というわけで、やっぱアンテナ低いのは恥だよ残念ながら。アンテナ低いのは恥ではない。残念も何も恥ではない。断じて恥などではない。アンテナ低いのにアンテナ高いふりしてぺちゃくらぺちゃくらいい気になって喋ってる人こそが恥なのである。いや、恥などではなく、問題であり、有害であり、金輪式の害悪なのである。あなた方が今ご覧になっているものは、ブーメランとブログを融合させたまったく新しい実戦空手である。押忍。
2008年10月28日火曜日
アンテナ低いのは恥ではない。
2008年10月27日月曜日
日本人が神と呼ぶものをアメリカ人はけだものと呼ぶ。
3年ほど前にお食事をご一緒させていただいたとき、「僕ねえ、ビーストって呼ばれてるんですよ」と宮川さんは仰っていた。「ビーストですか?」と僕が聞き返すと、「ええ、The BEASTです。」と、西海岸仕込みの耳慣れない発音でBeastを強調しておられた。「どうしてまた?」と聞き返すと、宮川さんはそれについて聞かせてくれた。
アメリカでは、よくわからない凄い人が遠くからやって来ると、何でもかんでも皆全部、「The Beast」と呼ぶらしい。「ウメハラって知っていますか?」「ああ、スト2の、強い人。」「そうです。彼なんかも、こちらではThe Beastです。梅原 The Beast 大悟です。」言われてみれば、確かにそんなだったなあ、と僕は思った。宮川さんによると、それは何も日本人だけに限った話ではなく、エメリヤエンコヒョードルやホドリゴノゲイラも向こうではビーストと呼ばれているし、あるいはルイスハミルトンや古くは野口英世などもThe Beastと呼ばれたそうだ。
「日本ではビーストと言えばボブサップですけどねえ」と、面白みのない返句を僕が返すと宮川さんは気を遣って「あれは、そのパクリみたいなものだと僕は思っていますよ。」と、よくわからないフォローを入れてくれた。向こうでは、アメリカ人に対してはビーストと呼ぶことはない、といった話をしばらく続けておられたけれど、僕は少し酔ってしまっていて、その辺の話を今ではよく覚えていない。「こちらではビーストだけど、日本では神って言いますよね。」と仰っていたささやくような甘い声だけは今もおぼろげに記憶している。
「会う人、会う人、みんな僕の事をビーストって呼ぶんです。ビースト達彦、ビースト達彦、って。おまえがあの有名な"宮川 The Beast 達彦"か、って嬉しそうに。それがなんだか居心地が悪くて。悪意は無いんだと、わかってはいるのですが。」と宮川さんは少し悲しげな表情を頬にぼんやりと浮かべておられた。僕はアメリカ人の気持ちになって、紫色のものを食べてパッションピンクのうんこをする世界一のCPAN Authorが太平洋を遙々超えて乗り込んでくるところを想像してみて初めて少し、彼のことを"The Beast"と呼びたくなるアメリカ人の気持ちが、僅かだけれどわかった気がした。
「かっこいいじゃないですか、ビーストって。僕なんて酷いですよ。アルファブロガーですよ。こんなんじゃもう生きていけませんよ。いいじゃないですか、ビーストで。ビースト達彦で。」と自虐気味に僕が言うと、宮川さんは少し俯いて平皿を見たまま、「僕だってアルファブロガーなんですけどね。」と呟いくようにぽつりと洩らした。やってしまったと僕は思った。冷たい空気がにわかに立ちこめた。少しだけ重い沈黙が2人のテーブルを静かに覆い、その重さが少しだけであったが為に、それはいっそう動じがたかった。
沈黙を破ったのは宮川さんだった。「あれですよ。知っていますか?」宮川さんはいつも僕に優しかった。「何がですか?」「松本さん、いるじゃないですか。Rubyの。」「あ、はい。どうかしましたか?」「彼もこちらではBeastなんです。"まつもとThe Beastゆきひろ"なんです。おかしいでしょう。」おかしいですね、と僕は笑って、宮川さんも微笑まれた。
「僕はビーストじゃないけれど、まつもとはあれ、ビーストって感じですよね。」そう言われても、よくわからなかった。宮川さんのビースト観を、うまく呑み込むことが出来なかった。「それはね、君が日本で暮らしているからそうなんだよ。こちらに来たら解る。こっちで暮らせばわかるよ。まつもとはビーストだけど、僕はビーストじゃない。僕はビーストじゃない。」「そんなものですかね。」「こっちで生活しなければわからないよ。それはね、日本に居たら一生わからない。サンフランシスコは自由だよ。日本とは違って。なんでも。それはね。アメリカで暮らしてみないとわからないよ。一度暮らして、そうしてみないと。」僕はまだ幼かったから、宮川さんの言わんとしていることを理解出来ていなかった。「おいでよ。僕がほんとうにBeastなのかどうかもわかる。来ない?一緒に。」僕は少し飲み過ぎていたし、勇気もなかったので、その話に答えを返さないまま、おざなりにして流してしまった。寂しそうにうつむき加減で微笑みながら、左の下唇を噛んでおられた宮川さんの横顔だけが今も僕の目には焼き付いている。
どちらを見ても神、神、神。神また神の大安売りや。
インターネットを彷徨っているとあちらこちらで神を見かける。
どちらを見ても神、神、神。神また神の大安売りだ。
KAZU野茂ジーコは言うに及ばず、麻生太郎から江頭2時50分まで、誰も彼もが神、神、神。宮本茂に鳥山明に菅野よう子まで神らしい。その辺ならまだ見過ごすも、「やくみつるは神」とか目にした日には僕らはもはや大コンフューズ。挙句の果てにはGIGAZINEも神、痛いニュースも高木浩光もグーグルまでもがみんな神。八百万にも限度ってものが。時、今、正に、やおろず時代。
どうして「神」がこんなにも量産され、その「神量産体制」とでも言うべき時代の流れがそんな風に支持されているかというと、それは、もう、間違い無く、皆さん寂しいだけなのであります。インターネットは寂しい人で溢れかえっている故に、神で満ち溢れてしまうのです。「寂しい、誰かと繋がりたい。」そんな風に思った時には、神をこしらえ高く掲げて、それをみんなで崇め立てるのが最も手軽な方法なのです。
彼ら「神産出体制」を構築している繋がりたいだけの人々は、その対象について、全く詳しくありません。それどころは、実質ほとんど知りません。神を造っている側、即ち勝手に神認定している人達も、それに乗っかり盛り上がっている人達も、双方共にいい加減です。対象についてよく知りません。よくわからないものを見つけ出しては知りもせぬまま「神」と呼ぶ。よくわからないけれどそれに乗っかり神だ神だと囃し立てる。そのようにして、神は量産され、そして造られた神により、寂しさが1つ一晩二晩、忘れ去られてゆくのです。一時凌ぎに過ぎないまでも。
神と呼ばれる対象の人を、真によく知る人達は、そんな流れには加わりません。彼らこそが「真に語る事の出来る人達」なのですが、神体制には乗りません。遠く離れた向こうから、じっと見ているだけなのです。あるいは目をやること無しに、歩幅を広げて歩き去るだけです。何故ならば対象を知る人にとっての「神」と呼ばれたその人物は、決して神様なんかじゃなくて、ただの人間だからです。ただの人間だからです。
ただの人間について真摯に語るという行為は、神量産とは対称的に、寂しく大概退屈です。何故ならば、対象の人物が神々しければ神々しいほど、語る分量は多くなり、それに伴いややこしくなり、余程の興味を持たない人には消化しづらくなるからです。故にそれらは骨が折れ、非常に疲れる草臥れ行為で、あまり好んでは行われません。結果として、神化時代の大きな流れは、世の奔流と化したのです。
繋がりたいだけの人々が、寂しいだけの人達が、神をこしらえ仕立て上げ、それを崇めているのです。その中には、前述の、「真に語る事の出来る人達」も少しは含まれています。しかし、彼らは、詳しい人物を神と呼ぶ流れには加わりません。「詳しくない人物を神と呼ぶ流れ」に加わっているのです。よく知る人を神と呼ぶ流れには加わらないけれど、よく知らない人を神と呼ぶ流れには加わるのです。何故ならば、彼らもまた、寂しいからです。
それは何もインターネットだけの事ではありません。たとえば、ジーコなんかは誰も彼もが「まあ、ジーコは神だな」とか思っているでしょう。けれども、誰もジーコをよく知りません。僕なんかも「まあ、ジーコは神だな」と思っていますが、記憶だけを頼りにジーコについて書いてみると、「バスコダガマ→レッチェ→バスコダガマ→三菱重工→鹿島」となりますが、合っていたのはアントラーズだけでした。ジーコが(黄金のカルテットを率いて)負けたワールドカップは72年だと思っていましたが、wikipediaによると82年でした。まあ、世の人もこんなものでしょう。
ジーコを神と認める人は、ジーコについて知らないのです。
それと同じで、ネットで神と呼ばれる人を、よく知る人は皆無です。よく知らない人が凄そうな人を見つけては、神、神、神と連呼して、そのポジティブな響きに寄せられ群がり集まる人らと、寂しい夜の寂しさを、誤魔化し凌ぎ紛らわせては、ぬくもりだけを、ただぬくもりだけを皆で共有しているのです。寂しさを紛らわせるには、よく知らない人を神にして、それを崇めるのが一番なのです。神という存在しない幻想を作り上げて、それを褒めるのが一番なのです。そうして今日も又一人、どこかで神が造られるのです。寂しさによって、孤独によって、寂しいだけの人らによって。
2008年10月25日土曜日
はてなブックマークという暴力増幅装置。
どうしてブログを読もうとしないのか。
僕にはそれが理解出来ない。
「ぷにっと囲碁!なブログ」というブログの、「東京の医療は既に崩壊してるのに…。」というエントリーが、はてなブックマークで人気を集めていた。
あのエントリーをはてブした人は、欲望を満たしたいだけである。
自らの知的知性の優秀さを、ただ誇りたいだけである。
「メディアリテラシーの欠片も無い奴らがプンスカしてやがりますよ」
と、見下したいだけである。
「脳みその足りてない愚民らが、今ではブログを書いているんですね」
と、嘲笑いたいだけである。
ご自由に、とでも言いたいところだけれど、
口が裂けてもそのような事は言えそうにない。
我が国の地球上において最も劣悪なるはてなブックマーカーらは、
何故、どうして、ブログというものを読もうとしないのか。
少し調べればわかることを、調べようとしないのか。
少し読めばわかることを、読もうとしないのか。
そのような暴力に荷担するのか。
そして、暴力を振うのか。
はてなブックマーカーというものは、今では害悪である。
無論かつても害悪である。常に害悪である。あるいは、害悪でしかない。
あのようなエントリーをブックマークする人達は、
もはや人間と呼ぶに相応しい、れっきとした暴徒である。
彼らは、純然たる暴力の徒である。
あのブログが、あのエントリーで何をしたか。
それは、暴力である。暴力をしたのである。
彼の人が行ったことは、己の欲望を満たすために、自らの欲望を満たすために、インターネットでターゲットを探し、見つけ出し、それに対して、純然たる暴力をぶちまけたのである。
東京も、医療も、そんなものはここでは一切の問題にならない。そんなものは、論のうちには入らないのである。そんな事は問題ではないのである。問題は暴力である。暴徒である。横暴である。即ちはてなブックマークこそが最大にして唯一の問題なのである。
インターネットでブログを書いている人は、何から情報を入手してブログを書くか。
それは、テレビである。テレビジョンである。電波に乗ったマスメディアである。
その、電波に乗った巨大な利権組織たるマスメディアが、視聴者に誠実な情報を届ける事なく、煽動的、そして情動的な報道に終始している。故に視聴者がその報道を目にして、煽動的、そして情動的な感情を抱くのは当然である。当たり前のことである。
それは、当然の帰趨である。
テレビジョンがニュースライナーで「妊婦が7件もたらい回しにされ死亡しました。」と伝えたら、それを見た人間はどのように思うか、想像してみればよい。一度想像してみればいい。イマジネーションを働かせればいい。考えてみればいい。そんなものは決まっている。「妊婦が7件もたらい回しにされ死亡したんだ……」と思うのである。少なくとも、そう受け取れるような報道を行っているのが、我が国のメディアである。
報道機関である。仮に、もし、地球上によろしくないものが存在としているとすれば、報道機関こそがそれである。煽動的で情動的な報道を行う人達こそが、それである。自らの報道がどのような結果を導くかを考えず、ただ己らの瞬間的な風速が為に煽動的で情動的な嫌悪感の表明たる報道を右から左へ伝えている利権者こそがそれである。
情動的な煽動的な報道こそが、悪である。
煽動的で、情動的な、報道こそが、悪なのである。
悪しきマスコミの曝露を受けたブロガーが、それをブログに書く。
それは、当然のことである。
当たり前の事である。
それは悪ではない。
それは一切の悪ではない。
ブロガーがテレビを見て何かを思う。
それをブログに書く。当たり前の事である。
彼らは一切の悪事を働いていないし、間違いをも犯していない。
あのエントリーで取り上げられたブロガーらは、犯罪被害者である。
情動的で、煽動的なマスコミの、不完全な報道により造り出された被害者である。
はてなブックマーカーが行ったことは、それら犯罪被害者に罵詈雑言を浴びせ、晒し上げにし、純然たる暴力以外の何物でもないアクセスという暴力で彼ら罪無き人々をを叩きのめしたのである。視線とは暴力である。アクセスとは暴力である。言葉とは暴力である。アクセスとは暴力である。はてなブックマークとは、暴力の増幅装置以外の何物でもないのである。もしも仮にはてなブックマークが暴力の増幅装置ではないとすれば、はてなブックマークとは暴力の発生装置に他ならない。そしてはてなブックマーカーとは、暴力の増幅装置以外の何物でもないのである。
かつて、インターネットには嫌韓というブームがあった。どこのブログサービスのランキングにも、必ずや1つか2つは嫌韓ブログというものが存在していた時代があった。彼らは、自らの人生がうまくいかない事の原因を外部に求めた。見下せる存在を探した。そして彼らが発見したのが、朝鮮半島という隣国であり、在日韓国人という人達であった。
彼ら嫌韓ブログの人達は、韓国をそして韓国人を、罵倒する為のソースを怠ること無く探し出し、そうして1つを見つける度に、それを面白おかしく腹立たしく、良い塩梅に調理しては持ち寄り、やいのやいのと盛り上がり、仲間内で罵ったり、馬鹿にしたり、嘲笑ったり、あるいは嫌悪したりと、飽きることなく毎日のようにやっていた。そうやって、満足感を得ていたのである。そうやって、楽しんでいたのである。娯楽として、消費していたのである。
しかし、韓国という娯楽は、消費されすぎた。ウェブに溢れかえり、何度も同じ話題が繰り返され、漫画本にもなり、食傷されてしまった。やがて彼らは中国をターゲットにしだしたが、それも一通り使い果たした。そうして、彼らネット暴徒どもが行き着いた最後のターゲットこそが、日本である。日本人である。
今では日本人こそが、持ち寄られ、調理され、仲間内で罵ったり、馬鹿にしたり、嘲笑ったり、あるいは嫌悪したりする為のコンテンツとして、材料として、毎日のように一方的に消費され続けているのである。攻撃され続けているのである。差別され続けているのである。
言うならば、現在の我が国のインターネットは、嫌日インターネットである。
嫌韓後のインターネットは、嫌日インターネットである。
日本人を嫌い、日本人を見下し、日本人を笑う。
そこで重要視されるのは、事実ではない。
無論のこと、真実でもない。
いかに馬鹿に出来るか。
いかに軽蔑出来るか。
いかに嘲笑えるか。
それだけである。
それだけだ。
お気軽に、そしてお手軽に。
罵り、侮蔑し、嘲笑する為の機会である。
そうして、自己満足の為に、軽蔑機会を、よりいっそうの軽蔑機会を毎日探し求めている、インターネット暴徒集団の根拠地こそがはてなブックマークであり、あのエントリーをはてブしていた人達は、その極みの類の頂点とも言うべき純然たる悪である。渾然たる悪である。

見辛い表で申し訳ないが、「晒し上げ」にされていたブログのコメント数の推移である。
コメントがあるブログにしても、コメントしているのは交友関係のある身内である。コメントもトラックバックも、もちろんアクセスも、あまり多くないブログである。ごくごく普通のブログ群であり、ごくごく普通のブロガー群である。
そのような、ごく当たり前の、ごく普通の、なにげない、それでいてさりげないブログを晒し上げ、見下し馬鹿にしあざ笑うブログが「まともなブログ」だと、お思いか?それにより生み出されたはてブ暴徒どもの手による、ここではとても書けないような暴虐と侮蔑の限りを超えたはてブコメントを目にしても尚、あるいはブログに直接付けられた(いまではだいぶ削除されたが)大量の、直視に耐えない劣悪な、罵詈雑言コメントを目にしてもまだ、それが真っ当な行為だと思うのか。そんなエントリーが「よいまとめ」だと、お思いか?
ゴミである。断じて言うゴミである。
はてなブックマークは暴力の根拠地である。
はてなブックマーカーらは暴力の使役者である。
自らが馬鹿に出来る相手を、自らが嘲笑出来る相手を、
安全地帯から、一方的に、暴力を行使できる相手を、
日々探し求め、彷徨うだけの、鬼畜弁慶どもである。
皆で馴れ合いながら、毛繕いを繰り返しながら、
笑い、侮蔑し、馬鹿にして、消費してゆく。
それがはてなブックマーカーという人種である。
その内容が、事実であろうと、あるいは真実であろうと、
そんなものはどうでもいいのである。この場合もそうである。
くだんのブロガーは、その方面では幾らか有名な人である。
もちろん、悪い方に有名な人である。
どのように悪いかは、当該エントリーを一目見れば解るはずである。
人格がにじみ出ているはずである。そんなもの見れば解るのである。
上記の香ばしいブログ群まとめ。
http://blo*********
http://pla*********
http://blo*********
http://blo*********
http://pla*********
http://yap*********
http://enn*********
http://blo*********
http://fyk*********
http://blo*********
http://cha*********
http://die*********
http://blo*********
http://blo*********
http://blo*********
http://blo*********
http://blo*********
http://mpi*********
http://blo*********
http://pla*********
http://blo*********
http://pla*********
http://myh*********
http://pla*********
http://blo*********
全国のお医者さん逃げてー!!
| 都筑てんが | 2008/10/23 3:51 PM |
ブロガー本人によるこのコメントを読んで、どう思うか?
晒されているブログを見て、どう思うか?
まともな人間のする事だとお思いか?
「よいまとめ」とお思いか?
「香ばしい」という表現は、嫌韓系ブログ、嘲笑系ブログによく見られた、それ特有の表現である。晒し上げという手法も、同じである。「全国のお医者さんにげてー!!」というテキストを読んで、それが真っ当な論者によって書かれたものと、あなた方は判断するのか?そうだとしたら、それはもう、お言葉の介在する余地は存在しないと申し上げてよい。
言うまでもなく、この「晒し上げ」に最も貢献したのははてなブックマークである。そして、それをはてブし広めた、はてなブックマーカーどもである。「晒し上げ」と書けば耳障りは良いが、実際は晒し上げなどではない。それは、暴力である。純然たる暴力である。市井のブロガーに対して放たれた純然たる暴力の拳である。
即ち、「荒らし依頼」そのものである。
なぜ彼のブロガーは「荒らし依頼」を試みたのか。
それは彼の人が日本人を憎悪しているからである。日本人を軽蔑しているからである。見下し嘲笑し、暴力を浴びせかける存在として、日本人を位置づけているからである。かつて韓国人が埋めていたニッチを、日本人によって埋める事で、自らの幸福感を、満足感を得ているからである。
そして、なぜはてなブックマーカーがそのようなエントリーを右から左にはてブしたのか。それは言うまでもなく、はてなブックマーカーらが、日本人を憎悪しているからである。日本人を軽蔑しているからである。日本人を見下すべき存在として定義しているからである。己の欲望を満たすためだけに日本人を利用しているからである。その為だけにはてなブックマークを利用しているからである。己の、暴力の、増幅装置として、加速機として、はてなブックマークというウェブサービスを、巧妙に、狡猾に、一方的に利用しているからである。
彼のブロガーは、他の場所でも同じ事を書いている。
33 :卵の名無しさん:2008/10/23(木) 13:35:35 ID:fvU6/leO0たとえば、これは2ちゃんねるに書き込まれたものである。
香ばしいブログ群投下。(●=o)
http://blog.go●*********
http://plaza.rakuten.c●*********
http://blogs.yaho●*********
http://blogs.yaho●*********
http://plaza.rakuten.c●*********
http://yapl●*********
http://en*********
http://blog.go●*********
http://fy*********
http://blog.go●.ne.jp/*********
http://chakn*********
http://diean*********
http://blog.go●*********
http://blogs.yaho●*********
http://blogs.yaho●*********
http://blog.livedo●*********
http://blogs.yaho●*********
http://m*********
http://blogs.yaho●*********
http://plaza.rakuten.c●*********
http://blogs.yaho●*********
http://plaza.rakuten.c●*********
http://myh●*********
http://plaza.rakuten.c●*********
http://blog.livedo●*********
全国のお医者さん逃げてー!
都筑てんが(くだんのブロガー)本人による投稿である。
(アドレスは一部は伏せた。)
彼の人の目的は何か。
言うまでもない。
荒し依頼である。
そしてこの荒らし依頼はたいした成果を上げる事なく終わる。
何故ならば、2ちゃんねるは今や、ネット暴徒の根拠地ではない。
今やネット暴徒の根拠地は、はてなである。はてな匿名ダイアリーを擁し、はてなブックマークを有する、はてなである。ウェブサイトに書かれている内容を、読みもせず、調べもせず、ただ自らが満足を得る為だけに、対象ブロガーの神経を逆なでする為だけに作られたタグをつけ、140字の暴言を吐き捨てる、大量のはてなブックマーカーを擁する、巨大なアクセス増幅機関である、はてなブックマークである。はてなブックマーカーが求めるのは、軽蔑機会であり、罵倒機会であり、吐き捨て機会であり、暴力機会であり、嘲笑機会であり、見下し機会である。
そして、何よりも、正義機会である。
直訳すれば、ジャスティスチャンスである。
くだんのブロガーは、ブログ検索で自らの獲物を探しては、見つけ出し、それらに対して片っ端からコピペコメントを付けて回り、自らのブログで晒し上げにし、はてなブックマークを用いて暴徒を流れ込ませている。それと同時に、ブログ検索に引っかかった医療関係者のブログに対しては、上記の「香ばしいブログ群投下+URL羅列+全国のお医者さん逃げてー!」というコメントをコピペして回っている。そのような人物の扇動に乗ったのが、はてなブックマーカーどもである。そのような人物の扇動に乗せられて、暴力の行使者となったのが、はてなブックマーカーである。少しでもブログを読めば、とてもではないが、まともな人物のやっている事ではないという事がわかるのに、真っ当な行いではないという事がわかるのに、それをせず、一切調べもせず、それどころか書かれている事を読みもせず、ただ右から左に、脊髄反射で、見下し、馬鹿にし、軽蔑し、嘲笑し、いかにも知性を気取っているのがはてなブックマーカーである。はてなブックマークである。暴力である。暴力のねぐらである。暴力の根拠地である。悪の巣窟である。即ちはてなブックマークである。
重ねて言うが、晒されたブロガーらは、皆、報道被害者である。
マスメディアの正確性を欠く報道を見て、思った事を書いただけである。
彼らは一切の過ちを犯していないし、彼らは暴力により罰せられるだけの行いもしていない。
にもかかわらず、件のブログは、それを自らの欲望を解消する為だけに利用したのである。そしてそれに便乗し、自らの正義機会を、自らの正義チャンスを、自らのジャスティスチャンスを、ただ行使したいだけのはてなブックマーカーらが集い、群れ、山のように集まって、人気エントリーにそれを送り込み、各地の無罪なブロガー達に、尋常ならざる暴力の拳を、がつん、がつんと打ち付けたのである。
そこで行われたのは、まったくもって間違った被害者バッシングであり、間違った被害者バッシングである。一分の正当性もない、正義とは正反対の、完全無欠の被害者バッシングである。
koganei_hyogo : メディアリテラシー 無知は罪。
ryankigz : 「『受け入れなかった』医者は人間のくずニダ」とわめく人間のくずを晒しage。
NATROM : あれげなブログを収集させたら定評のある都筑てんが氏。
あれげなブログ?
それはどのブログの事か。
人間のくず?
それは、誰の事か。
無知は罪?
それは、誰に向けられた言葉か。
どうもこんばんは。「都筑てんが」と申します。あなた方を扇動した人物はどのような人間であるか。
21インチ警棒と、ポリスマグナムのセットを購入させて頂きました。
http://www.ksp-web.jp/cargo/goodsprev.cgi?gno=SET-H802B
現在、外出の際は、上記のセットに加え、IDカード入りホイッスル(電源が不要なので、防犯ブザーの代用として)、防刃グローブ(ケブラー製・鉛入り)、安全靴(爪先が鉄鋼)を着けて家を出るようにしています。
また、スタンガン(キングコブラ・セダン)および、防犯ブザー(9V電池使用の、130デシベルの物)の購入を考えているところです。(現在、資金調達中…。)
日本国民というものを、どのような存在として捕らえている人物であるか。
どのような思考の持ち主であるか。
どのような思想の持ち主であるか。
どのような妄想の持ち主であるか。
それは、ほんの少しだけ、ブログを読めば立ち所に理解出来るものである。
いや、ブログなど読まずとも、当該エントリーを読めば、一瞬で理解出来るはずである。
貼り付けられているYouTubeの内容がまともだったからブログもまともだと判断した?晒し上げにされているブログの幾つかが粗雑な文章だったからはてブで嘲笑してみた?被はてなブックマーク数が100を超えていたから信頼出来ると思って乗っかり正義した?そんなものは、おかしいのである。そんなもので扇動されている時点で、おかしいのである。
マスコミの不完全で情動的な扇動報道被害者たる、晒し上げにされているブロガーらよりも、あのようなブログのエントリーを右から左に広めているはてなブックマーカーどもの方が、遙かに、馬鹿で、阿呆で、まぬけで、それでいて暴力的であり、暴力であり、悪である。
あのようなURLをはてブしているはてなブックマーカーらこそが最も欲望の権化であり、もっとも暴徒であり、最も間違いの最たるものであり、彼らこそが、ブログというものを、インターネットのブログというものを、破壊し、破滅に追いやり、怯えさせ、暴力による支配を、悪による支配を完遂する為の、巨大な増幅装置の歯車の1つのイービルエンパイアなのである。
この"都筑てんが"という人に関しては、以前著名なはてなダイアラーが絡んでおられた(絡まれていた)ので、どのような人物がどのような目論見で行った純然たる暴力であるかを、少しでも書いている人がいるのかと思って一通り見たけれど、そのようなものは見つからなかった。と言っても、それは政治的には正しいのかもしれない。僕には判断しかねるけれど。
『憂国』
かつて嫌韓を支えた「憂国」という一大概念は、やがて中国へ行き、北朝鮮へ行きしてそして今、最も最大にして身近で手近な軽蔑機会、嘲笑機会、ジャスティスチャンスたる日本国へと、そのターゲットを移したのである。そして、その一大ブームを作っている悪の巣窟こそが、はてなブックマークという、ノーリテラシーノーモラルな、無道徳集団の根拠地なのである。
■東京の医療はは既に崩壊してるのに未だに「医師の怠慢」と思ってる人間が多数
ひどい話だ。
マスコミの論調に流されるだけの人がまだまだたくさん。
「ひどい話だ。」
と、憂国。
「マスコミの論調に流されるだけの人がまだまだたくさん。」
と、また、憂国。
論調に流されているだけなのは誰か。
扇動に乗っかり自己満足を得ているのは誰か。
嫌韓ブログで繰り返された見慣れた風景の再現である。
幾つもの無為のブログにアクセスという純然たる暴力を流し込ませ、罵詈雑言のコメントを浴びせかけるための土台を作り、彼らにブログを閉鎖させたのはなにものか。巨大な暴言の束を流し込み、真面目に堅実に毎日々々ブログを書き続けてきた幾人ものブロガーを、インターネットから追放したのは何か。誰か。何人らか。
2008年10月24日金曜日
納得のいかない映画のタイトル
なんでThe War of the Worldsのタイトルが「宇宙戦争」なんだよ。
そこはもう堂々と漢字二文字で「赤壁」でいいんじゃないのか?!
え?カタカナにしとかないとスイーツが見に来ないから?
ゆとりが漢字読めないから?
なんなの一体。
2008年10月23日木曜日
日本国民を守るため、こんにゃくゼリーの形を国が決めた。
日本国民を守るため、まず最初に朝鮮人が排除され、次に支那人が排除された。台湾人は有用であるとの理由で排除の対象外となった。次に練炭が排除された。七輪は秋刀魚を焼くのに便利であるとの理由で排除の対象外となった。次に610ハップが排除された。サンポールはトイレ掃除に重宝するとの理由で排除の対象外となった。次に自転車と歩行者が排除された。自動車は我が国の経済を支える基幹産業であるとの理由で排除の対象外となった。そして我が国は平和になった。日本国民は幸福を手に入れた。
「しかし、であります。」我が国にはまだ、日本国民を害するものが存在していると主張する一派があった。「日本国民に最も害悪を及ぼしているものは日本国民である。」それが彼らの主張だった。日本国民こそが日本国民を最も苦しめ、日本国民こそが日本国民を最も迫害している。その事実はやがて認められ、日本国民が廃除される事になった。
けれども、日本国民を廃除するのは困難であった。他のものと同じように重しを付けて海に沈める訳にはいかなかった。なぜならば、そんな事をしてしまうと日本国民が傷つくからである。
「日本国民を害する事なく日本国民を廃除する。」その難題を克服する為にこんにゃくゼリーの形が決められた。2種類の形が憲法によって定められた。男は馬鹿なのでそれで満足したが、女は強欲なのでそれに満足出来ず、女性用に限りプラスチックと電池の使用が認められ、女も男も皆満足した。そうして1世代後には、日本国民は完全に廃除され、日本国民を害するものはこの国から姿を消した。
ビデオゲームは生きるに値するか。
僕はゲームをプレイしたいと思ったからゲームをしていたのではない。
ただ、自分を救ってくれる可能性のあるものが、ビデオゲーム以外に思い浮かばなかったので、藁にも縋る気持ちでビデオゲームの門を叩いただけの話だ。もちろんそれはお門違いも良いところで、結局ゲームは僕を救ってはくれなかった。
僕は、ゲームというものを自分の中で意識しだしてから、実際にゲームというものに辿り着くまでの間に、随分と時間が掛かった。親戚の家で古いゲームウォッチを遊んだのが最初だと思う。筐体型のかなり大きなゲームウォッチで、カエルが障害物(最初は川と丸太で、次は道路と車だった)を避けながら向こう側に辿り着く、というゲームだった。
実際にそのゲームウォッチを初めてプレイしてから、ゲームを自由にプレイ出来る身分を手に入れるまでに、随分と長い時間が掛かった。その長すぎた時間のせいで、僕はゲームというものを何か特別な自らを救ってくれる救世主のような存在であると信じるようになった。遠くの本屋に自転車で出掛けていって、ゲーム雑誌を立ち読みしては、頭の中でゲームをプレイしていた。ゲームをする為に生まれてきたのだと本当に信じていた。その幻想だけを心の支えにして生きていた。
僕はゲーマーになりたかったのだ。みすぼらしい人間である事をやめて、普通のゲーマーになりたかったのだ。そして、「ゲームをプレイすればゲーマーになれる」という幻想は、「アメリカに行けばバスケットボールが上手くなる」というのと同程度に、滑稽なものだった。
ビデオゲームはビデオゲームだった。ビデオゲームでしかなかった。では僕は失望したのか?生きる希望を失ったのか?というと、そうでもなかった。ゲームはそれなりに面白かった。十二分に楽しかった。ビデオゲームをプレイするという行為は、僕が生きてきた中では最も苦痛から遠く離れた時間だった。今でも、無心でsoloLadderとrocDOTAを平行して遊んでいたあの頃が一番幸せだったと思う。ただ、当たり前の話だけれど、ゲームは僕を救ってはくれなかった。人生は暗幕の向こうで悪化し続けた。
間違った信仰が捨て去られる日は来なかった。間違った幻想が打ち砕かれる日は訪れなかった。もしも「ビデオゲームは僕を救ってくれるのだ」という間違った幻想を捨て去る機会があったならば、僕は普通のゲーマーになれたかもしれない。あるいは、ゲームなんてものから離れて健常者として生きられたかもしれない。けれども、そうはならなかった。そんな日は終ぞ訪れなかった。迷信は堅持され続けた。
ビデオゲームという『現実』を手に入れた瞬間に、破滅は訪れていたのだと思う。
「ビデオゲームという幻想」は悪化した僕の人生を支えるに十分な強さと太さを持っていた。けれども「ビデオゲームという現実」は、そんな強さを持っていなかった。当たり前の話である。ビデオゲームはビデオゲームでしかない。結果的に僕は自らを上手く支えきれなくなり、日増しに朽ち果てていった。
所謂名作と呼ばれるようなものを買い漁ったりもしたけれど、ほとんど手に付かなかった。FF5は石像が出てくる所で、FF6は時計台の有る町で投げた。ドラクエ6はムドーを倒してすぐに投げた。ロマサガ3やFF4は10分で投げた。僕を救ってくれるはずだったビデオゲームは、僕を露骨に拒絶した。現実は残酷だった。
結局僕は自分でもよくわからないものに成り果ててしまった。
可能な限り好意的に解釈すれば、BLIZZARD中毒者という事になるのだと思うけれど、今ではそれすらも違う。ワールドオブウォークラフトはもちろんのこと、スタークラフト2やディアブロ3も僕は遊ばないだろう。もちろんDOTA allstarsも、もう随分とやっていない。ビデオゲームは僕を救ってはくれやしない、という事を今では理解してしまったからだ。ナポリは見るに値しない。ゲームは生きるに値しない。
ウェブカレに死ねって言われたので死にます。さようなら。
ウェブカレに死ねと言われました。ウェブカレは僕を癒してはくれませんでした。インターネットは辛いばかりで良いことが一つもありません。生まれてきてごめんなさい。
2008年10月22日水曜日
男は苦痛でしか物事を覚えておけない。女は甘さでしか物事を覚えておけない。
窓の隙間から冬の冷たさが差し込んできて、肌を刺してから包みこみ、僕は丸くなり耳をふさいだ。前にもこんな事があったような気がする。いや、確かにあった。何度もあった。
遠い昔に過ぎ去った、忘れきっていた思い出が、冬の寒さに引き摺られ、次から次へと蘇っては精神を蝕んでいく様子を、何も出来ずにぼんやりと見ていた。
「男は苦痛でしか物事を覚えておけない。女は甘さでしか物事を覚えておけない。」そんなでたらめのフレーズが頭に浮かび、男は損な生き物だと、身勝手に思った。論点の挿げ替えはいつもこんな風にして行われる。"男は"ではなく、"僕は"だ。
どうして、僕は、痛みでしか物事を覚えておけないのだろう。
夏の暑さにへたばる度に、冬の寒さに凍える度に、あるいは左の足首が痛む度に、頭痛が右へと突き抜ける度に、いろいろな事を思い出す。辛くて人前で泣いた日のこと、苦しくて泣きながら歩いた日のこと、人知れず泣いた夜のこと、歯を食いしばって耐えた日のこと、頭の中を空っぽにして心を殺して凌いだ日のこと。痛みを感じる度に、苦しみを味わう度に、鈴なりになった苦痛の束が、次から次へと引き揚げられる。おかしい。そんなはずはない。
僕は決して、今日まで苦痛だけの人生を歩んできたわけではない。
楽しかった事もある。嬉しいことだってあった。喜びで心がとろけそうになったこと、幸せで両肺に目一杯空気を吸い込んだこと、期待で胸が高鳴り思わず目を閉じ寝転がったこと、くだらない夢を思い描いて満たされ頬が弛んだこと。僕にだって、そんな日があったのだ。一度ならず。二度ならず。
そりゃあ、人並みとは言えないかも知れない。世間様から比べれば、取り立てて喜ぶ程のものではない、些細なことだったのかもしれない。けれども、僕にだってあったのだ。確かにあったのだ。嬉しかったこと、楽しかったこと、喜んだこと、幸せだったこと。なのに、それらは顧みられない。冬の寒さに引き摺り出され、思い出される事なんて無い。思い出されるのは、苦しみばかりだ。痛みばかりだ。
どうして、甘さは苦痛と同じように思い出されないのだろうか。
人生を彩ってきたはずの、貴重な貴重な甘美さは、記憶の中から抹消され、置き去りにされているのだろうか。どうして、苦痛と同じように思い出されはしないのだろうか。僕は思い出を1つ1つ辿った。楽しかったこと、嬉しかった出来事、自分は幸せ者だと思った日のこと。幸福感に満たされた記憶を一つずつ、それぞれ慎重に思い出してみた。そうすると、解ったことがあった。
僕の幸福感は全て、苦痛から逃げ出した先での出来事だ。
楽しさだけではない。嬉しさや、喜びや、ときめき。それらは全て、痛みや苦しみから逃避し、逃げ出した先での出来事だ。僕の幸福感は皆、苦痛の副産物でしかなかったのだ。苦痛から逃げ出しても、苦痛は消えない。それどころか、逃げれば逃げるほど、遠ざかれば遠ざかるほど、苦しみや痛みは増長し、青粉や赤潮のように育ち、広がり、辺りにこびりつき、そして一面を埋め尽くす。
嬉しかった記憶や楽しかった思い出はどれも、手の施しようのないまでに巨大化してしまった苦しみや痛みから逃げ出し、それに背を向けて見て見ぬふりをして作られた、砂上の幸福感だったのだ。僕の人生を彩ってきた、幸せな思い出の大きさは、逃避元の苦痛の規模に、見事なまでに比例する。
故に、嬉しかった記憶や楽しかった記憶を思い出せば思い出す程に、辿れば辿るほどに、逃げ場のない苦しさや、辛さばかりを、まるで今朝の出来事のようにまざまざと見せつけられてしまう。
記憶の奥底に土を重ねて葬られた、幸福の記憶が何かのミスで思い出されてしまう度に、その床下から湧き出してくる、底なしの生きた苦痛の汚泥が、僕を地中へと引きずり込んで行く。いや、僕を地上へと引き摺り出して行く。逃避し続けてきた現実へと。
幸福を感じたという事実を思い出すことすら、僕にはもはや苦痛でしかない。
当然の報いなのだろう。天罰なのだろう。何の報いかはよくわからないが、何の罰なのかはなんとなくわかる。言葉にまでは出来ないが、なんとなくわかる。それはおそらく、僕が楽しさや、嬉しさ、喜びといった正の感情を、自らの都合の為に悪用した事に対する罰なのだろう。本来、楽しさや、嬉しさ、喜びといった正の感情は、それを心から願い、それを心から求めるものにこそ相応しいものだ。苦しみから逃れたいという利己的な、自分都合の一心で、幸福という正の感情を利用した、僕に対する天罰なのだ。当然の報いなのだ。
僕は楽しさを求めていた。喜びを求めていた。幸福を求めていた。
けれども、それらは、全て嘘だったのだ。大嘘だったのだ。偽りだったのだ。
ただ、苦しみから、痛みから、逃げようとしていただけだったのだ。
楽しさを求めたことも、喜びを求めた事も、実は一度も無かったのだ。
苦痛から逃れたい一心で、偽の感情を、幸福を追求するという偽の感情を自ら捏造していただけだったのだ。幸せになりたいと思った事など、ただの1度もなかったのだ。幸福を願ったことなど、生まれてこのかた無かったのだ。僕はただ、臆病に逃げ出した卑怯者だ。逃げていただけなのだ。
楽しさは楽しさを望む人が、喜びは喜びを求める人が手にするべきだ。幸せは幸せを願う人にこそ相応しい。自らの幸福をただの一度も願ったことの無い人間は幸福に値しない。一生そしりを受けて死ね。おまえにはそれがお似合いだろう。
登録:
投稿 (Atom)