく、僕の逃げ場はどこにもない。だから、やむおえず、仕方がなしに勇敢に、僕はブログを書いている。誰も僕の事なんて知っちゃあいないし、誰も僕の事なんて好いちゃあいない。もう誰も、僕の事なんて覚えていないのと同じように。
だって、そうだろ。
僕はもう、随分と、自分自身についてすら、たくさんの事を忘れてしまった。見たいものや、やりたいこと、好いていたもの、嫌っていたもの、やりたいことや、行きたいところだって、たくさんたくさんあったのに、もう全部忘れちまった。ブログを書かなきゃ、ってただ思うだけだ。全部覚えちゃいない。全部忘れちまった。歳をとる度に小さくなって、しまいにはなにもかも失っちまうんだ。あんなに心から泣いたことも、あんなに心から笑ったことも。そんなこと、最初から無かったかのように思えるけれど、それすらも、もう忘れてしまっただけかもしれない。
やだよ。
こわいんだ。
僕は何一つ失いたくなくて、恐ろしくて、ただ恐ろしくて、消えてしまう前に、なんとしてでもブログを書かなきゃ、って思って、これまでに色んな物を失ってしまったから、そのような悲しみはもう二度と味わいたくはなくて、これ以上もう何一つ失いたくないから、失うのがこわいから、懸命に、懸命に、僕はブログを書いているのに、事もあろうかそれによって僕は色んな物を、次から次へと失っていっているという事実。僕のDOTA allstarsは何処へ消えたんだ。返してくれ。僕のDOTA allastarsを返してくれ。もう二度と裏切ったりはしないから。あれは過ちだったんだ。ほんの出来心だったんだ。STFU。黙れ糞野郎。シャットザファックアップ、くそう。黙るべきなのは僕自身だ。
戦闘機に乗って飛び立つ軍人に、「こわくはないですか?」と尋ねることは、非礼に当たるのだろうか。戦闘機に乗って飛び立つ軍人が戦闘機にのって飛びだつのは「こわいか/こわくないか」という判断を超えたところで、戦闘機に乗って飛び立たねばならない理由があるからである。
この「こわくはないですか?」に込められた質問者の意図は、「命を失うのはこわくはないですか?」というものであり、その軍人が、飛び切りに馬鹿で、尚かつ飛び切りの撃墜王であったならば、「そんな質問」と鼻で笑うかもしれない。けれども、そんな馬鹿で無謀な撃墜王はどこにもいないだろう。王者は常に、陥落に脅えている。どこの世界でも。
あるいは、その軍人が、模範的愛国者であったならば、「お国のためですから」と答えるかもしれない。例えばそのような回答を耳にしたならば、「ああそうですか、お国のためですか」と納得し、さらりと流すべきなのか、「偉い、あんたは偉い!」と称えるべきなのか、判断しかねる。なぜならば、有史以来、軍人とブロガーが真を語った事など一度として無いという真を、僕は知っているからである。
軍人に対する「こわくはないですか?」という問いの犯している最たる間違いは、死を「失うこと」と定義し、生を「失わないこと」であると定義しているという点にある。それは、なによりも大きな過ちである。
多くの人は生きるということを、得ることであると考えている。未知との遭遇であると考えている。新たなる経験、新たなる記憶、新たなる感動、そういったものであると取られている。しかしながら、それは、間違いである。
人間は、失うように出来ている。
可能性を、心を、感情を、脳細胞を、次から、次へと、失うように出来ている。
例えば昨日、僕が書こうとしていた、あんなにも書きたかったエントリーはもう無い。
僕のブログはちょっとしたカーテンの揺れに脅えている間に全て失われてしまったのだ。
また同じように、これから先も、色んな物が失われていくんだ。
もう何も失いたくない。
何一つ。
だから、そうならないためにも、僕はブログを書くんだ。
カーテンの震えに脅えて逃げて。
戦争とか差別とか貧困とか、飛行機とか車とか自転車とか、テレビとかラジオとかインターネットとか、googleとかwikipediaとかyoutubeとか、春とか夏とか秋とか、カレーライスとか寿司とかりんごジュースとか、日本とか北朝鮮とかイランとか、丑の日とか海の日とか子供の日とか、ブリザードエンタテイメントとか任天堂とか東亜プランとか、オリンピックとかWC3Lとかワールドカップとか、セックスとかキスとか泣き笑いとか、はてなダイアリーとかはてなダイアリーに移転する奴とかはてなダイアリーには移転しないとか言いつつはてなダイアリーに移転する奴とかはてなダイアリーには移転しないよとか言いつつはてなダイアリーに移転しておきながらひとつき足らずで更新を止める奴とか、そういった類のもの全て、即ちブログ以外の全てはみんな、この世の中からなくなってしまえばいいのにね。僕のブログを脅かす物は全部。だってそんなのいらないでしょう。ブログ以外のもの全て。
そうすればこんな僕だって、もっときちんとうまいこと。
ブログをちゃんと、書けるのに。
2006年5月30日火曜日
ねえ、誰か、僕と一緒に地獄へ行こうよ。1人で行くのはちょっと怖いから。
横たわっている。
敗れた布団ともう随分と洗っていない、埃とカビの臭いのする真冬のための古びた防寒具を掻き集め、こんもりとさせた上に脇腹を置き、不自然に体全体を捻り湾曲させたままで、横たわっている。現実から逃れ、インターネットから逃げ、自分自身の無能さと、それへの失望から生じる無力さから逃れるため、べらぼうに眠るために横たわっている。けれども、掴み取れない気持ちの悪い感情だけが渦巻いて、僕を寝かせてはくれない。
なにより、僕と、僕の体は、知りすぎている。
人が、飽きもせず、毎日毎日眠れるのは、明日への活力を養う為であり、どうせ、明日も明後日も、このままの日々が際限なく続くという事を理解している僕の体は、「もう、いいだろ、そんなもの」とばかりに、眠ってはくれない。けだるくふるえて、随分と泣いた。
涙には2種類あると、昔の誰かが書いていた。
美しい涙と、醜い涙だ。
前者は他者の為の涙であり、後者は自らの為の涙だ。
同じ涙であるのにも関わらず、その色合いは全く違うと人は言う。
その両者の間には、僕とジョージ・クルーニーくらいの乖離があるらしい。
誰かの為に泣く、という行為は美しい、と誰かが言う。例え、それが、幾多の事実誤認を抱えた上で成り立つ、滑稽な勘違い、滑稽な悲しみ、何者かの何らかの目的の為に作り出された24時間のようなものであったとしても、それは純朴さ、純粋さといった類の、存在していない物との共通項を意味する涙であり、美しいものであるらしい。
自らの為に泣く、という行為は醜い、と誰かが言う。念のため、説明しておくけれど、ここで言う"誰か"だとか"人は"だとか、そういった類の、第三者の存在を示唆する言葉の向こうに居るのは全部僕だ。ただ、全ての出所が真性引き篭もりhankakueisuuだという事を明示的に書き示して書くよりも、なんらかの、第三者の存在を示唆して、うまい具合に責任や主張といったものを隠蔽した方が、文章に、格式だとか権威だとかいったものが付け加えられて、この軽薄なエントリーに少しでも重みが生まれるのではないかという、よこしまな企みがそう綴らせているのである。しかしながら、その企みによって付け加えられた物は格式でも権威でも、深さでも重さでもなく、ただのうさんくささである。
もくろみは、失敗に終わった。
「泣いてる暇があったら」
僕が、自分のために泣いているのだと知った彼は、強い下品な関西弁のイントネーションでそう言った後で、"行動しなさい"と付け加えた。一見、よくある、単調な説教のように聞こえた。けれども、それは決して、行動を賛美する為に吐かれた言葉ではなくて、人を不愉快にさせる、醜い涙というものへの単調な非難であった。
もしもここに、DOTA allstarsがあったならば、僕は決して涙なんて物を流したりはしないだろう。人間が泣くのは、他にやることが無いからだ。"人間が"なんて大きく出てはいるけれど、僕が知っているサンプル数は人間について語れるほどは多くない。
どうしてここにはゲームが無いんだろう。DOTA allstarsはおろか、ソリティアも、フリーセルも、インターネットスペードすらも、無い。全部アンイストールしたからだ。どうして、僕は、そんなことをしたんだろう。確か、ブログを書くためだ。どうして僕はブログを書こうと思ったのだろう、という問いは必要ない。人間は、そういう風に出来ている。
少しだけ、あまりにも辛くなったので、素晴らしい事を考える事にした。なるべく、素晴らしいことを。そこで、まず、頭に浮かんだのは地獄である。本当はその前に、いくつものゲームを思い浮かべて、頭の中でそれをプレイして楽しんだり、中国代表がSuhOだという事を思い出して酷く失望したりしたのだけれど、そんな事を、今ここで書いたとしてもつまらないだろうと思い、それらに関しては、全て端折った。読者思いである。オレ、イイヒト。
地獄は、いいと思う。
際限なく、素晴らしいと思う。
まず、何よりも、素晴らしいことは、地獄は、悪い奴らで満ちあふれているという点である。地獄に居る奴らは、どいつもこいつも、救いようのない罪人であり、悪者である。
即ち、もしも僕が地獄にいたならば、僕は、僕と僕以外の他者に対して、好きなだけ、好き放題に罵倒し、嘲り、非難し、徹底的にそれら全ての者共を糾弾する事が出来る。
現実ではそうはいかない。心おきなく、なんの躊躇もなく罵れる相手などどこにもいない。どちらかと言うと悪いのは僕の方で、僕が、他の誰かを非難しようと思い立ったならば、自らの、非難に値する箇所を出来る限り巧妙に正当化し、複雑な手順で公正さを装ってから、満を持して、他者の、最も言い逃れすることが困難な点だけをひっつまんで取り出し、そこを重点的に、集中的に、徹底的に、相手を叩きつぶす為だけに、攻撃せねばならない。自らにまつわる全てを棚に上げて。
ところが、地獄においては、そのような手続きは必要ないのだ。
心ゆくまで罵れる。
心ゆくまで責められる。
しかも、それらは、まったく、正当なものだ。
何しろ、相手は、地獄に落とされる程の、純然たる罪人、悪人、糞野郎共。
一切の遠慮は要らない。
素敵じゃないか。
もしも、この世界で、僕が誰かを傷つけ泣かせたならば、それはまったくの悪いことで、僕はそれについて、この先ずっと、「ああ、なんて酷い事をしたんだろうか」と自らを責め続けるだろう。己自信の呵責を、際限なく受け続けるだろう。
けれども、もしもここが地獄であったならば、僕が誰かを傷つけ泣かせたならば、僕はそれを一生の誇りにし、強く生きて行けるだろう。何しろ、相手は、地獄に落とされる程の、純然たる罪人、悪人、糞野郎共。一切の遠慮は要らない。
なんてこった。
ここは地獄じゃあない。
かといって、1人で行くのは心許ない。
ねえ、誰か、僕と一緒に地獄に行こうよ。
そして、毎朝毎晩、憎み合うんだ心ゆくまで。
罵る言葉をずらり並べて、飯も食わずに眠らずに。
2006年5月19日金曜日
ハッカーと米国移民法コンサルタント
世の、多くの人は、スパムメールが不愉快なのは、そのメールがスパムメールだからだと考えているようだけれど、僕の考えは違う。※この配信は、日本文化の保存に関心あるだろうと思われる方のメールアドレス を
基に配信させていただいております。電子メールでのご紹介がご迷惑にあた りました
ら、謹んでお詫びいたします。
突然のメールにて失礼いたします。
日本の文化を保存する日本火消し保存会でございます。
このメールが日本の文化の保存に役立つキッカケになる事を切に願います。
最高顧問:吉村作治(早稲田大学教授・エジプト考古学者)
顧問:御法川法男(みのもんた・司会者)
会長:典礼院照見(米国移民法コンサルタント)
理事長:粉川時久(火消し粉川14代目)
このたび、日本火消し保存会では下記の懇親会をご案内致します。
隅田川、花火、屋形船、芸者、火消し ■平成の世に江戸情緒
「日本火消し保存会・夏の懇親会」 平成18年7月29日(土)
年に一度の隅田川花火大会では、数々の著名人を含む「日本火消し保存会」の役員をはじ
め、江戸の「粋」を愛する会員とファンが集い、屋形船を一艘貸し切って、花火を楽しみ
交流を深める会を催します。(船内からテレビ中継予定)
■若干名の余裕があり今回は賛助会員でなくてもお申込みいただけます。
詳しくは添付のファイルをご覧下さい。 興味のある方は、お早めにお申し込み下さい。
★返信は受け取れません。
詳しくは下記からお問い合わせ、お申し込み下さい。
あの1つの究極ともいえる不愉快さの全ては、下品且つ劣悪な単語の羅列により構成された見るも無残な日本語による、己と己を称えるの文章を読まされる不愉快さによって成り立っているのである。
まったくもって、忌々しい。
そこで、即ち、日本火消し保存会は臭い、臭い、臭すぎる。
その胡散臭さは壮絶なまでの胡散臭さであり、臭すぎる。
もう、何より、最高顧問が吉村作治であるとか、顧問筆頭がみのもんただ、という時点で胡散臭さ二重丸。ちょっとウェブサイトを覗いてみれば「50万円ください!」だとか、「毎年2万円ください!」だとか、もう、吐き気がする。
脳みそすっからかんな広告塔とかそういうのは置いておいて、いったい、どこのどいつが、この胡散臭い日本火消し保存会なるものを企画運営し、不愉快極まるスパムメールを送りつけてきたのか、という点が問題である。別に問題でもなんでもないのだけれど、なんとなく大問題である。
そこで目に付いたのが、「会長」なる地位に鎮座している、典礼院照見(米国移民法コンサルタント)だ。もう、名前からして臭すぎる。その上に、検索エンジンを叩いてみても、日本火消し保存会以外のページが一つも引っかからない。え、この人、どこの誰?なぞの人物?みたいな空気も一瞬はあったのだけれど、なんてことはない。
http://www.rho-japan.com/profile.html
http://www.nihonhikeshihozonkai.org/aisatu/aisatu.html
おい、リチャード何やってんのwww
何がリチャードだよwww
何が典礼院照見だよwww
おまえ、堀越正雄だろ。
何、名前コロコロ変えてんじゃねえよ。
日本企業塾塾長とか、米国移民法学者とか、CEOとか素敵な肩書きをたくさんお持ちの割には、やってる事は名前をコロコロ変えて皇室詐欺の劣化版とは、実にまったくおめでたい。「日本」だとか、「文化」だとかのたまう奴等は決まってみんな、終わってる。
スパムメールで必死になって、金クレ金クレ金クレですか。
いやあ、まったく、堀越正雄。
いいご身分だこと。
2006年5月18日木曜日
2006年5月13日土曜日
犬を飼う老人
「犬はいい。」と、はしゃぐ老人。
曰く、「いい犬だろ。」
どれも同じに見える。
条件がある。
犬である。
老人は哀れではない。
哀れであるとは思わない。
また、僕は老人ではないし、老人とも程遠い身であるからして、老人という全く異質、似ても似つかぬその生き物が哀れであるか、あるいは哀れではないかという問題について、なんの興味もわかないし、例えばその問いに対する回答文が「哀れである」であったとしても、「ふうん、そうなのか」で終わる話であるし、「哀れではない」であったとしても同様に、「ふうん、そうなのか。」で終わる話である。
いや、嘘を書いた。
正直に、あるいは正確に書き記すならば、その"ふうん"が出ぬのである。
それが、駄目なのだ。それこそが、僕が引き篭もりである原因であり、この、「ふうん」の不在こそが、真性引き篭もりたる所以なのである。
もしも僕が、引きこもりでもなんでもない、誰かのよき部下であり、誰かのよき同僚であり、誰かのよき上司であり、誰かのよき友であり、誰かのよき伴侶であり、誰かのよき子であると同時によき親であるような、まさしく一般的にして模範的な人間であったならば、「ふうん」「そうなんですか」「それは凄い」「へへえ」「それでそれで」「なるほどねえ」と、江戸へ上る大名行列のように長く途切れず中山道をひたひた歩き、峠の山の頂上の茶屋やら何やら(言うまでもなく如何わしい建物)の立ち並ぶ場所で「おっと、いい景色ですよ、ほら、御覧なさい、山です。山。あ、町。あ、人。あ、ほら、蝉が、あ、団子、団子食べましょうか。団子。」などといった具合に、面白くもなんとも無い、ありふれた退屈な光景(山だとか、町だとか、蝉だとか、団子だとか、セックスだとか、眞鍋かをりのここだけの話だとか、そういった類のもの)を、まるでとても素晴らしいものであるかのように有難がり、つい先ほどまではまったく興味のなかった事柄について「ああ、素晴らしい」「やはりこうでなくては」などと、褒め、褒めて、褒めちぎり、また、同様の褒め言葉賛辞の類を並べ立てている人間を見つけては「いやあ、あなたはいい事を言う人だ、前向きで、朗らかで、未来がある」なんて具合に心のそこから、あるいは完全なる上っ面で、すらすらと並べ立てることこそが、この世界を生き抜く(即ち、加速的速やか穏便に死に遂ぐ)上で、最も重要な要素なのである。
その、どうでもいい事柄について、どうでもいい言葉をつなぐという事、即ち一言に集約するならば「ふうん」の不在故に僕は引き篭もりなのである。
「ふうん」と、「ふうん」に続く言葉は、退屈さを退屈ではないものとして消化するための技術である。例えば、蓼で服を編むのは困難を極める難業であり、1つのブログのエントリーを書き上げるのと同じくらいに困難な作業だけれど、蚕を経由させさえすればシルクのドレスの出来上がりである。
僕にはその、退屈なものを退屈ではないものとして理解し、退屈なく消費する能力というものが欠けているのである。例えば風呂に入っても、「清潔さわやか気持ちいいだけで退屈だ」という結論から、風呂に入るのを嫌がる。嫌がるというよりも、入らない。同じように映画を見ても映画なだけで退屈であるし、ゲームが所詮ゲーム、どうせ退屈であるからして、退屈でやる気がしない。田んぼの真ん中で原油を掘り当てて(あるいは電話会社で首相になって)ロンドンのチームを買っても退屈だろうから、原油を掘り当てるのはやめにしたし、大統領になるのも、金メダリストになるのも、武空術を身につけるのも、退屈だからという理由でやめた。
つまるところ、僕は退屈さというものが嫌いなのだ。と言っても、退屈さをすっ飛ばして何かを得たいだなんて強欲なことはちっとも思っちゃあいない。
ただ、「ふうん」が不在なのである。
僕にとって、退屈であるか退屈では無いかなんてものは、些細な事だ。
「人生は退屈である」を体現する人と、「人生は退屈ではない」と信じる人との悲しいまでに噛み合わない言い争い、罵倒合戦その類は、太古の昔からリニア飛び交う未来の果てまでワンパターンに繰り返され続けてきた。それは、僕が知る限りでは、不毛の最たる二番目である。
ある時、即ち今しがた、「人生は退屈である」と主する人々が、得るものの無い泥沼のディベート合戦に蹴りをつけ、敢然たる勝利を手に入れるべく集まって、車座になり手立てを練った。
はじめから解っていたのは、彼ら「人生は退屈である派」が勝利を手にするためには、人生が退屈ではない言う奴らにその結論を覆させる必要がある、という事だった。
それは、難題であった。
「人生は退屈ではない」と信じる人間はどれも皆、頭がおかしい者ばかりだった。ある者は散った桜の花びらがカーベットのようになってどぶ川をたゆとう様を見て「人生は退屈ではない」と呟いたし、ある者はトレジャーの旧作を買い求めて「人生は退屈ではない」とその両眼を輝かせた。ある者はインターナショナルが退屈な引きこもりの末にペナルティーキックを蹴り込んでロッソネーロを下すのを見て「人生は退屈ではない」と発泡酒のプルタブを引っこ抜いたし、ある者は茶殻のようなブログの新着エントリーがRSSに乗ってやって来たことに嬉々として「退屈だ」と、退屈ではなさを謳歌した。まったくもって、彼らは狂っていた。少なくとも、彼らの目には、そう映った。
車座になって悩みぬいた人々が、どうにかしてそれ、即ち「人生は退屈であること」を、「人生は退屈ではない」と妄信する人々に、黄門様の御印籠の如くに見せ付け圧倒し、頭ごなしに言い包めて認めさせようと、悩みに悩みぬいた末にたどり着いた結論が「退屈では無い人生を送っていた人間を捕まえて、"人生は退屈だ"と言わせる事」であった。
そこで、また、彼らは、悩んだ。
「退屈ではない。」と最も多く唱えたのは誰か。
人類の歴史上で、最も退屈では無い人生を送ったのは誰か。
老いて、即ち隠居して、即ち老人となって、「よい人生でした」と言う人間が居る。そういう人間を捕まえて「どうしてそう感じるのですか?」と彼らに問うと、彼らは口をそろえてこう言う。
「よい人にたくさん巡り合えました」と。
ある者は妻を誇り、ある者は友を誇る。
ある者は子を誇り、ある者は師を誇る。
ある者は同僚を、同志を、その他諸々を、出会った人の全てを褒め誇る。
それはまるで、幸せな人生であるかのように見え映る。
「いいですねえ」とでも、呟きたくなる。
ならない?いやあ、なるだろう。
ならぬなら、なれ!
てめえらも、なれ!
なったか?よおし、それでいい。
そうでなくては話は進まぬのだ。
僕はぜんぜん、ならないけれど。
即ち、素晴らしい人生を過ごしたように多くの人が感じる、いかにも見るからに幸せそうな老人は、人との出会いを褒めるのである。
逆に言うと、人との出会いを褒め誇る人間は幸せそうなのである。
例えば、老いたビルゲイツが、貯金の残高をゆび指し示し「ぐへへへへ、よい人生でした。:)」などと言おうものなら、世界中の矢鴨という矢鴨が葱と鉄砲背負って襲い、ゲイツを蹂躙するだろう。
あるいは、老いたルイスアームストロングが並ぶ色あせたシャツの前でそれを指差し「見たまえ、これを!」と褒め誇り、よい人生だったと主張したならば、老いたドルゴルスレンダグワドルジが並ぶ色あせた旗の前でそれを指差し「見ろ、これを!」と褒め誇り、良い人生だったと主張したならば、老いたデイビットベッカムが並び輝く磨かれつくしたトロフィーの前でそれを指差し、それが綺麗に左右対称偶数、偶数、で並んでいることをゆっくりと確認した後で「見てください、これを!」と褒め誇り、良い人生だったと主張したならば、我々は、なにか、どこか、少し悲しい思いを抱かずには居られないだろう。
けれども、もしも、彼らが、即ちアームストロングやら朝青龍やらベッカムやらが、それら手に入れた物品、即ち世界全人民の極一部に消費された娯楽の一ページを記録したレアリティ★*5のがらくたではなく、出会った人を誇ったならば。
「良い人生でした、なぜならば、素晴らしい出会い(素晴らしい妻、素晴らしいファン、素晴らしい友、素晴らしい家族)に恵まれたからです。」と満面の笑みで褒め誇るを、彼らが口にしたならば、まったく違う感情を抱くだろう。たとえそれが、あの、ゲイツであったとしてもだ。
この、人生を美化する技術の肝は言うまでもなく人である。
人とは何か、というと、それは、多分人である。
そして言うまでもなく、自己の複製である。
それは、巨大なブラックボックスである。
例えば、あるフットボーラーが、その完璧なシュートを、ドリブルを、積み重ねたゴールの数を、勝ち取ったトロフィーを、褒め、誇り、何よりも、誰よりも、素晴らしい人生であったと誇ろうとした場合、1つの不具合が生じる。それは、言うまでもなく、マラドーナであり、ペレである。あるいはベッケンバウアーであり、ジョルディの父である。
そのような不都合を避けるには、人との出会いを褒めればいい。
例えば、「よき妻に恵まれて」と妻を褒めれば、それがどのように良いものであったかはまったくのブラックボックスであり、外側からは一切除き見ることが出来ない。
この決して覗き見ることの出来ない出会いというブラックボックスが、かつてアントニオ猪木が世界最強であると信じた人々と同じ程度の脳しか持たない連中に幻想を抱かせ、「きっとそれは素晴らしいものだったのだろう」という、満足を与えるのである。
何を述べたいのか。
僕はまだ知らない。
何を述べるのか。
それはじきに、明らかになる。
即ち、僕はそれら、人を、人脈を、出会いを、素晴らしさの根拠とする人々に対し、思いつく限りの罵倒を浴びせかけたい。彼らを否定し、攻撃し、負け犬であり卑怯者であると断罪したい。何故ならば、僕は、僕を除く全ての人々と僕自身に対し、思いつく限りの罵倒を浴びせかけ、否定し、攻撃し、負け犬であり卑怯者であると断罪したいからだ。
僕はそのような、決して明かされることの無い、除き見られぬブラックボックスの中身として存在していたものを誇るような人間ではなく、その人生において勝ち取った、小さな、まったくもってくだらないけれど明確なもの(例えばmouz.philbotに対する勝利とか)を褒め誇る人間を賛美する。心の底から、一切の邪心なしに。
けれども、条件がある。
それは、その、これまで生きてきた人生において勝ち取った、小さな、まったくもってくだらないけれど明確なものを褒め誇る老人が、真に、自らが勝ち取ったものを褒め誇っている場合のみ、僕はそれを賛美する。心の底から、一切の邪心なしに。
彼ら、即ち「人生は退屈である」と主張する人々は悩みぬき、3人のサンプルを選び出した。ナポレオンと、コロンブスと、奈佐日本之助である。まず最初にコロンブスが「途中で死んだらしい」という理由で脱落し、次にナポレオンが「なんだかんだ言って負けちゃった」という理由で脱落し、奈佐日本之助が残ったが、誰も奈佐日本之助がどこの誰であるか知らなかったので、とりあえず人類史上最も退屈ではない人生を送った人間はナポレオンでいいや、という事でまとまった。奈佐日本之助は惜しかった。いい線までは行ったのだが。
そこで彼らは大変な苦労と、大変な努力と、大変な年月をかけて、多大な犠牲を支払いながらタイムマシンを完成させ、老いたナポレオンを捕まえて椅子に縛りつけテープレコーダーを突きつけながら、「人生は退屈だ」と叫ぶように迫った。
けれども、テープレコーダーを突きつけられたナポレオンは言った。
「人生は退屈ではない」と。
だって、突然変な人たちがタイムマシンに乗ってやってきて、DOTA allstarsとか、WoWとか、dia2とか、そういう凄い面白いゲームをいっぱいプレイしたし、あと、真性引き篭もりさんの物凄い面白い過去のエントリーとかいっぱい読めたし、全然退屈じゃないよ、マジで。などと、のたまう。俺が思うに、ナポレオンはもう駄目だな。
困った。
これだけ書きに書いて、終段にたどり着けない僕も困ったが、彼らはさらに困っていた。彼らとは即ち、「人生は退屈だ派」の人々である。
大変な苦労と、大変な努力と、大変な年月をかけて、多大な犠牲を支払いながらタイムマシンを完成させ、老いたナポレオンを捕まえて椅子に縛りつけテープレコーダーを突きつける所まで行ったのに、ナポレオンは「人生は退屈だ」と言おうとしない。それどころか、頑なに「人生は退屈ではない」といい続ける。より強固なものとして。
そこで、彼らは、座った人間の誰もが「人生は退屈だ」と言うように出来たハイテクノロジーな機械椅子を作り、そこにナポレオンを座らせた。すると、なんと、あの頑ななナポレオンが、遂に「人生は退屈だ。」と言い放ったのである。
彼らは歓喜した。
その執念のテクノロジーによって手にした勝利に酔いしれた。
食べては飲み、飲んでは食べて、喋り、叫び、歌い、死んでいった友に涙し、それから踊り、踊りつかれて食べて、飲んで、笑って歌い、少し眠って朝が来た。それから、誰もが鎮痛な面持ちで、ハイテクノロジーな機械椅子の前に列を成して並び、順番に腰掛けて呟き叫んだ。それでも、気分は晴れなかった。志し半ばで倒れて行った戦友を思い、肩を落として皆泣いた。
ここに、1つの結論がある。
人生は退屈ではない。
けれども、条件がある。
それが何であるかを、僕は知らない。
老人は、誇る。
その犬を誇る。
土地を買い、屋敷を建て、広い庭を作り、鉄針付きの石壁で囲み、木を植えて、池を作り、高い模様の錦鯉を、数匹泳がした。けれども、鯉は泳ぐばかりで持ち歩けないので、老人は犬を飼い外に出て、腰掛け、待った。
「いい犬ですね。」
誰かが褒める。
「いい犬だろう。」
満面の笑み。
けれども、老人が手に入れたのは壁のあるだだっ広く、広大な、見渡す限りの大庭であり、犬ではない。それを理由に、犬を飼う老人は哀れであると主張するつもりは無い。
犬の速度は結構速い。
年老いた老人の思惑を超えた早さで育ち、瞬く間に、老人に並ぶ。
そこで老人は何を望む。
残されたのは2つの筋。
老人が死に、屋敷と犬が生き残るか、
犬が死に、屋敷と老人が生き残るか。
犬には成れず、犬も無く。
生き長らえた。
ただ老いた。
2006年5月12日金曜日
あなたが真性引き篭もりhankakueisuuを愛すべき10の理由
理由などありません。
10はおろか、1つもありません。
けれども、汝、真性引き篭もりhankakueisuuを愛しなさい。
無条件で、無根拠に。
愛するのに、理由なんてものはいらないのです。
ただひたすらに愛しなさい。
この愛おしく、愛くるしい、真性引き篭もりhankakueisuuを。
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