2005年4月8日金曜日
2005年4月7日木曜日
2005年4月5日火曜日
ブログ読者はブログを読んでいないという事実
ウェブ上の文章を読む人間は存在しない。
インターネットのウェブサーファーはウェブサイトを閲覧、流し見しこそすれ読みはしない。それはブログに投稿された文章や、投稿につけられたコメントやトラックバックであっても同じ事である。
誰も読んでなどいないのである。
それは悲しいし、切ない事実だ。
けれどもそれはそれでよいのだと感じる。
読み取られたくないような事柄私信を、こっそりひっそり吐き出す事で得られる快感を楽しんでいるブロガーは多い。「うはははは!これわかんねーだろー!」というものを。
それは読者への裏切りであり、背徳の優越を感じさせるに十分だ。
けれども同時に、誰かに読まれたいとも思っている。
1から100を読みとってくれ!と、心のどこかで願っている。
そのバランスが悩ましい。
どれだけ丁寧に書いても100人中100人がその通りに読んでくれるわけではないし、どれだけデコイを並べても、発見され見透かされてしまう事もある。
もし、読まれずスルーされてしまった事柄や、
誤った受け取られ方をしてしまった投稿に対して、
「そうじゃないんだ」
と言おうものなら、その「そうじゃないんだ」自体が違う読み取り方をされ、延々と無意味な誤読のミルフィーユが折り重ねられてしまう。
なにせ、ブログ読者がウェブ上の文章を読まないように、ブログ著者もウェブ上の文章、つまりはコメントやトラックバックを読んでいない事がほとんどなのだから。
ムジュンだ、撤回しろ、説明しろ謝罪しろと、もう滅茶苦茶に炎上だ。
それはあまりに非生産的で疲れる作業で、流し合うしか無いのだろうなと思う。
話せば解るは嘘なんだ。
どこかで誰かが書いていた(#1)のだけれど、ブログは投稿それぞれが独立したものとして扱われてしまう傾向にある。投稿自体が読まれないのだから、当然にして流れ文脈前後の投稿というものも読まれない。
多種多彩な話題を扱ったブログであれば、それがよい方向で機能する事もあるのだけれど、連なり書かれたブログの場合は大変だろうな、と思う。
当ブログの例で言うと、言葉遊びに対して真顔で訂正を求められたり、「こちらがチョキを出したので、グーを出したら勝てますよ!」と説明した後にグーーーーーって叫びながら目の色変えたカレーパンマンが突っ込んできたのを目の当たりにして頭を抱えたり、青い人に想定外のゲレロンをされてあたふたしたり、したりして、本当に難しいものだなと感じた。
では僕が人様のブログをちゃんと読んでるのか?
となると、それもどうやら疑わしい。
明らかに都合のよいカテゴリ-だけを何度も何度も読み返し、よろしくやりたいよろしくやりたいとただそれだけを思い続けているわけで、真性引き篭もりhankakueisuuという読者は書き手にとって物凄く迷惑心外な沈黙のオーディエンスなのだろうと思う。
その疑い、つまりは「誰も読んでくれていないのかもしれない」という不安感と、諦め漂う徒労感を避ける為にブロガーが行うべき事はだだ1つ、読者を信じる事だろう。
コメント欄にも現れず、トラックバックも送ってこない、インターネットの片隅で、呼んでくれている人がいるんだという事を信じて、信じて書くしかないのだろう。
それは100万/dayのウェブサイトでも、3/dayのウェブサイトでも同じ事なのだろうと思う。
ウェブサイトにおける一番の読者は筆者自身である。
どんな文章であれ、最低でも筆者自身という一人の人間はそれを読んでいるのだから、少なくとも一人は読んでくれているんだから、それでいいじゃないか、と思う。伝わったら伝わったで喜べばいいし、伝わらなかったら伝わらなかったで喜ぶべきなんだ。
「0人じゃない」って事実だけでも十分に素晴らしいと思うよ。
そりゃあ、「1人じゃない」って方が素晴らしいのかもしれないけれど。
アイプロミスユア。というわけでもないけれど。というわけで。
僕は読者裏切るし、やりたい放題やるけれど、僕は貴方を信じてる。
なにより僕を安堵させる事実は、真性引き篭もりの読者は真性引き篭もりなんかよりもずっと素晴らしく、よっぽどまともで信じるに価する立派な人間なのだろうという事だ。そういう方々が誤読にしろ一瞥にしろ、当サイトをクリックしてくれているという事は、本当に有り難いと思う。それはとても幸せで。
何一つ伝わらなくても構わないと思う。
すれ違ってばかりでも、どこかで誰かがそれを目にして満足するのなら。
傷つけ馬鹿にしあうのも、1つの癒しの形なのだ。
少なくとも、ウェブ上では。
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ブログと日記/居室待機
言葉遊びに対して真顔で訂正を求められた/幸せは罪である
カレーパンマン/カレーとご飯の神隠し
青い人/ミッドナイト・ホームレス・ブルー Plus One
2005年4月4日月曜日
花粉症(><;)
動かない。
体が動かないのか、頭が動かないのか、心が動かないのか。
何が原因なのかはわからないけれど、指が動かない。
ブログが書けない。
インターネットエクスプローラとテキストエディタの間をマウスカーソルだけが飛び回り続けている。なにも変化しない。
頭の中では序文書き出し投稿内容、段落フレーズ締めの一行といったものが生まれては消え、生まれては消えを繰り返している。けれども、それらは一行としてブログに変化してくれない。繰り返される沈痛さの波の原因を体調に求める軟弱さ。
感情と、考えと、思い出の全てが異物感となって体中を駆け巡っている。
それらを駆け巡らせているのは僕という人間の中で唯一生真面目さを所有している機関であり、伸縮だけを繰り返す心臓である。少し油断すると、穴という穴から間欠泉、僕というものの全てが体外へ輩出されてしまいそうな恐怖を抱く。一時の油断も許されない。
花粉症だとか春の風邪とかそういう奴だろう。
悪いのは体調不良だ。
僕は何も悪くない。
物凄く正しい。
あと2時間も経てば、完全な僕というものを取り戻せるだろう。
体も頭も心も、普段どおりの活気を取り戻し、やりたい放題ブログれるだろう。
そうなったら、あと2時間ほど経過したら、物凄いブログを書いてやる。
蒸散させて焼き付けて、椅子の布の染みにしてしまうくらいに強烈な奴を。
正しいやつを、凄いやつを。
2005年4月2日土曜日
エイプリルフール
とても悲しい。
その投稿日が4月の1日であるというだけで、その全てが疑われてしまう世界が悲しい。
何を書いても疑われ、何を書いても嘘になる。
インターネット仮死。
ブログが死ぬ日だ。
なにが面白いのかわからない。
そんなに嘘をつきたいのならば、暦を免罪符にする卑怯な後ろ盾を用意せず、自分自身の責任で世界の全てを欺くべきだ。
無責任すぎる。
迷惑だ。
そりゃあまあ、僕は疑われるに値するのだろう。
不誠実な文章を書いてきたし、誰にもわからない事柄を誰にもわからないように書いてきた。書いた本人にすら伝わらないかもしれないという恐怖を抱きながら投稿ボタンを押したのは一度や二度の事ではない。
けれども誠実にやってきたし、責任は全て僕にある。
それが嘘や大げさや紛らわしいであったとすれば、悪いのは僕だ。
責められるべきは真性引き篭もりhankakueisuuだ。
ところが、その投稿日が4月1日であるというただそれだけの理由で、僕は免責され、4月1日という暦が一人断罪される。
僕は投稿するだけの人である。
それがどのように読まれようと、受け止められようと、誤読誤解をされようと、それに対して干渉するつもりはないし、文句を言える立場に無い。
けれども、僕の投稿で僕が放置され、4月1日だ4月1日だと受け取られるのは心外である。
真性引き篭もりの文章がくだらないと判定されれば嘲笑われるべきなのは僕であり、真性引き篭もりの文章が駄目であると判断されれば責め立てられるのは僕であり、真性引き篭もりの文章が意味不明であると判断されれば罵倒されるのは僕なのである。
それが嘘であると読まれれば、責められるのは僕であるべきなのだ。
僕はそこまで卑怯じゃあない。
罪無き暦を責めるのはよせ。
いけない冤罪。
真性引き篭もりの投稿に対する罵倒嘲笑鼻笑い、軽蔑蔑視罵り反射の全ては僕に向けられるべきであり、それを暦に向けるなどというのは全然違うのである。
エイプリルフールなんて糞っくらえだ。
死んでしまえ。
荒らしは放置で、
何も考えずにただその瞬間、適当に思った事を書き残すというのは物凄く本位では無いのだけれど、どうしても書きたくなってしまったので投稿してしまう事にした。
僕が見るウェブサイトは大きく分けて次の3つである。
1つは、ニュース。
2つめは、ゲームサイト。
3つめは、よろしくやりたいサイト。
ニュースサイトは別として、ゲームサイトやよろしくやりたいサイトは物凄く末端の個人ウェブサイトである。
そのようなウェブサイトにある日突然チョンだとかチャンコロだとかいう文字列が現れては酷く沈む。一体、どうすればよいのだろう。
大昔、僕がまだインターネットというものを知らなかった頃、世界のどこかの国で不況で将来図がぼやけた若者が右傾化してどうこうだとかいう新聞記事や、極右政党が5議席確保してどうだとかいうニュースを聞いたりしていたけれど、それは現実ではないお伽の国のトロルであった。
それが気がついたら自分の周囲380度を包囲していた。
誰かが別に中国を信仰して朝日新聞を崇拝しようと、その逆であろうと、どうでもいいし関心は無いに等しい。ちゃかすつもりもなければ彼らの人生や考え行動というものに文句を言うつもりも干渉するつもりもまったくない。
とはいえ、それとは別に、よろしくやりたいサイトの2番目でチョンだとか強姦だとかそういう文字列が踊っているのを見ると、よろしくやりたいは覚めなくても萎える。別に左とかじゃなくて、単純に物凄く萎える。
だって、RIR6?さんが行く所まで行っちゃった左の人だとかそういう終わっている事実は理解出来るし、一部の方々が必死すぎて物凄く終わっているのも理解出来る。
けれどもそれとこれとは違うだろう。
なんというか、どうなんだろう。
そもそも、進級してクラス替えがあった時に同じクラスになった好きだった女学生が泣きだしたのとか、ってなんでこんな事書いているのだろう。まあ、とにかく悲しいという事である。
彼ら、即ち都合のよい仮想敵というものを捏造してレッツゲレロンする人々を指して、馬鹿だとかあほだとかまぬけだとか、より正確に言うと思慮が足り無さすぎるだろう、といった激昂に近い感情もあるのだけれど、それは別としてとにかく悲しい。
おそらく、真面目なサイトの真面目な人々、つまりは識者と言い換えられるような方々は1日15hitのネットゲームブログなんて読まないだろうし、場末の女学生の写真も赤裸々話も無いブログをよろしくやりたいと嘗め回す事も無いだろう。
一生目にする事のない無縁のインターネットなのだと思う。
そういう方々は「実に由々しき事態であるw」とか一言で終わりだろう。
けれども、僕は住人であり読者である。
ブックマークから削除してもう読まないでおこうと決めて忘れ去ろうとしてみたところで、切り株を覆うとりもちのような違和感が消える事は無い。
本当にわからない。
というか大学生の知性というか思考回路のシステムは一体どうなっているのだろう。国立大学の女学生がどういう日常を過ごせばチョンだとか強姦ビザだとか言い出すインターネットなのだろう。壮大なネタなのだろうか?とかそういう疑いすら持ってしまうくらいに理解が出来ない。
人間というものを過大評価しているのかもしれないと思う。
過大評価して幻想を抱いていたいのかもしれない。
自分が人間であるという点を抜きにしてもだ。
僕は多分おそらく人間というものを。保身の為かな。
どのような間違った事柄であっても、それなりの手続きが踏まれていたのならば距離を保った1読者としては構わないと思っている。1ブログ1ウェブサイト1個人としては、構わないと思う。
それを正当化する為の吹けば儲かる桶屋だとか、ねじ曲げられた詭弁の理論武装だとか、極端な話直接的な1例としての実体験だとか。
けれどもそういったものすら無しで、明らかに人生バラ色、少なくとも僕よりは遥かに充実した青春を送っている明らかに僕よりも頭が良くて満ち溢れた時間を過ごしている人間が、どうしてノーモーションでそういう投稿を行うのだろう。いくらなんでもボークすぎる。野球コメントをつけてくださったりしてる人達を意識して野球に例えてみた。すっげーファンサービス心旺盛だ。凄い媚び。いや、まあそういう手続きすら無しであっても別にどうって事はなく、いいんだけれど、よろしくやりたい女性アイドル(18)がダンボール魔だったくらいの勢いで朽ちる。
こういういかにも思った事をそのまま書きましたな投稿を行ってしまうのは望ましい事ではないのだけれど、これはどれだけ考えてもまともな文章になど出来ないであろうし、まあ率直に書く事に意味があるのかもしれないといったような気もするから書いているので、たまにはこういうのも許されるのだろう。許されないならば、許されないで構わないし。わからない。好きにしていいとは思ってないけど好きにする。
とにかく、右だとか左だとか人権だとかあるいはそういうのを抜きにした問題だとかを真面目に論じている方々は高台の上でやっているわけで、わかりやすく言うと住んでる世界が違うのである。
で、「そういう馬鹿はほっとけばよろし」という、ウェブサイトにおける「荒らしは放置で、」みたいな大前提の元で彼らは討論主張を行っているわけである。
そのほっとかれたブログ、放置されたインターネットのウェブサーファーである僕は、どのようにすればよいのだろう。放置され無視される悲しみを知っているから余計に辛い。重ねると住む世界が違うのだというだけであり、階層と境目と敷居のあるインターネットだという事なのだろうけれど。数字の1か、ノイズか誤差か。
両眼が干上がる湿度無風。
mixi招待メールという恐怖
「mixi招待メール公害」と表題をつけようと思っていた。
しかし、迷った。
世間一般ではmixi招待メールというものは幸せなイベントとして認識されており、それを指して公害と言いきるのは幾らかの問題があるように思えた。
そこで、正確に書く事にしたのである。
毒があればおもしろいというものではないのだ。
まず、mixiとは何かという事について、mixiというものをご存知の無い方の為に説明しておこう。mixiとはgreeみたいなやつだ。では、本題。
「mixiとは何か?」
というのは、散々mixi近辺では語られている所である。
mixi外の人間である僕が書ける事は何一つ無いし、書くつもりも無い。
ケチをつけるつもりなどまったくないし、批判するつもりもまったくない。
僕とは無関係な世界の無関係なインターネットだからである。
例えば僕がmixiというものを書くという事はベルギーのブリュッセルのチョコレート職人が塩と砂糖を間違えた事に対してあれこれ捏ねくり書くようなものであり、荒唐無稽である。
では、何について書くのかというと、mixi招待メールについて書くのである。
ストレートな表題の通り、mixi招待メールにより生じる恐怖を書くのである。
「mixiとは何か」というものがよく語られているのに対し、「mixi招待メールとは何か」という事について触れる人間がまったくに等しい程いない理由としては、mixi招待メールというものに対して、誰もが「ラッキーイベント」という共通の認識を持っているからなのだと思う。
確かに、閉じたコミニティへの招待状というのは貴方が特別な存在だと認識されている事の証明であり、晴れてミクサーになれるイベントである。
しかし、僕にとってのmixi招待メールとは、そのようなものではない。
インターネットの仲間からの幸せへの招待切符などではない。
恐怖である。
まさか、自分自身がmixi招待メールなどというものに頭を抱える日がやってくるとは想像もしていなかった。いつの頃からかポツポツと「mixiどうですか」みたいなメールが入るようになり、「返信する」と「返信する」の二択を強いられるハメに陥った。
僕は彼らの意図がまったくわからない。
mixiは招待した人が記録されるらしいから、恩を売りたいだとか、同じコミニティに引き込みたいのかな、といった印象を受けるものもあったのだけれど、彼らはmixiに誘うのは良い事であると確信しているようである。
悲しい。
ありえない。
繊細さの欠如である。
招待メールミクサーはその思い込みを今すぐ取り払うべきだ。
mixi招待は誰もが待ち望む福音であるという思い上がりを捨て去るべきだ。
一部の人間、それは即ちmixiのような濃厚なインターネットと相容れない存在である人間にとって、mixiへの招待メールとは公害であり、迷惑以外の何者でもない。
心労だ。
消耗だ。
物凄い負担だ。
僕はインターネットのウェブ上で、誰とも係わり合いになりたくないのである。
それくらい、ブログタイトルを読んで気がつくべきだ。
ウォークラフトというネットゲームで僕は100以上ものアカウントを作成し、誰かに褒められたりフレンドリーな対応をされたりクランに誘われたりというアカウントを片っ端から削除してきた。それは色々あった末に辿り着いた唯一にして正しい結論であり、僕自身の保身の為でも相手方への配慮でもあった。
個人対個人のコミニケーションを取れない人間、また、対等なコミニケーションを取るに値しないような軽薄な人間にとって、濃厚な個人と個人のインターネットというものは、決して相容れられないものなのである。
なのに、というか、つまり。
「mixiどうっすか?」と言われても物凄く困る。困り果てる。
なぜ困り果てるかというと、彼らはよかれと思って近づいてきているからである。
その能天気さが果てしなく恐ろしい。
彼らは真性引き篭もり上にあるメールアドレスをコピーし、ペーストし、あるいは書き写し、メーラーを立ち上げて僕にメールを送りつけてきた熱心な味方なのだ。
彼らは「真性引き篭もりhankakueisuuの味方」というものを自称しているに違いない。僕からすれば究極の迷惑メールの発信者でしかないのだが。
上澄みという言い方は非常に失礼で不適切ではあるものの、彼らはそれだけのかなり熱心な真性引き篭もり読者であり、誠意に欠く返信をしてしまうと僕の人間力が疑われてしまう。
いや、人間力などまったくないし、まったく無いという事は既に白日のバレバレなのだけれど、無碍に扱ってしまうと優れた人間力の素晴らしい人格者であるを偽りたいという欲望を満たす事が出来ない。
だからして、mixi招待メールが来る度に、極度に緊張し、そわそわと落ち着かなくなる。
お断りの返信メールを書かねば書かねば書かねばと、最高の友達だと思っていた幼馴染に本気で告白された女学生(実は彼氏持ち(自営業者、×2、47歳))のように動揺し、日常生活から平穏というものが奪われてしまう。
返信の文章を書く為に立ち上げたインターネットエクスプローラの前で、キーボードに触れる事すら出来ずに悩み続けるハメに陥るのである。
mixiに誘いに来た彼らを失望させたくないし、その思いを裏切りたくは無い。このような僕に手を差し伸べてくれた人間というものをがっかりさせたくはないのだ。けれども、僕は日本語が不自由な人間である。書きたいと思った事を一度として書けた試しは無いし、伝えたいと思った事を正確に伝えられた事も無い。mixiへの招待を断るに適切な文章といった難易度の高い文章を書き通せるはずがない。
どう努力をして捻り直進説明しようと努力した所でただ長くなるばかりであるし、どれだけ長く書いたとしても伝え説明する事など出来ないのである。
であるからして、これ以上mixiへの招待を断るという非常にやっかいな作業に悩む事なく過ごせるようにと、このような文章を投稿するに至ったのである。
mixi招待メールは謹んでお断り申し上げますので、よろしくお願いします。
失望させられてばかりである。
誰とも係わり合いになりたくないとかいうのなら、なんでブログなんか書いているんだよ!といった突っ込みには「アマゾンアソシエイトで稼ぎまくる為です」との事です。
僕がブログというものを書き続けている理由はアマゾンアソシエイトでがっぽがっぽ儲けまくるという唯一にしてたった一つの目的の為でありそれがたったひとつ。第二に、「頑張ってください」とかそういうくだらないメールを送ってきた人間を片っ端からとっかえひっかえだまくらかして連れ出してよろしくやりまくるという目的の為であり、物凄く欲望に忠実な権化の出会い系ブログなのである。
つぐみはどこにいるのか
答えは1つである。
つぐみはいない。
登場人物を整理しておこう。
・つぐみを探す母親ブロガー
・つぐみを探す母親に協力するブロガー
・つぐみを探す母親に文句を言うブロガー
それが全てである。
つぐみはいない。
我が子が突然いなくなった時の気持ち。
それは普遍的なものであり、誰しもが簡単に理解出来る。
見つけたいと思うのが親の愛であるし、
それを手助けしたいと思うのが人の心である。
我が子が「行方不明」になった。
それを探す、藁をも縋る、ブログが出来た。
それは、瞬く間に広がった。
これまで、子供が「行方不明」になるというものに対しては色々な術が取られてきた。
まず、「行方不明」の原因を探る。
情報を調べ、その上で公が判断を下し、どのような方法を取るのかを選択する。
それらは慎重に行われてきた。
なぜならば「行方不明」という問題は、デリケートな問題だからである。
それが誘拐であったならば、公にしてはいけない。
それが誘拐で無い場合、色々なケースが考えられる。
その中で公にされるのは、以下の2つ。
・なんらかの事件に巻き込まれたと考えられるもの。
・事故にあったと考えられるもの。
の、2点である。
家出というものは、そこには含まれない。
なぜならば、家出というものの問題は単純化出来るものではなく、公の中の公にして探しあてるのに相応しい行方不明では無いからである。
全てが省かれた。
隠され、隠蔽された。
・行方不明になった娘を探す母親ブロガー
一人だけが歩いて行った。
愛だ。
これは愛だ。
助けるべきだ。
愛を助けるべきだ。
ブロガーが群がった。
愛だ。
これは愛だ。
この母親を助けるのだ。
母親の愛を手助けするのだ。
素晴らしい事である。
娘の行方を案ずる母親。
案ずる母親を案ずるブロガー。
どこにいるのか。
いないのだ。
想像力の欠如、という言い方は相応しくないのかもしれない。
サラリーマン高校生社長専務副社長市民大学生主婦老人腐女子、全てのブロガー。
彼らが理解しやすいものは、「行方不明」の娘を探す母親である。
物凄く理解がしやすい感情であり、行動である。
彼らが理解出来るのは、家出したいと漏らし続けた小学生ではない。
そのような一般的ではない感情というものをまず念頭に置いてブログを読む人間などいないという事なのだろう。ブログというものを行方不明の人助けという崇高な目的の為に使用する、理知的で模範的で尊敬されるべきブロガーにとっては、存在していなくても構わないくらいの無価値な存在であり、理解出来ぬ感情理解出来ぬ行動想像もつかない人生なのである。
そりゃあ、まあ、そうだろう。普通じゃあない。
それら広め広まる絵面を指して人間性と繊細さの欠如と言うのは簡単であるが、人間とはとうよりブロガーとはそのようなものなのであろうと思う。善良なるブロガーによる善良なエントリーと善良なトラックバックによる善良な勝利。これは良い事なのだ。
行方不明の娘を探す母親がブログを書いた。
ブロガーの手で日本列島に広まった。
行方不明の娘が見つかった。
つぐみはどこにいるのか。
つぐみはいない。
本当に今までどうもありがとう本当にごめんなさいさようなら本当に閉鎖
なんか投稿しようと思っていた投稿の中の2行か3行が巡回先ともろ被りな内容であった事が悲しく切なく、本来は一昨日行っていたはずであったその投稿を今日にまで遅延させた頭痛というものに激昂したので頭痛というものを分類してみた。
「頭痛」
頭蓋骨の中央で、除夜の鐘が叩かれている状態。
脈拍よりも遥かに遅い感覚で、ズーン、ズーンと頭全体に来る。
頭痛薬を飲めば、15分程度で治る。
たまに、もやのような違和感が残るが、ゲームをしたりブログを書いたり、delphiをいじったりというような事をする妨げになるようなものではない。
「圧迫」
頭痛の逆バージョン。
外側から押しつぶしに来る。
どこに痛みがあるかわからないので、堪えづらい。
だいたい、頭の上半分が痛い感じ。
頭痛薬は確実な効果が期待出来るので、飲めばまず大丈夫。
「眼球」
眼球からエコーが広がり続けるが、頭全体に拡散はせず、目玉と目玉の周囲がピンポイントで痛い。
目を開けていられないのが最も辛く、思わず眼球を指で握り締めてしまうので、眼球が疲労して物凄く体力を消耗してしまう。その結果、目にゴミが入ったような違和感が残ったり、視界がずれたりというのが長く残るので、非常に嫌。
向こう2日は呼吸をするのも疲れるくらいに体力を失い、回復するのに時間がかかる。
ゲームやブログ、何かを考えたりする等は一切出来ない。
シャープペンシルも持てない。
「額の裏側」
眼球の4センチ上で、何者かが額を蹴ったり押したりしている状態。
ドドドドドドと蹴ったかと思えば、嫌がらせのようにさらりさらりとなで続けたり、というものが不定期に繰り返され、痛いというよりはうざったい。
目蓋の上から指を入れて、ツンツンしながら脳みそを揉めば収拾出来る。
来てからの頭痛薬は効かないのだが、予兆が来た段階で頭痛薬を飲めば完全に押さえ込む事が出来る。しかし、頭痛薬があと200くらいしか無いので予兆の段階で飲むのは精神的に相当な負担となり、飲み損ねてしまう事が多い。
ゲームやdelphiは出来るが、集中力が妨げられるので複雑なものは出来ない。
思考能力もかなり低下する。
「毛根」
髪の毛が痛い。
髪の毛が揺れると、頭皮全体が焼けるように痛い。
頭の内側はまったく痛くないので、楽といえば楽なのだけれど、耳たぶにまで降りてくる事が多い。耳たぶまで降りてくると相当辛く、一度収まってもまた第二第三の波が耳たぶにおしよせるので、物凄く耳たぶが消耗する。
横になると悪化するので、横になれず、眠れない。
長い時は100時間くらい続き、強引に寝入って目が覚めてもまだ続いている事が多い。
頭痛薬はどの段階でもまったく効かない。
一週間もすれば収まる、的な考えでやる。
痛みの波があり、緩やかな時間帯であれば何でも出来るが、すぐぶり返すので1時間が限度。ゲームをするには厳しい。
「こめかみ」
こめかみで爆竹が爆発し続ける。
脈拍よりも高速でバッバッバッバッバッバッバッバッバッと来るので、何もかも出来ない。
倒れるしかない。
基本的に、眠る事に成功したら、おきた時にはマシになっているので、寝るのがよい。
頭痛薬は、緩和効果はあるものの、完全に収まるのは稀。
「後頭部」
頭の後ろの弱い所をギューーーーーーーーンと、つままれる。
1時間以内に治るのだけれど、来た時は物凄く厳しい。また、強烈な吐き気を伴う。
他の頭痛に引き起こされたり、ゲームで死んだりして無気力になった時に油断すると来る。気を張り詰めていたら来ないので、注意さえ怠らなければ大丈夫。
頭痛薬はまったく効かないが、あまりにも痛いので効かないとわかっていても消費してしまうというアイテム在庫に厳しいタイプの頭痛。
「鼓膜、頬骨」
変な頭痛。
左鼓膜にドグン!と来て、両方の頬骨が共鳴してドスン!。
10分くらい休んで、またドグン!ドンドン!と来る奇襲タイプ。
油断した頃に来るので、思わずウゥゥゥと呻いてしまう。
けれども、頭痛が来るのは一瞬なので、次の瞬間にはもう完全に収まっている。
不愉快は残るものの、30秒もすればそれも消えるので何でも出来る。
だいたい、このくらい。
けれども、頭痛はブログやらインターネットとは違い、僕を傷つける事は無いので、僕を救ってくれるのは頭痛だけであると言い換える事も出来るのであろうと思う。
ゲームなどというものは僕を消耗させ傷つけるだけであり、ブログなどというものは僕をボロボロにして搾り取るだけである。なんかムカついてきて2度もまったく同じ内容の投稿をするはめになったし。なんだこれは、同じ題材で延々と読み続ける句会か何かか。ちきしょうめ。腹立たしい。クロウルとかクロウルとか色々と忙しいのに。あと頭痛とか。
だからして、もう一生ゲームなどやらぬし、真性引き篭もりも今この投稿を持って更新を終了して明日明後日頃には閉鎖して削除して未来永劫インターネットなどしない。僕がブログに何も出来ないのと同じように、ブログは僕を救ってはくれないのだ。最も正しい選択であり唯一のAntwortだ。くだらない。長らくのご愛顧ご声援ご街宣まことに感謝しておりました。本当に今までどうも構っていただきありがとうごめんなさいさようなら
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