2005年3月11日金曜日
ビッグイシュー関連の投稿をしないのは
引き篭もりとホームレスというのはイコールであるから。
イコールじゃないにしても、ヒャダインとイオラくらい。
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たかが投稿を戻るで消してしまった喪失感くらいで覚悟もせずに適当な気分で2行ぽっちの投稿などといったものをしてしまうと居心地が悪くなってしまい書かない理由などというものが原因で書かざるを得ない状況に追い込まれてしまうという悪しき見本ブログは災いの元あ、このフレーズまたどっかで使おう酔って絡もうぜ酔って絡もうぜ酔って絡もうぜ結論としては名称未定がお亡くなりになて蘇生を試み続けたけれど一向に動く気配無し死因は不明また0からでものすごく精神的に厳しいけどまあいいやっていうかこの投稿自体を削除したいくらいに脱兎な気分なのだけれどもう逃げらんないし困った沼ドラゴンスケイルメイル。
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---はい移転
引き篭もりとは、イコールホームレスであるからである。
その違いは、人の目に触れる回数と迷惑をかける人間の頭数だけである。
日本国民の誰もがホームレスが一人残らず消え去った社会を望んでいるように、僕が迷惑をかけている人間は真性引き篭もりが一人残らず消え去った家を望んでいるのはお前が死ねばよかったという台詞を耳にする遥か昔から明らかであり、「ホームレスは罪である」という文章を書くという事は即ち「真性引き篭もりは罪である」という文章を書くのとイコールで結ばれる。
僕は自分の事を棚に上げて「罪である」と書くような態度は取らぬし、真性引き篭もりを含めて断罪出来る程にジャスティスではない。
ホームレスに対する汚い醜いなどという文章は汚く醜い僕としてはまったくもって書けぬし、臭いなどと書いたところで、田子町なんて町ごと臭いし宇都宮なんて県ごと臭いぜと簡単に逃げられるのでまったく意味が無い。にも関わらずうっかり突入しちゃった真性引き篭もりは罪作りである。せっかく堪えてスルーしてたのに。
2005年3月10日木曜日
お言葉ですが、それはいくらなんでも自意識過剰すぎると思います。
「真性引き篭もり」さんの『ビッグイシューにNOと言う。』で、ビッグイシューに関する批判が読める。この記事を含め、現在だけで5つの関連記事がある。ちなみに記事中の、
ホームレスに関するウェブサイトはどこもかしこも糞サイト。
ブログなんかはもっと酷く、適当な出来事を余丁町散人に解釈し、水にも水蒸気にもならないような文章で「ホームレスの心理」だとかとか「社会の病理」だとか「ニートとホームレス」だとかアフィっている始末でおめでたく、全部削除して堀江にアフィリエイトでもした方がよっぽど世の為人の為である。とは、むろん当ブログを指す。余談ながら、毒があればおもしろいというものでもあるまい。
はい。
なんだか、バラモスにメラ唱えてたらバラモスゾンビが飛んできたのよりも遥かにありえない所からありえないあるまいが来てしまい、どうにもこうにも言葉が出ないのでありますが、成り立ちから説明いたしますと、当ブログの管理人真性引きこもりはアメーバブログというブログサービスと少なからずの遺恨があり、それを粘着質にしつこくだらだら延々と、バレバレな文章から誰にもわからぬ文章まで、ありとあらゆるやり方で孤独な大闘争を繰り広げて今日に至っております。
昔々その昔、ちょうど僕がアメーバブログを超真剣に偵察していた頃、アメーバブログには乞食ブログという大成功した詐欺師のブログがありまして、その成功を見て雨後の筍のように糞ブログが増殖し、ありとあらゆるお笑い視点の切り口でホームレスを語るが大流行してアフィりだしたという歴史があり、それを指した文章が「むろん当ブログを指す」部であり、DOTA allsatarsの次に歴史のある由緒正しき続きものの文章なのです。
よりによって最もどうでもいい部分が引用されているので触れないでおこうかなとも思ったのですが、さすがにそんな滅茶苦茶な場所を誤読されるとは想定外の出来事であり、真性引きこもり史上最も恥ずかしく最も脱力なブログ投稿を行うに至り、なんだかとても非常に寂しいです。
とりあえず今後とも誰が読んでもわかるように、あるいは僕しかわからないくらいにこっそりと、対アメーバブログ路線を突き進みますので、からあげともどもよろしくお願い申し上げます。
毒があればおもしろいというものでもあるまい。
ええ、毒があればおもしろいというものでもあるまいと思います。
ごもっともです。では。乱文お許しください。
農村は馬鹿だ。
あの、それは、少しだけ。
そう、ほんの少しだけ間違っていると思います。
低価格志向が日本の消費者に受け入れられなかったのではなく、日本の消費者は既に低価格の中にどっぷり漬かっていたので、カルフールに魅力を感じなかったというだけではないでしょうか。
カルフールのやり方を調べてみると、おっきい駐車場のあるおっきい店舗を郊外に出して、徹底的に低価格を打ち出して食品だけではなくいろんなものを売るスーパースーパー大作戦であり、それは主婦の店ダイエーが30年前に吸い尽くした商法であり、そんな時代遅れのもので勝てると考えたフランス人は馬鹿であるというだけの事であり、撤退を余儀なくされて当然です。
だいたいからしてカルフールのホームページで店舗の見取り図を見てみると、おもちゃに文具に家電にパソコンというあきらかに新参者のオフランス如きが低価格を打ち出せる余地の無い品物が並んでおり、200%勝ち目の無い潰れかけのダイエーといった風情で、店員の底抜けにまぬけな笑顔が涙を誘うばかりです。
しかも、カルフールの売りは何かと調べてみれば、チーズとケチャップとオリーブオイルとパエリヤであり、それらが日本で説得力のある兵器として通用すると考えていた時点でフランス人は頭にぎっしり黄色いパエリヤです。
そんな子供だましのやり方が通用するのは発展途上国だけであり、我が国のような小売業が進化に進化を重ねて低価格の低価格の特化の特化、叩き売りの叩き売りの行き着く先まで行ってしまっておる国に進出した時点で間違いであり、「世界第二位」といった全米一位級の子供だましを真面目に受けて真面目な文章で農村を叩いている人間の知の底の浅さが見え知れ渡り透き通るところであります。
あ、日経の事です。日経。ええ。
日本で流通している農産物は大きく分けて、低価格の中国産と高価格の国産という2種類であり、中国産を買いたくない人間は神話を信じる信じないは別として、国産の品物を買い、気にしない人間は気にせず中国産の椎茸や痩せ細ろえた白葱を買い求めるわけで、それを嗜好操縦と呼ぶのはものっ凄く、ずれております。国産野菜と中国野菜にブランド力以外の差は無いと仰るのならばそれはもう、黄色いパエリヤですが。
>日本に於いては、農産物の調理技術が未熟であると言うことも一因かも知れない。
>素材にあまりにも依存した料理技術しか開発されてこなかったのだ。
ええ、そうですよ!それですよ!
ほんとうに我が国の食文化は過った進化を犯してしまったと感じます。
>安い素材をいかにして上等の料理に調理するか、
>これこそが料理技術であるのだけれど、それがない以上、
>料理はバカダカイ「素材」だけに依存することとなってしまう。
>悲しいかなである。
悲しい。
ものすごく悲しいかなであります。
ところで、バカダカイ素材に依存した我が国の料理にはどのようなものがありますか?ついでに、安い素材を上等の料理に調理する世界の技術というものを、物凄く知りたいので教えて頂けませんでしょうか。
少し話しを戻します。
農村に妻を寝取られ、また娘を駆け落ちされた僕としては、日本中の農村という農村を焼き滅ぼしてファンガスの海に沈めたい日々思っているわけですが、やはりやるには周到に準備を重ねてぬかりなくやらねばならぬと思うわけで、毒電波パエリヤをブログで垂れ流すというのは、戦略としてどうかと思うのです。
やるならきっちりやりましょうよ。
これ本当に物凄く。
いや、本当に農村を潰したいってのはあるんですよ。
農村に妻を寝取られ、また娘を駆け落ちされた身ですから。
あ、ところで余丁町散人さんはどちらですか?
農村に妻を寝取られた方ですか?
それとも、娘を駆け落ちされた方ですか?
いや、その文章から迸る凄まじいパワーから読み解くに、絶対にそのどちらかだと思うのです僕と同じ臭いがするのです。一行目と終行にまったく関連性が無い文章とか。
寝取られましたか?
駆け落ちましたか?
なんか中途半端に長くなってしまいましたが、僕がとにかく思ったのは、将来おおきくなったら、偉い大学へ行って、偉い商社に勤めて偉くなって、それから退職して、退職した後はマッキントッシュとか買って、毎日毎日ブログで農村を罵倒し続けるといったような、素敵な老後を過ごしたいです。
拝啓。
2005年3月8日火曜日
老人の話はつまらない
「君の話はつまらない」と、面と向かって言われた事が無いのは、僕の話が面白いからでは無くただ単に、面と向かって物を言われた経験が無いというだけの事である。
つまらない話であると言われているものの筆頭に、政治家の話というものがある。
二段落目をこのように書き出したからといって、政治家のつまらない話を書くわけではなくただ単純に、つまらない話を書くのである。
他にも、色々ある。
老人の話はつまらない。
坊主の話はつまらない。
上司の話はつまらない。
教師の話はつまらない。
若者の話はつまらない。
子供の話はつまらない。
女の話はつまらない。
そのようなものの覧に「引き篭もりの話はつまらない」というものが無いのは、引き篭もりの話が面白いというわけではなくただ単に、引き篭もりというものは話をしないからである。
引き篭もりの話が面白いかつまらないかという事に関してはよくわからないのだけれど、真性引き篭もりというものがつまらないという事は確かである。
つまらない朝に目が覚めてつまらない尿意を催し、つまらない我慢をしてつまらない頃合につまらない食事をつまらなく食べる。つまらないゲームをしてつまらないウェブサイトを巡りつまらないブログを読む。つまらない悩みを抱えてつまらない結論に達し、つまらない文章を書く。やがてつまらない朝が来て、つまらないから眠ろうと思うのだけれど、つまらない物音に緊張し、つまらない恐怖に取り付かれて眠れない。やっとこさ恐ろしい出来事の全てを脳みそから追い出す事に成功して眠ろうとすると、つまらない学童の声にそば耳を立ててしまい、「学童の話はつまらない」というつまらないつまらないし、つまらない眠りにつく。
実につまらない。
退屈に溢れている。
では、面白い一日というものはどのようなものであるのかと少しばかり考えた。
おそらくそれは、面白い朝に面白い尿意を催し、面白いゲームを遊んで面白いブログを書き、面白いウェブサイトを巡って面白い眠りにつくといった、実に面白く驚きに満ち溢れたものを指すのであろう。
そのような一日を送ってみたいと思い、それを僕が送れぬ理由を考えた。
それはもう明確であり、明確であった。
つまらない一日などというものは存在しないのである。
同じく、面白い一日というものも存在しないのである。
世の中にはつまらない人間と面白い人間という、二種類の人間がいる。
ただそれだけの事である。
つまらない人間は何をしてもつまらないし、面白い人間は何をしても面白い。
これを話というものに当てはめると、老人の話がつまらないというのは間違いで、老人はつまらない、より正確に言えばつまらない老人がいるというだけの事である。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
つまらない人間の話はつまらない。
こうしてみるとわかりやすい。当然である。
つまらない人間の話が面白いわけがない。
だからといって、
「インターネットもアウターネットもつまらない話で満ち溢れているんだね。」
という答えを導き出してはいけない。
つまらない話というものは存在しないのである。
同様に、面白い話というものも存在しないのである。
世の中にはつまらない人間と面白い人間という、二種類の人間がいる。
ただそれだけの事である。
それがつまらないものであるのか面白いものであるのかを判断するのは人間である。
面白い人間であればなんだって面白いと感じるし、つまらない人間であればなんだってつまらないと感じるものである。
峠の先の灯台の下の手摺の台座に踏み乗って、曇り空の間から洋上へと差し入る光の帯は、つまらない人間にとってはつまらない風景であるし、面白い人間にとっては面白い風景である。
数字と数字の難解式が延々と並べられた神の書物の本棚は、つまらない人間にとってはつまらないものであるし、面白い人間にとっては面白いものである。
2つめの目覚まし時計に叩かれて、片手で歯ブラシを磨きながら片手で顔を拭い、片手でトーストを食べながら片手で紅茶を飲み、片手で鞄を持ったまま片手でノブを回して始まる一日は、つまらない人間にとってはつまらない一日であるし、面白い人間にとっては面白い一日である。
つまり、つまらない人生だとかつまらないテレビだとかつまらないインターネットだとかつまらないブログだとかつまらない真性引き篭もりなどといったものは存在せず、つまらない人間がいるだけである。
逆に、面白い人生を送りたいといならば面白い人間になればよい。
面白い人間になれば、面白い朝が面白い昼下がりが面白い夜が面白い夜更けが面白い目覚まし時計の鳴る音が、面白い家族が面白い友が面白い同士が同僚が、面白い出会いが面白い別れが、面白いテレビも面白いラジオも面白いブログも、面白換気扇、面白扁桃腺、面白消灯時間、面白急須、面白生きると面白死、その他全ての面白いが手に入る。
これを間違ってつまらない人間になってしまえば、面白人間であれば享受出来る事柄の全ては失われ、つまらない朝が来てはつまらない昼下がりまでつまらない時間を過ごし、つまらない夜を待ってはつまらない夜更けを過ごす。つまらない家族がつまらない出来事を呼び覚まし、つまらない友がつまらない記憶を刻み込む。つまらない出会いはつまらないまま別れを呼ばず、つまらないからと逃げ出そうにも行く宛てが無くつまらない。つまらないテレビも今は無く、つまらないラジオを耳にもせずに、つまらないブログとその他諸々のつまらないが積み重なる。
つまらない人生を送りたければつまらない人間になればよいし、面白い人生を送りたいのならば、面白い人間になる方法を見つければよいのである。
しかしながら残念な事にお知らせに、面白い人間になる方法というものは未だ発見されてはいない。しかも、面白い人間がつまらない人間になった例だとか話しだとかはそこいらじゅうに転がっているけれど、つまらない人間が面白い人間になったという話は聞いた事がない。
1度つまらない人間になってしまうと、なって精々つまらない面白人間である。
面白人生を望むのならば絶対に、つまらない人間になってはならぬのである。
結局の所、老人の話がつまらないというのは間違いで、「老人の話はつまらない」といった類のエントリーを書くつまらない人間がいるというだけの事である。
そのような、つまらない人間にだけはならぬようにしたいものである。
2005年3月6日日曜日
ヌルゲーマーのエンディング
ヌルゲーマーにエンディングは無い。
おい、その表題でその書き出しは無いだろう。
仰せの通り、その通り。たしかにこれは、ないと思う。
けれども少しだけ待って欲しい。
そりゃないだろうと罵る前に、少しでいいから聞いてお願い。
ありとあらゆる始まりと対にして、終わりは必ずそこにある。
宇宙太陽世界にも、七つの海にも五里霧中にも第三帝国にも、マイクロソフトにも1000年の眠りにも100年の恋にも愛知県の北西部にも、終わりは存在するのである。
それはやがての時を経て、必ず訪れるものなのである。
けれども、終わりを指してエンディングと呼ぶのは間違いである。
エンディングとは終わりの周囲の一掴みであり、終わりそのものではない。
終わりの近さ告げる太鼓とドラが鳴り響き、ものっ凄い顔の黒人のおばさんが物凄い顔をして歌う、聞き取れないフレーズと聞き取れすぎるフレーズの交差する歌とか賛美歌とかバッハとかそういう類の妖しい音楽が妖しいテンポで流れる中で終わりが訪れるまでの間を指して、エンディングと呼ぶのが正しい。
では、エンディングの無い終わりはあるかどうかという事である。
エンディングの無い終わりがあるならば、ヌルゲーマーにはエンディングが無い。
あるのは終わりだけである。
そうではなくて、終わりが必ずエンディングを伴うものであるならば、ヌルゲーマーにだってエンディングが存在するという事になる。
結論から書く。
終わりは必ずエンディングを伴う。
おい、その書き出しでその結論は無いだろう。
仰せの通り、その通り。たしかにこれは、ないと思う。
けれども少しだけ待って欲しい。
そりゃないだろうと罵る前に、少しでいいから聞いてお願い。
なんでもいいからある事無い事てんやわんやにでっちあげ、すりきりいっぱいの両眼を輝かせながら朝まで話したい気分。いつも決まってそうだけど、今日は特別そうなんだ。だからもう少しだけ待って欲しい。
エンディングはあるのだけれど、エンディングは無い。
事は至って単純で、エンディングに気がつかない類のものが世の中には存在するのだ。
例えばやわらぎ。
ももやのやわらぎ。
エンディングはあるのだけれど、エンディングは無い。
事は至って単純で、エンディングに気がつかない類のものが世の中には存在するのだ。
例えば輝き。
永遠の輝き。
輝きはエンディングに気がつかない。当然である。
輝きにはそもそもエンディングであると理解出来るだけの頭が無い。
世の中は輝きほどでは無いにしろ、足りない人で溢れてる。
劇中とは明らかに違う曲調がわんわんわんと鳴り響いているのに、エンディングの最中であるとは気がつかず、次はどうなるんだろう!?と心を躍らせる人が大勢いる。ビルの窓辺で列車で部屋で、ワクワクしている人がいる。
けれどもそれはそうじゃない。
ワクワクするのは勝手だけれど、それは終わりの最中で、金色の猿より強い奴もバスケットボールの決勝戦もハンターの絵もなにもかも、そこから先はもう無いのだ。
にもかかわらずジャッキーチェンは、ビルの窓辺で列車で部屋で、NGシーンを繋いでる。エンドロールが流れる中で。
結局の所、エンディングであるとわかりにくいエンディングの真っ只中にあるこの世界は、エンディングであるとわかりにくいエンディングでありふれているという事なのだ。
絶望である。エンディングである。エロゲー風に言うと、絶望エンドである。
響きからして、多分一番エロイと思う。
まず見るならば絶望エンドだな。俺は。
しかしながら、世の中にはわかりやすいエンディングだってある。
崖の間際で女が泣けば、エンディングだなと誰もが気がつく。
あと一球に大久保が立てば、エンディングだなと誰もが気づく。
英語の苗字が奥へと消えれば、エンディングだなと誰もが気がつく。
そういうわかりやすいエンディングの頂点のてっぺんのまんまんなかに、ゲームのエンディングというものが存在する。
それは、ものすごくわかりやすい。
しかも総じてハッピーエンド。
ゲームのエンディグというものはそう正に、エンディング界の救世主である。
亀とか蜂とか魔王とか、ぬるぬるの銀のお化けとかそういう類が最後にはいて、そいつを倒せば晴れて見事に清らかに、誰にだってハッピーなエンディングが必ず訪れる。
それがゲームというものである。
しかし、そのエンディングを迎えられない人がいる。
俗に呼ばれるヌルゲーマー、ヌルゲーマーという人達である。
彼らはぬるい。非常にぬるい。物凄くぬるい。
一部、一般、善良で、良識のあるゲーマーからは、
「ヌルゲーマーのせいで最近のゲームは駄目になった」と、
事ある毎に罵られるくらい、ヌルゲーマーは、生ぬるい。
けれども、ちょっと待ってくれ。
少しでいいから聞いてくれ。
だって、そうである。
別府と野呂の区別がつかないくらいに生ぬるい人がいるように、'歩'という漢字を書けない人がいるように、懸垂を1度足りとも出来ない生ぬるい人がいるように、その全てを兼ね備えた生ぬるい人がいるように、どうしようもないくらいに生ぬるいゲームの腕前しか持っていない人間だっているのである。
それはもう、生まれつきであり仕方が無い。
悪いといわれりゃ、悪いのだろう。
それはもう、僕の書く日本語の質くらいに。
無敵のイントロが聞こえる。
無敵の歌を歌うぞ。無敵の気分に乗っかって。
おそらく僕は、多分死なないそうきっと、特別に驚異的な人だから。
永遠にブログを書き続けるし無限地獄に電源の入らないPCと戦い続ける。
つまり僕がなにもしないでいると、エンディングとは無縁の日々が続くのである。
だからこそ!
だからこそ僕はゲームをするのだ。
ゲームには必ずエンディングがあるから。
だからゲームが好きなのだ。
ハッピーエンディングがあるから。
ところがである。
僕はヌルゲーマーである。
なんか赤鬼を見事に倒しても、続くボスが倒せない。
やっているうちに物凄い嫌悪感に襲われてゴミ箱を空にした後に、「今ならやれる」と無敵の気分に襲われて再び進むと、今度は赤鬼が倒せない。
ちょっと待て、おい、待て。
この前倒したではないかと、物凄い嫌悪感に襲われてゴミ箱を空にした後に、「1度倒せたものが倒せないはずがない」と物凄い自信に襲われて赤鬼を倒してみたところで、やっぱりボスが倒せない。腹立たしい事この上ない。
エンディングはどこだ。
エンディングをよこせ。
太鼓とドラの響きを聞かせろ。
英語の苗字をゆっくり流せ。
ふざけるな糞ゲー。
糞ゲーめこのやろう。
世紀の糞ゲーめ。稀代の糞ゲーめ。雷鳴轟く糞ゲーめ駄目ソフト。
エンディングはどこだ。
エンディングをよこせ死ね。
他人を恐れて忌み嫌いながらも誰かを求め続けるように、ゲームは続く、どこまでも。
ヌルゲーマーの、エンディング。
2005年3月5日土曜日
300万本売れるシューティングゲームの作り方
マイクロソフト社の次世代OSロングホーンのスタート→プログラム→ゲームに、シューティングゲームを送り込む。
冗談ではなくて。
理屈はいいから、スタート→プログラム→ゲームに、シューティングゲームを3本送り込むんだ。それが一番の近道だ。ゲイツの横っ面を札束でひっぱたいてでも送り込め。ものを言わせろ。物凄くものを言わせろ。
面白いゲームが売れるとは限らない。
面白いゲームであれば売れるというような話ならば、パチスロゲームで50万本ならシドマイヤーズアルファケンタウリなどは8700兆8700億8700万8700千8700本だ。
どれだけ面白いシューティングゲームが存在し、発売されたとしても、ほとんどの人間が買わない。名作だろうが傑作だろうが凡作だろうが駄作だろうが買わない。
ほとんどの人間は、シューティングゲームを知らないからだ。
ゲームを買う人間の9割、あるいはそれ以上の人間がシューティングゲームに思い出も思い入れも無く、面白さも知らず、人によってはその存在すら知らない。
残りの数%の人が発売される度に群がったり散ったりしているわけで、奇跡的なまでに面白いシューティングゲームが登場しても、300万本どころか10万本も怪しい。
今時のポケモンだとかドラクエだとかFFだとか幻想などの一般大衆がSTGに触れる機会はというと、ナムコのローディングくらいのもので、それくらいの袖触れあいで思い入れや思い出を作り、STGというジャンルを認知するに至る人間はほとんどいないであろう。
ほとんどの人はSTGを知らずに生まれてきて、STGを知らないまま死んで行くのだ。
ゼビウスだとかグラディウスだとかいった黄金時代の近くにいた人と、なにか道を間違えてたいへんな事になってしまった大変な人だけがこっそり知るのがSTGなのだ。
売る、あるいはジャンルとしての一定の基盤を確立するには、物凄く真面目にロングホーンのスタート→プログラム→ゲームにシューティングゲームを3本送り込むくらいしか手は無い。
ピンボールやマインスーパがよくてSTGが駄目という道理は無いだろう。多分。
想像してみなよ。
アメリカ人もロシア人もオークランドの人もアフリカ人もパラグアイ人も長崎県民もみんなみんな、泣き喚いてファックとかシットとかオーマイガット。大陸という大陸のウインドウズというウインドウズのスタートメニューのプログラムで世界中の人民という人民が弾、弾、弾の雨あられに悲鳴を上げて逃げ惑う姿を!
最高じゃないか!
実際問題。
シューティングゲーム界の為にそのような飛び道具なロビー活動を行う団体も人間もいないわけで、現段階では馬鹿げた話ではあるのです。けれども、僕が立ち上がるからにはもう大丈夫です。
今からちょっと頑張ってお金とか貯めて、マイクロソフト社とかケツイ社とかアリカ社とかナオミ社とかそういうの全部買い占めて、ロングホーンに斑鳩とボーダーダウント、あと1こなにがいいかとかわからないくらいにシューティングゲーム事情に疎いんだけれど、適当に選んで送り込むので、ロングホーン発売までちょっと待っててください。
2005年3月4日金曜日
ヌルゲーマーのエンディング
ヌルゲーマーにエンディングは無い。
おい、その表題でその書き出しは無いだろう。
仰せの通り、その通り。たしかにこれは、ないと思う。
けれども、覚めない悪夢が無いように、何事にも終わりはある。
ヌルゲーマーに訪れる終わりを持ってヌルゲーマーのエンディングと称するくらいのゆとりが欲しい季節なのだ。寛容さを見せる時だ。違う違う違う違うそれはもとの姓は耿だったんだけれど幽州の発音ではなんか微妙だったので改姓した古くから劉備に付き従っててんでからてんでをとんずりまわってK州に入ったやいなやびじくそんかんと共になんか変な将軍に任じられてやがて益州に入った頃にはでっぷりと肥え太ろいて「いや~劉璋さん、仲良くやりましょう。ところで、ライブドア買いませんか?」
とか上手い事言って劉璋さんは劉璋さんで馬鹿だから、凄い馬鹿だから、
「いい若者がいるんだよ(@ - @!)」
とかまぬけな事を目を輝かせて言ったりしている内にいつの間にか益州乗っ取られちまって、ふーんだ、もうスカイマークエアラインで空飛ぶエアプレインだぜ。みたいに劉璋ぐれちゃって泣いてるし、ってそれは簡雍。今言ってるのは顔良。なんか三国無双4とかでも多分登場しないくらいの雑魚キャラ顔良。スティーブンスピルバーグの映画で喩えると何も悪い事してないのにコックに眠らされるコックくらいの雑魚キャラって、それはスピルバーグじゃなくてセガール!!おまえむかつく。ほんと。こういうくだらない事を書くから焦点がボケるのだ。思いっきり構成を考え尽くしてから書き始めた文章でどうしてこういう事やるんだ。ほんと書く事の無い時にこういう事やるならまだわかるけれど、どうしてこういうちゃんと書ける時に変な事をするのか物凄い疑問である。なんかこういう事やっている間にどういう事書くつもりだったのかとかもだんだん忘れてきたし。本当に。非常に腹立たしい。もっとちゃっちゃと書け。ちゃっちゃと。その昔、須磨水それはチャチャ、ラッコな。ラッコ。泳ぎの上手い狸みたいなやつ。しかも、須磨じゃなくて鳥羽。鳥羽な。鳥羽伏見の戦いの羽伏。とどのつまりってのは、トドの内臓って事で、物凄い栄養があるって事。嘘だけど。
嘘はいけない。
本当にいけない。
最近よく考える。
もしも僕の正体が真性引き篭もりではなくて、大江千里だったとしたら僕の書いた文章は僕の書いた文章としての価値を失うのだろうかと。
例えば僕が足しげく読んでいるブログの書き主が実は男子学生であったと判明すれば、僕は二度とそのようなブログを読みには行かないであろうし、他の全ても消え失せる。それと同じように、真性引き篭もりは僕と直接に繋がっているのだろうか。
繋がっていないとすれば、真性引き篭もりが遠い所へ行ってしまったようで寂く孤独であるし、繋がっているとすれば僕の価値は真性引き篭もりであるという一点だけという事になり、哀れだ。
僕は一体どこにいるのだろう。
平成17年3月4日の10時過ぎの週末の夜、僕はどこで何をしているのだろう。
十日前の夕飯のメニューが忘れ去られ消えてしまうのと同じように、十日前に何を考えていたかなんて覚えていないし、十日前に何を書いたかも覚えていない。
十日前の出来事なんて、何も覚えてなどいないのだ。
僕は考えて、悩んで、キーボードを叩いて、左親指と右小指の第二間接がみしみし鳴って、少しの頭痛に怯えているのに、10日後にはもう忘れ去られる定めであるのだ。
何も無かった事にされるのだ。こんなにもあるのに。ものすごくあるのに。
完全に消え失せてしまうのだ。跡形も無く、無かった事にされるのだ。
例えば今、この瞬間、僕が小刻みに両手首を震わせながら絶え間なくジャンプを続ける事により、交差二重飛びが出来るようになりつつあって、成ったならば、今の僕は交差二十飛びとして永遠に生き続けるのだろう。
けれども僕はもう飛べやしないし交差も二重も出来ないから、10日後の僕に残してやれるものは何も無い。10日を待たずして、忘れ去られ消え去られる程度の価値しか無い。こんなにもあるのに。ものすごくあるのに。
なんでこんなにも孤立してしまったんだろう。
人付き合いというものの正体は、損得勘定である。
「こいつといても価値は無い」
と思われたら最後、もう近づいて来ない。
着飾って、整髪剤をまぶして、笑顔を作って、月九を見て、1180円のステーキを食べて、豆から出来たビールを飲んで、いいよいいよ、気にしない、財布の中身をちらつかせて、相槌打って、うなずいて、同情して、NTTに大金貢ぎ、人の悪口張り巡らせて。
そうして、そうして価値を高めて貸し借りて、雁字搦めにしがらんで、孤立を避けるべきなんだ。「人付き合いなんてまっぴらだぜ。あーあ。」などとウェブ上で、都合のよい人付き合いだけを探し彷徨い求めるよりは、そっちの方がずっといい。顔を隠してまぬけ面するくらいなら、くだらない事をしっかりとやるべきなんだ。
けれども僕は真性引き篭もりであるからして、それをするにはもう遅い。
そのような局面は過ぎ去ったのだ。
今僕に出来るのは、「こいつといても価値は無い」と思われる事態を避けられるように過ごす事くらいなのだ。横の繋がりが無理ならば、縦の繋がりで埋めればいいのだ。
どうせ昔から横の繋がりなんて無かったのだから、それについては慣れっこだ。
けれども縦すら今はもう、襷を繋げなくなってしまった。
いつからだろう。どこで途切れてしまったんだろう。
DOTA allstarsがあった頃は、10日後へ向けて新たなノウハウ新たな戦術新たな戦略をしっかりと確かめて繋いで繋いで繋がってたのに。今ではもう、何も繋げないし何も残せない。
受け取りたいし、渡したいのに。
「今日しか無いと思え」
などという檄はでたらめの戯言である。
今日しか無い奴の行く宛なんて、せいぜい真性引き篭もりだ。明日があるから頑張れるんだ。君の笑顔が見たいから。違うだろ。そうだろ。てやんでえ。ちきしょうめ。
遠くへ遠くへ、もっと遠くへ助走をつけて思いっきし投げて、凄く遠くの見知らぬ場所の十日うしろの夜更けの門まで投げ飛ばせ。投げ飛ばすんだ。なにかを手にしているのなら。
何も手にしていないから、投げるものが無いから手当たり次第にブログに書くだなんて、そんなの無茶だよ。そんなの嫌だ。終わってる。
真性引き篭もりも真性引き篭もりもまっぴら御免をこうむりたいのだ。
僕が真性引き篭もりである事も、真性引き篭もりが僕である事も同じくらいに肩が凝る。けれども僕にはこれしか無いのだ。
他に手立てが見当たらないのだ。
十日前の夜の10時にブログ投稿があったのならばもしかして、どこかの誰かの遠くの人が、それを拾ってくれるかもしれない。読み手のいない手紙だって、ガラスの瓶に詰め込めば、メッセージインザドリームだ。
けれども僕はそんなもの繋げない。
「僕は真性引き篭もりです」
なんて、伝えた所で何になる。
伝えられた方も困るだろう。
だから僕は嘘を伝える。
ありえもしない事を伝える。
壮大なスケールの壮大な虚像を壮大な文章で荘厳に伝える。
例えば、「僕は実は真性引き篭もりではなくて大江千里です!」とか書く。
しっかりと書く。
僕が実は真性引き篭もりでは無かったという事により、どこかの誰かの僕への評が地に落ちたって、そんなの知らぬの焼き蛤だ。
僕は実は真性引き篭もりではなくて大江千里です!
「なんだよ~真性引き篭もりじゃなかったのかよ~嘘つきめ~」
嘘でした!
「ちぇっ、つまんねーの。」
ごめんなさい。
「じゃあさー、なんか歌えよ~ひゅ~るりーだっけ?なんかあんだろ~」
いや、歌いたいのはやまやまなんですが、僕はそのひゅーるりーだかとんでとんでーだかの大江千里じゃなくて、蘭学者の大江千里だから、歌いたくても歌えません。あのー、もしよろしければ、蘭学チャットとかそういうのであれば朝まで付き合いますよ。ほんと物凄く蘭学とか詳しいので。グーテンベルグクライフファンバステンユーノウ?チェルシーノサイドバックノヒト、フィリップスアイントフォーヘン、ルネッサンスー、ミンナノッポ、ボンヤスキー、ボンヤスキー、クライフェルトークライフェルトークライフェルトーあー、タイマー、フウシャー、チューリップー。
おい、その表題でその閉めは無いだろう。
仰せの通り、その通り、たしかにこれはないと思う。
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