眠れない夜を超えて辿り着いたのは新しい朝だった。眠れない朝だ。
眠れない夜は辛くない。眠れない夜は苦しくない。そんな夢物語は終わってしまった。眠れない夜は辛い。眠れない夜は苦しい。なぜならば、僕にはもはやゲームが無い。ゲームにときめく心が無い。ゲームは全ての夜から僕を救ってくれた。けれども、もうそんな夜は来ない。二度と来ない。ゲームはもう助けてはくれないし、僕を救ってもくれない。今の自分がゲームから受け取れるものは、ただ罪悪感だけである。罪の意識と、悲しみと、憎しみになりきれない呆れの感情だけである。一秒でもゲームをプレイしようものなら、「それは間違いである」と正される。一秒でもゲームの事を考えようものなら、「それは間違いである。」と律される。幾つもの眠れない夜を乗り越え、幾つもの眠れない朝を追い返したこの僕が、その経験の中で得た結論が、それであるらしい。即ちゲームは間違いである、という事だ。
僕は知った。遂に知った。1つの物事を知った。間違いを知ったのだ。ゲームは間違いである。そしてそれに頼り縋って夜と朝とを乗り越え続ける事もまた、間違いである。僕は間違いたくはない。もう1つも間違いたくはない。何故ならば、間違いは悲しいからだ。間違いは、辛いからだ。間違いは憎しみしか生まない。だからこそ僕はもう1秒たりとも間違いたくない。正しい時間に眠り、正しい言葉でググり、正しいブログを読み、正しい夢を見て、正しい指使いでキーボードを叩きたい。なぜゲームが間違いであるのかは知らない。知らないけど、それは自明の理なのだ。僕にとっては自明の理なのだ。もしもゲームが間違いであるという事を理解出来ない人間が居るとすれば、その人間はただ疎かである。自明の理である事実を理解出来ないような、軽くて薄っぺらい人生しか歩んでいない不知の人なのである。ようするに、馬鹿であり、まぬけであり、あんぽんたんなのだ。脳味噌がおてんとさまなのだ。
僕はゲームを知っている。ずっとゲームをしてきたし、ゲームの事ばかり考えてきた。それ以外の事は何もしてないし、それ以外の事は何も考えず生きてきた。つまり、僕が知っているのはゲームのことと、そしてそのゲームが間違いであるという事だけである。何がどう間違っているかはしらない。どこがどのように間違いであるのかはしらない。しらないけれど、百戦錬磨の僕によると、ゲームは明らかに間違いであるそうだ。ゲームをしてはならないし、ゲームの事を考えてもいけないそうだ。僕は必ずしもそうであるとは思わないけれど、僕自身が「ゲームが間違いである事は自明の理である」と言っているのだから、きっとそうなのだろう。あれだけゲームをしてきた人間がそういうのだから、きっとそれはそういう事なのだろう。
本当にゲームは間違いなのだろうか。悪を探し求める正義の心が犯人捜しに奔走した結果、手近にあった唯一の存在であるゲームというものを悪玉に仕立て上げて、それを間違いであると決めつけて糾弾しているだけなのではなかろうか。本当はもっと悪いものが何か存在しているのに、そのもっと悪いものから目を逸らし、もっと悪いものを大切にして守り抜く為にゲームという偽の真犯人をやり玉に挙げているだけなのではなかろうか。だとすれば何が悪いのだろう。何が間違いなのだろう。もしもゲームが正しくて、ゲーム以外の何かが間違いであるならば、僕は何を恐れ、何を憎めばいいのだろう。ゲームが憎い。ゲームが嫌いだ。ゲームは間違いである。そして僕はゲームに毒されている。間違いによって間違いに染められてしまったのだ。全てはゲームのせいだ。たとえばこのエントリーだって、ゲームについて書こうだなんて気持ちは微塵もなかったのに。
新しい朝が来た。正しい朝だ。間違いの無い朝だ。もう二度と間違いは起こさない。間違いだけを積み重ねて生きてきたが明日からは違う。正しい事だけを積み重ねて生きる。けれども、僕は正しい事について何一つ知らない。正しい事をただの1つもした事がない。明日から正しい事だけを積み重ねて生きる為に、何が正しいかを知らねばならない。正しい事を探さねばならない。最低でも1つ、たったの1つでも正しい事を見つけるまで、眠るわけにはいかない。決して眠るわけにはいかない。微睡む事すら許されない。正しい事が見つからない。眠るわけにはいかない。新しい朝が来た。間違いの無い朝だ。新しい夜が来る。眠れない夜が。
2011年11月18日金曜日
2011年11月17日木曜日
勝った勝ったまた勝った。
眠たいのになんとなく眠れなくて久しぶりにdota allstarsをやったらやたら勝ちまくった。負けたら寝ようとか言いながら14連勝していた。2~3ゲームくらいした段階ではなんでdota allstarsなんかやってるんだろうという罪悪感が凄かったのだけれど、10ゲームすぎたあたりから意識が朦朧としてよくわからなくなった。この朦朧が欲しかったんだろうと思うと悲しい。意識は不明瞭であれば不明瞭である程良い。全ての残念な気分を上回るくらい疲れていればなにもわからない。ここまで来るとちっとも悲しくないし、ちっとも悔しくないし、全ての事が痛くも痒くもなくなる。とりあえず全てアンインストールしたのでもう不明瞭さは手に入らない。明日はどんな日になるんだろうか。見通しは立たない。わからない。
2011年11月15日火曜日
2011年11月12日土曜日
ミゲルアンゲルがSK Gamingに!
miGGel
AngeL
linklink
calculus
ryze
ミゲルアンゲルがまさかのSK
全員デンマーク人のチームをskが獲るというのは全く予想していなかった。一番好きなプレイヤーが一番好きなチームに入るという奇跡。好きでも何でもないsweetみたいなプレイヤーでもSKに入れば全力で乗ってきた僕には願ったり叶ったりの奇跡的な展開。
これでLodaとミゲルアンゲルの再合流というありえない未来予想図も現実味を帯びてきた。Lodaとミゲルアンゲルは酷い喧嘩別れをした、ってわけじゃないしdotaシーンにおいてはLodaと言えばSK、SKと言えばLoda。このメンバーで世界と戦うのは相当厳しいので、どうしてもLodaが欲しい。ミゲルアンゲルと合流の可能性が現実的に残っている在野のビッグネームって、Lodaを除けばインアクティブかlolの人しか居ない。しばらくはこのままとなると、プレイヤー性能的にソビエトの背中が遠い。あまりにも遠い。
AngeL
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ミゲルアンゲルがまさかのSK
全員デンマーク人のチームをskが獲るというのは全く予想していなかった。一番好きなプレイヤーが一番好きなチームに入るという奇跡。好きでも何でもないsweetみたいなプレイヤーでもSKに入れば全力で乗ってきた僕には願ったり叶ったりの奇跡的な展開。
これでLodaとミゲルアンゲルの再合流というありえない未来予想図も現実味を帯びてきた。Lodaとミゲルアンゲルは酷い喧嘩別れをした、ってわけじゃないしdotaシーンにおいてはLodaと言えばSK、SKと言えばLoda。このメンバーで世界と戦うのは相当厳しいので、どうしてもLodaが欲しい。ミゲルアンゲルと合流の可能性が現実的に残っている在野のビッグネームって、Lodaを除けばインアクティブかlolの人しか居ない。しばらくはこのままとなると、プレイヤー性能的にソビエトの背中が遠い。あまりにも遠い。
2011年11月9日水曜日
本日の成果はただ一つ、合理性を手に入れた事。
ネットサーフィンをして、シーンを観ていなかった頃のDOTA allstarsのリプレイを一通り見て、あくびをして目を掻いて水を飲んで、インターネットをしていなかった頃のウェブサイトを一気読みして、ブログを幾つか書くも投稿ボタンに辿り着けず、気紛れで達人レミンドのリプレイを見たらWarCraft3をやりたくなって、battle.netでマッチングの遅さに時代の流れを感じて、youtubeでブレイブルーやスト4の動画を見て、時間を超えて一通り失敗を重ねていたら眠たさで脳味噌がもわんもわんしてきたので、僕の大切な「明日から頑張ろう」が合理性を手に入れたのである。今日もまた、偉大な一日であった。
2011年11月6日日曜日
ブログ魔王と僕
魔王だ。この人は魔王だ。魔王以外のなにものでもない、この人こそがブログ魔王だと思うブロガーが1人居る。その人のブログのブログパワーの凄さたるやそれはおそろしいものがあり、どうにかしてその力を盗めやしないかと企んだり考えたりしては溜息をつく。
魔王のブログパワーがどこから来ているのか。
それはリアルだ。ブログ魔王はリア充なのだ。それも、そこらそんじょのリア充ではない。超のつく超絶のリア充である。仕事もプライベートも反吐が出る程充実している。全てが完全に上手く行っているというわけではないが、それなりに上手く行っており、その充実度たるや並大抵の事ではない。おそろしいばかりのリア充である。
一方の僕はというと、リアルというものが存在しない。リア無である。リアルなど無い。仕事も無い。プライベートも無い。それどころか今年の記憶すら無い。何も無い。一切が無い。全てが無いにもかかわらず、全てが上手く行っていない。マイナス×マイナスでプラスになるかというとそんなこともなくて、日に日にやつれて行くばかりである。
そのような自分がリア充のブログを読みたいだなどと思うわけがない。そして読むわけがない。にも関わらず、僕はその人のブログをずっと読んでいる。読み続けている。魔王が喜んでいるのを見ると、我が事のように嬉しい。魔王はそんな僕の無邪気さを見透かしたかのように定期的に喜んではしゃぐ。何がそんなに嬉しいのか、よく理解できない事も多々あるが、月に2回は喜びはしゃぐ。魔王は天真爛漫である。とにかく幸せそうである。それを読むのが楽しくて楽しくてたまらない。おそろしいブログである。心から祝福したくなる。いっぽうで魔王が困ったり苦しんでいたりすると、なんとかして魔王の力になれないだろうかと思ったりする。魔王は仕事もプライベートも充実しまくった僕とは文字通り済む世界が違うリア充なのだから、僕ごときが力になれるわけがない。しかし、なれるはずがなくても、「この人の為になにか出来ないだろうか」と思ってしまうのが魔王の魔王たる所以である。恐ろしい人である。おそろしいブログである。
なにしろ、僕は他人の幸せというものが嫌いだ。
自分以外の人間が幸せそうに生きているのを見ると腹が立つ。特にインターネットで、ブログで幸せそうにしている人を見ると、即死しないように丁寧に包丁で滅多刺しにして殺害するしかないという感情に迫られる。僕はインターネットで、ブログで、苦しみを覚え、悲しみを知り、憔悴しきったにも関わらず、その同じインターネットで幸せそうにしているブログなどを読みたいなどとは思わない。決して思わない。
そんなリア充のブログを読もうものなら、いや読まずたりとも僅かでも目にしてしまおうものなら、心が苦しくなるだけである。嫉妬とか苦悩とか沈痛さとかが次から次へと押し寄せて泥沼に陥るだけである。憎しみに心を掻き乱されるだけである。しかし、である。魔王のブログではそうはならない。魔王のブログは恐ろしいことに、僕が最も忌み嫌うタイプのブログであるはずなのに、明かなリア充のブログなのに、読んでいても悪い感情が一切生じない。それは悪魔的なブログなのだ。本当に恐ろしいブログである。
その恐ろしさはどこから生じているのか。
おそらくだけれど、その第一は真面目さである。ブログ魔王は真面目である。とにかく真面目である。遊びも仕事も全力投球である。それどころかブログまでも全力である。いわゆる「リア充」というのは「うまいことやりおる人」につけられるタグである。「なんかうまいこと行ってる人」というのが一般的なリア充像である。仕事をうまあいことこなして充実する。プライベートもうまあいことやって充実する、なんかうまいこと行って人生がおいしい、それが世間一般で言うよくあるタイプのリア充である。しかしブログ魔王という人は、そういったリア充では無い。仕事もプライベートも、なんか微妙に「うまいことやれていない」のである。全てが「うまくいってない」のである。ブログでも事ある毎にプンスカぷんすかしておって、なんだか上手く行っていないのである。その点だけを見れば、「リアルなんかグダグダと駄目で鬱憤を抱えてブログで愚痴をこぼし続ける人」といった雰囲気を漂わせているのである。いや、雰囲気などではなく、事実魔王はそういう人なのである。しかし、である。
しかし、違うのである。
全然グダグダしない。全然駄目にならない。もの凄く充実している。魔王はリア充である。超の付く超絶のリア充である。なぜリア充であるかというと、魔王はその駄目さや"うまくいかなさ"を凌駕するだけの真面目さを持っているからである。努力をしているからである。ようするに、ブログ魔王は努力が凄いのだ。明らかに上手くいかないであろう事を、努力と真面目さで無理から無理から強引にねじ伏せているのである。ねじ伏せ続けているのである。
それは無理からである。
無理からであるからして上手くはいかない。1つねじ伏せる度に2つ、3つと上手くいかない事が増えて行く。魔王は泥沼である。上手くいかない事を、自らの手でさらに混乱させてどんどん上手くいかなくしている。敗北に敗北を重ねている。いつ戦意を喪失してもおかしくない。しかし魔王は諦めない。諦めるという概念が無い。魔王は努力しかしないのである。化け物である。魔王は化け物である。いや、化け物ではない。あれこそがブログ魔王の具現化した姿であり、正しくブログ魔王である。上手くいかない事が2つに増えたらこれ幸いと、2倍の努力をするのである。3つに増えたらこれ幸いと、3倍の努力をするのである。
たとえばブログを取って見ても、開設以来安定して年に370度はブログを更新し続けている。環境に起因する例外的な休暇こそ少しはあったものの、基本的には365日、全日更新である。そればかりかブログ以外の事も同じようなペースで全てをねじ伏せながら猛進し続けているのである。年に370日の勢いで努力し続けているのである。仕事でも、プライベートでも、リアルでも、ブログでも、陸でも海でも空の上でもどこに居ても、何事であっても、同じようにのっぺりと常軌を逸した努力を、真面目さを、発揮し続けているのである。おそろしい人である。究極のリア充である。
対して、僕の方はというと、ブログ魔王よりも先にブログを開設し、一日に20回も更新するというチートな行為を行ってきたにも関わらず、更新回数だけを見てもブログ魔王の遙か後塵を拝している。魔王とは違いリア無であり、仕事もプライベートも全く存在せず、全てのリソースをブログに注ぎ込む事が出来る環境に有るのに、それなのに、ただブログという一局面だけを見ても僕は魔王に負けているのだ。リア無であるばかりではなく、僕はブロ無でもあるのである。全ての面で劣っているのである。
もしも僕が兎であれば、魔王は亀である。
実際には僕は亀であり、魔王は人である。
「今日は昨日具合悪かったせいで睡眠足りてないしなー」とか「このネタはもっと気力体力充実している時に書くわー」とか「このフレーズはいつか大きなエントリーを書く時の為にとっておくわー」とか「今日は秋なのに暑いから気分がのらんわー」などと言って池から首だし岩に登って甲羅を日干しし、まどろみながら「ま、明日から頑張ればいいか」などと悠長にあくびをしてる間にも、ブログ魔王は理解不能な信念の元で狂信的に全力で疾走を続けているのである。僕は亀ですらなく、魔王は人ですらない。魔王は努力の塊である。いや、塊などではない。塊というのは一定の大きさがあるから塊なのであり、ブログ魔王の努力は宇宙と宇宙の外側とを全て埋め尽くした寒天のようなものであり、努力という概念を超えた真面目さであり直向きさなのである。
即ち、魔王は努力の人なのだ。
そして、僕は努力の人ではない。
僕のブログと魔王のブログを決定的に隔てているものが存在するとすれば、それは真面目さである。ただ1つ努力である。ブログ魔王のブログパワーは生に対する直向きさから生じているのである。然り、である。そうなのだ。僕は不真面目に生きており、努力も足りていないのである。致命的なまでに努力が不足しているのだ。情熱はある。夢もある。野心もある。ブログ魔王に負けないだけの思いはある。未来への希望もある。心は既に死んだかもしれない。けれどもその代役を引き受ける恩怨がある。怨念もあり、信念もある。いざこれブログを書かんとする勇気もある。徒労へと猛進する勇敢さもある。しかし、努力が足りていないのである。ただ1つ魔王のように一秒も怠ること無く前向きに物事を積み重ねるという事をしていないのである。
もしも君が「ブログ魔王は仕事もプライベートも充実して衣食住満ち足りているからこそ、それだけの努力が出来るんだよ」などと言い訳をし、いちゃもんを付けようと僅かでも思ったならば、もうその時点で志として姿勢としてブログ魔王には100億年の時を経ても太刀打ち出来ぬは明かである。努力が足りていないのである。必要なのはただひたすらに、努力を続ける事なのである。
魔王のブログパワーがどこから来ているのか。
それはリアルだ。ブログ魔王はリア充なのだ。それも、そこらそんじょのリア充ではない。超のつく超絶のリア充である。仕事もプライベートも反吐が出る程充実している。全てが完全に上手く行っているというわけではないが、それなりに上手く行っており、その充実度たるや並大抵の事ではない。おそろしいばかりのリア充である。
一方の僕はというと、リアルというものが存在しない。リア無である。リアルなど無い。仕事も無い。プライベートも無い。それどころか今年の記憶すら無い。何も無い。一切が無い。全てが無いにもかかわらず、全てが上手く行っていない。マイナス×マイナスでプラスになるかというとそんなこともなくて、日に日にやつれて行くばかりである。
そのような自分がリア充のブログを読みたいだなどと思うわけがない。そして読むわけがない。にも関わらず、僕はその人のブログをずっと読んでいる。読み続けている。魔王が喜んでいるのを見ると、我が事のように嬉しい。魔王はそんな僕の無邪気さを見透かしたかのように定期的に喜んではしゃぐ。何がそんなに嬉しいのか、よく理解できない事も多々あるが、月に2回は喜びはしゃぐ。魔王は天真爛漫である。とにかく幸せそうである。それを読むのが楽しくて楽しくてたまらない。おそろしいブログである。心から祝福したくなる。いっぽうで魔王が困ったり苦しんでいたりすると、なんとかして魔王の力になれないだろうかと思ったりする。魔王は仕事もプライベートも充実しまくった僕とは文字通り済む世界が違うリア充なのだから、僕ごときが力になれるわけがない。しかし、なれるはずがなくても、「この人の為になにか出来ないだろうか」と思ってしまうのが魔王の魔王たる所以である。恐ろしい人である。おそろしいブログである。
なにしろ、僕は他人の幸せというものが嫌いだ。
自分以外の人間が幸せそうに生きているのを見ると腹が立つ。特にインターネットで、ブログで幸せそうにしている人を見ると、即死しないように丁寧に包丁で滅多刺しにして殺害するしかないという感情に迫られる。僕はインターネットで、ブログで、苦しみを覚え、悲しみを知り、憔悴しきったにも関わらず、その同じインターネットで幸せそうにしているブログなどを読みたいなどとは思わない。決して思わない。
そんなリア充のブログを読もうものなら、いや読まずたりとも僅かでも目にしてしまおうものなら、心が苦しくなるだけである。嫉妬とか苦悩とか沈痛さとかが次から次へと押し寄せて泥沼に陥るだけである。憎しみに心を掻き乱されるだけである。しかし、である。魔王のブログではそうはならない。魔王のブログは恐ろしいことに、僕が最も忌み嫌うタイプのブログであるはずなのに、明かなリア充のブログなのに、読んでいても悪い感情が一切生じない。それは悪魔的なブログなのだ。本当に恐ろしいブログである。
その恐ろしさはどこから生じているのか。
おそらくだけれど、その第一は真面目さである。ブログ魔王は真面目である。とにかく真面目である。遊びも仕事も全力投球である。それどころかブログまでも全力である。いわゆる「リア充」というのは「うまいことやりおる人」につけられるタグである。「なんかうまいこと行ってる人」というのが一般的なリア充像である。仕事をうまあいことこなして充実する。プライベートもうまあいことやって充実する、なんかうまいこと行って人生がおいしい、それが世間一般で言うよくあるタイプのリア充である。しかしブログ魔王という人は、そういったリア充では無い。仕事もプライベートも、なんか微妙に「うまいことやれていない」のである。全てが「うまくいってない」のである。ブログでも事ある毎にプンスカぷんすかしておって、なんだか上手く行っていないのである。その点だけを見れば、「リアルなんかグダグダと駄目で鬱憤を抱えてブログで愚痴をこぼし続ける人」といった雰囲気を漂わせているのである。いや、雰囲気などではなく、事実魔王はそういう人なのである。しかし、である。
しかし、違うのである。
全然グダグダしない。全然駄目にならない。もの凄く充実している。魔王はリア充である。超の付く超絶のリア充である。なぜリア充であるかというと、魔王はその駄目さや"うまくいかなさ"を凌駕するだけの真面目さを持っているからである。努力をしているからである。ようするに、ブログ魔王は努力が凄いのだ。明らかに上手くいかないであろう事を、努力と真面目さで無理から無理から強引にねじ伏せているのである。ねじ伏せ続けているのである。
それは無理からである。
無理からであるからして上手くはいかない。1つねじ伏せる度に2つ、3つと上手くいかない事が増えて行く。魔王は泥沼である。上手くいかない事を、自らの手でさらに混乱させてどんどん上手くいかなくしている。敗北に敗北を重ねている。いつ戦意を喪失してもおかしくない。しかし魔王は諦めない。諦めるという概念が無い。魔王は努力しかしないのである。化け物である。魔王は化け物である。いや、化け物ではない。あれこそがブログ魔王の具現化した姿であり、正しくブログ魔王である。上手くいかない事が2つに増えたらこれ幸いと、2倍の努力をするのである。3つに増えたらこれ幸いと、3倍の努力をするのである。
たとえばブログを取って見ても、開設以来安定して年に370度はブログを更新し続けている。環境に起因する例外的な休暇こそ少しはあったものの、基本的には365日、全日更新である。そればかりかブログ以外の事も同じようなペースで全てをねじ伏せながら猛進し続けているのである。年に370日の勢いで努力し続けているのである。仕事でも、プライベートでも、リアルでも、ブログでも、陸でも海でも空の上でもどこに居ても、何事であっても、同じようにのっぺりと常軌を逸した努力を、真面目さを、発揮し続けているのである。おそろしい人である。究極のリア充である。
対して、僕の方はというと、ブログ魔王よりも先にブログを開設し、一日に20回も更新するというチートな行為を行ってきたにも関わらず、更新回数だけを見てもブログ魔王の遙か後塵を拝している。魔王とは違いリア無であり、仕事もプライベートも全く存在せず、全てのリソースをブログに注ぎ込む事が出来る環境に有るのに、それなのに、ただブログという一局面だけを見ても僕は魔王に負けているのだ。リア無であるばかりではなく、僕はブロ無でもあるのである。全ての面で劣っているのである。
もしも僕が兎であれば、魔王は亀である。
実際には僕は亀であり、魔王は人である。
「今日は昨日具合悪かったせいで睡眠足りてないしなー」とか「このネタはもっと気力体力充実している時に書くわー」とか「このフレーズはいつか大きなエントリーを書く時の為にとっておくわー」とか「今日は秋なのに暑いから気分がのらんわー」などと言って池から首だし岩に登って甲羅を日干しし、まどろみながら「ま、明日から頑張ればいいか」などと悠長にあくびをしてる間にも、ブログ魔王は理解不能な信念の元で狂信的に全力で疾走を続けているのである。僕は亀ですらなく、魔王は人ですらない。魔王は努力の塊である。いや、塊などではない。塊というのは一定の大きさがあるから塊なのであり、ブログ魔王の努力は宇宙と宇宙の外側とを全て埋め尽くした寒天のようなものであり、努力という概念を超えた真面目さであり直向きさなのである。
即ち、魔王は努力の人なのだ。
そして、僕は努力の人ではない。
僕のブログと魔王のブログを決定的に隔てているものが存在するとすれば、それは真面目さである。ただ1つ努力である。ブログ魔王のブログパワーは生に対する直向きさから生じているのである。然り、である。そうなのだ。僕は不真面目に生きており、努力も足りていないのである。致命的なまでに努力が不足しているのだ。情熱はある。夢もある。野心もある。ブログ魔王に負けないだけの思いはある。未来への希望もある。心は既に死んだかもしれない。けれどもその代役を引き受ける恩怨がある。怨念もあり、信念もある。いざこれブログを書かんとする勇気もある。徒労へと猛進する勇敢さもある。しかし、努力が足りていないのである。ただ1つ魔王のように一秒も怠ること無く前向きに物事を積み重ねるという事をしていないのである。
もしも君が「ブログ魔王は仕事もプライベートも充実して衣食住満ち足りているからこそ、それだけの努力が出来るんだよ」などと言い訳をし、いちゃもんを付けようと僅かでも思ったならば、もうその時点で志として姿勢としてブログ魔王には100億年の時を経ても太刀打ち出来ぬは明かである。努力が足りていないのである。必要なのはただひたすらに、努力を続ける事なのである。
2011年11月5日土曜日
こんな晴れやかな朝は無い。
目が覚めるなり肥溜めの中に突き落とされて百年杉の丸太のマドラーで乱暴に撹乱される糞と肉を呆れて眺めるあたま痛。剣竜の背のように尽きだした背骨の節々の1つ1つを里谷多英のようになぞりながら駆け下りていく気怠さの糸で何重にも巻かれ正体不明に膨れあがった痛みと言うには柔らかすぎる居心地の悪さ、辛さ、苦しさ。剣山に盛られ乗せられ突き刺さる左の脇腹に耐えかねてへの字に曲がる上半身。右心房と心室を置き去りにして1人身勝手に筋肉痛になる左心房。頭皮の裏側に流し込まれて煮えたぎる四川風麻婆豆腐風の隔壁の高さに微笑みながら流れない涙を流そうとする自らへの侮蔑と孤独感。もう終わりだ、おしまいだ、この人生に救いはない。諦めよう、全部諦めよう。小さな夢も、些細な野心も、尽きぬ憎しみも、果てることのない罪の意識も全部全部、もうどうでもいい。諦めよう。なんでなん、なんでなん。なんで寝て起きたばかりなのにこんなに悪いの。寝れば体力は回復するものという常識を打ち破る人生。もう諦めよう。こんなふうでは仕方がないから全てのことを諦めよう。そう思ったのが昨日の朝。
具合が悪いと寝るに寝れない。もちろんの事座ってもいられない。PCの電源を入れて、ファンの音を聞いて、ウインドウズが立ち上がって、ログインパスワードを撃ち込んで、思い直して電源ボタンをもう一度押してシャットダウンして、椅子から滑り落ちて、椅子に登れば少しはよくなるとの妄想に取り憑かれ、希望を胸に、椅子の上へと這い上がる。そういう時間をずっと過して、痛みと苦しみに耐え続けて、耐えることにも耐えかねて、痛みで精神がひん曲がっていくのを冷静に眺めながらゲームのウェブサイトを見て現実逃避したりして、全てを投げ出して諦めて8時間、9時間と過した果てにやっとこさ、本当の本当にやっとの事で少しずつ快方に向かう理不尽。横になってゆっくり休んで悪化するのに、痛みと苦しみに息も絶え絶え悶えながら滑り落ちたり這い上がったりを繰り返しているだけで具合が良くなる我が身の理不尽。そんな理不尽にも心折られず、これだけ元気になれば明日一日はきっと素晴らしい日になる、と意味不明な安堵感の中で眠ろうとする健気な私。
しかし、である。
痛みがなくなれば嬉しい。
嬉しいと、幸せな気分になる。幸せな気分になってしまう。思わず笑みがこぼれる。あくびとくしゃみが同時に出そうで、それを同時に堪えているような表情のまま固定してにやけ続ける多幸感。幸せなどという事態とは無縁の日常を過し続ける我が心には劇薬、毒薬、刺激物。突如として目の前に現れた巨大な幸福の反り返りながらそそり立つ壁の迫り来る迫力たるや3D。幸せ耐性を持たない笹の小舟の僕の心を上下の区別がつかなくなるまで弄ぶ喜びの大波、幸せの小波、季節外れの台風の海。先ほどまでは四川風だった頭皮と頭骨の間にまで流れ込んでくる幸福感。そして全ての痛みが取り除かれた事による浮遊感。極上の人生。あまりの喜びに思わず深呼吸するバラ色の溜息。
そうなると困るのが、現実と感情の乖離である。
一日中痛みと向き合う続けて全ての物事を次から次へと思い浮かべては諦め続けた精神と肉体の疲労と、そこから解放された事により生まれた感情の凄まじい隆起は決して混ざらぬ水と油。幸せによる興奮は一秒また一秒と増し続け幸福に次ぐ幸福の絶頂を登頂して離陸し上空を越えて成層圏にまで達するのに、精神の憔悴と肉体の疲労はもはや限界を超えて完全にノックダウン。ならば倒れるようにして眠ればいいと思うのは浅い考え素人の思い上がりで、PCの電源を落とし吾妻鏡よりも勇敢に椅子の上から駆け下り横臥すれば、次の瞬間にはマロリーよりも勇ましくPCの電源を突き押しながら駆け上がる自分のおかしさに思わず声を出して笑ってしまう心の底から愉快で天真爛漫な我が身への尽しがたい情けなさと、その上を行く村雨の霧立ちのぼる歓喜の渦。
尽きぬ喜びに押し流されて、痛みと苦しみの中で一日かけて諦めた有象無象の出来事を片っ端から順番に一つずつ撤回していく砂の城。僕はまだ諦めてはいない。なに一つ諦めてはいない。望むもの全てを手に入れるつもりだし、望む願いの全てを叶えるつもりだ。いや手に入れずとも、叶えずとも、全ては自ずからこの身の方へと集まるだろうと確信を抱く根拠は不明。多幸感と憔悴との間で善悪の区別もつかぬまま、思考の1つも働かぬまま、ただの幸せに流されて自堕落に心を立て直し、盲目的に健全さを取り戻していくが、諦めた全ての事を撤回し、投げ捨てた全ての物事を拾い集めてもなお、愛と勇気は収らず、希望また希望、光り輝く未来と明日と今日と昨日。
そんな底なしの明るさを尻目に、爪先や指先の血管は芥子蓮根のように煮凍り根詰まり、節々はジュラシックパークの恐竜の鳴き声のような音で軋み、目の下の隈と前頭葉が歩調を合わせ進軍する赤軍のように西へ西へとせり出して視界を覆ってゆく。再び具合が悪くなる兆候だ。しかし、である。すこぶる健康である。疲労困憊し精神が衰弱している事と、多幸感と高揚感の中で最高の気分にある事、そして体中のあちこち朽ち果てつつある事を除けば、すこぶる健康である。そうした完全無欠の健康さの中で20時間を浮かれて過し、自分の中の複数の要素が啀み合う中で意識を失わないままで眠りについた。
そうして軽機関銃を持った何者らかに暴かれて、板張りの廊下と雑木林と階段を逃げ続けやがて追い詰められて、その状況を打破するために「魔法の言葉はラスケルン、魔法の言葉はラスケルン」と繰り返し唱えながら壁を背に見えない何かとただ言葉を唱える事だけで戦っていると目が覚めた。ほんの僅かしか眠れなかったが、そんな僅かな時間の中に諦めも幸せも魔法の言葉も無くなって全ての熱は冷め消えて、健やかな人生だけが手元に残った。こんな晴れやかな朝はない。
具合が悪いと寝るに寝れない。もちろんの事座ってもいられない。PCの電源を入れて、ファンの音を聞いて、ウインドウズが立ち上がって、ログインパスワードを撃ち込んで、思い直して電源ボタンをもう一度押してシャットダウンして、椅子から滑り落ちて、椅子に登れば少しはよくなるとの妄想に取り憑かれ、希望を胸に、椅子の上へと這い上がる。そういう時間をずっと過して、痛みと苦しみに耐え続けて、耐えることにも耐えかねて、痛みで精神がひん曲がっていくのを冷静に眺めながらゲームのウェブサイトを見て現実逃避したりして、全てを投げ出して諦めて8時間、9時間と過した果てにやっとこさ、本当の本当にやっとの事で少しずつ快方に向かう理不尽。横になってゆっくり休んで悪化するのに、痛みと苦しみに息も絶え絶え悶えながら滑り落ちたり這い上がったりを繰り返しているだけで具合が良くなる我が身の理不尽。そんな理不尽にも心折られず、これだけ元気になれば明日一日はきっと素晴らしい日になる、と意味不明な安堵感の中で眠ろうとする健気な私。
しかし、である。
痛みがなくなれば嬉しい。
嬉しいと、幸せな気分になる。幸せな気分になってしまう。思わず笑みがこぼれる。あくびとくしゃみが同時に出そうで、それを同時に堪えているような表情のまま固定してにやけ続ける多幸感。幸せなどという事態とは無縁の日常を過し続ける我が心には劇薬、毒薬、刺激物。突如として目の前に現れた巨大な幸福の反り返りながらそそり立つ壁の迫り来る迫力たるや3D。幸せ耐性を持たない笹の小舟の僕の心を上下の区別がつかなくなるまで弄ぶ喜びの大波、幸せの小波、季節外れの台風の海。先ほどまでは四川風だった頭皮と頭骨の間にまで流れ込んでくる幸福感。そして全ての痛みが取り除かれた事による浮遊感。極上の人生。あまりの喜びに思わず深呼吸するバラ色の溜息。
そうなると困るのが、現実と感情の乖離である。
一日中痛みと向き合う続けて全ての物事を次から次へと思い浮かべては諦め続けた精神と肉体の疲労と、そこから解放された事により生まれた感情の凄まじい隆起は決して混ざらぬ水と油。幸せによる興奮は一秒また一秒と増し続け幸福に次ぐ幸福の絶頂を登頂して離陸し上空を越えて成層圏にまで達するのに、精神の憔悴と肉体の疲労はもはや限界を超えて完全にノックダウン。ならば倒れるようにして眠ればいいと思うのは浅い考え素人の思い上がりで、PCの電源を落とし吾妻鏡よりも勇敢に椅子の上から駆け下り横臥すれば、次の瞬間にはマロリーよりも勇ましくPCの電源を突き押しながら駆け上がる自分のおかしさに思わず声を出して笑ってしまう心の底から愉快で天真爛漫な我が身への尽しがたい情けなさと、その上を行く村雨の霧立ちのぼる歓喜の渦。
尽きぬ喜びに押し流されて、痛みと苦しみの中で一日かけて諦めた有象無象の出来事を片っ端から順番に一つずつ撤回していく砂の城。僕はまだ諦めてはいない。なに一つ諦めてはいない。望むもの全てを手に入れるつもりだし、望む願いの全てを叶えるつもりだ。いや手に入れずとも、叶えずとも、全ては自ずからこの身の方へと集まるだろうと確信を抱く根拠は不明。多幸感と憔悴との間で善悪の区別もつかぬまま、思考の1つも働かぬまま、ただの幸せに流されて自堕落に心を立て直し、盲目的に健全さを取り戻していくが、諦めた全ての事を撤回し、投げ捨てた全ての物事を拾い集めてもなお、愛と勇気は収らず、希望また希望、光り輝く未来と明日と今日と昨日。
そんな底なしの明るさを尻目に、爪先や指先の血管は芥子蓮根のように煮凍り根詰まり、節々はジュラシックパークの恐竜の鳴き声のような音で軋み、目の下の隈と前頭葉が歩調を合わせ進軍する赤軍のように西へ西へとせり出して視界を覆ってゆく。再び具合が悪くなる兆候だ。しかし、である。すこぶる健康である。疲労困憊し精神が衰弱している事と、多幸感と高揚感の中で最高の気分にある事、そして体中のあちこち朽ち果てつつある事を除けば、すこぶる健康である。そうした完全無欠の健康さの中で20時間を浮かれて過し、自分の中の複数の要素が啀み合う中で意識を失わないままで眠りについた。
そうして軽機関銃を持った何者らかに暴かれて、板張りの廊下と雑木林と階段を逃げ続けやがて追い詰められて、その状況を打破するために「魔法の言葉はラスケルン、魔法の言葉はラスケルン」と繰り返し唱えながら壁を背に見えない何かとただ言葉を唱える事だけで戦っていると目が覚めた。ほんの僅かしか眠れなかったが、そんな僅かな時間の中に諦めも幸せも魔法の言葉も無くなって全ての熱は冷め消えて、健やかな人生だけが手元に残った。こんな晴れやかな朝はない。
2011年11月4日金曜日
熊雑記。
Zhouの熊がもの凄い仕上がっていて、EHomeもzsmjも10分代で蹴散らしてるのを見て「これ誰が止めるんだろう」と思ってたら、yyf(morpやqop等の一部ヒーローではzsmjを上回る実績を持つ中国を代表するcarryプレイヤー)が先制pickで熊を奪い取って勝ってた。Zhouのspecが20分でvang、radその他諸々揃えたのに直後に為す術無くrax割られて敗着する熊の恐るべきsiege力。完璧なプレイヤーが28分にCS200で完全装備のspecを作って、3-1-1で相手のNWを完全に潰しきって、スコアでも上回っていたのにさくっとrax割られて負けていく凄さ。バーニングも同じくZhouを止めていたけれど、これも熊を奪って勝つパターン。AAやSDのおかげでBAN枠が明らかに足らなくなった今、再び熊(と蜘蛛)の時代が到来してしまっている。熊の流行は一度や二度の騒ぎではないけれど、またしても熊の「一見強そうに見えるけど移動速度が断トツの最下位なので大丈夫です」という適当な調整の限界が露呈。本体裸の熊が熊にハイパーストーンを買っているのを見ると自分が「熊にハイパーストーンは強すぎる」と考えるプレイヤーだったので強い共感を覚える。今は熊が意味不明なまでに弱体化されてしまったせいで僕くらいのレベルではハイパーストーンという選択肢は消えてしまったんだけれど、あのクラスのプレイヤーならまだ強い。と言っても買っているのはZhouだけ。ちょっとZhouが好きになった。
ゲームを複数巻構成で販売したらどうなるか。
・セガが死にます。
・難産の末に2章は出ます。
・3章は探しても探しても見つかりません。
・「3章売ってたから買っときました」と親切な後輩が3章をくれます。
・封を開けてみるとシャイニングフォースIIIのシナリオ3でした。
・鈴木祐が行方不明になります。
・名越稔洋がヤクザで台頭します。
・私達は悲しみます。
・悲しみに暮れます。
・セガは死にました。
・難産の末に2章は出ます。
・3章は探しても探しても見つかりません。
・「3章売ってたから買っときました」と親切な後輩が3章をくれます。
・封を開けてみるとシャイニングフォースIIIのシナリオ3でした。
・鈴木祐が行方不明になります。
・名越稔洋がヤクザで台頭します。
・私達は悲しみます。
・悲しみに暮れます。
・セガは死にました。
2011年11月2日水曜日
昨日から頑張る。
昨日から頑張るとか、今日から頑張るとか、明日から頑張る、といった事をたびたび思い立つ。それらは一度として、成し遂げられるでもなく、挫折するでもなく、全て有耶無耶に消え去って行く。自分にとって頑張るという事がどういう事なのか、そして頑張りそこねるという事がどういう事なのかも理解出来ないままで、適当に薄れて行く。あるいは先延ばしされていく。
今の僕にとって頑張るとは何か。
それは別に「今の僕」に限った事ではなく、DOTA allstarsを止めねばならぬとブログを書き始めたその日から変わっていない。僕にとって頑張るとは止める事なのだ。たとえば、一昨日思った「明日から頑張る」そして昨日思った「今日から頑張る」という事は、具合が悪くなってもそれをブログに書かない、というだけの決意だったように思える。そんなくだらない決心に、「頑張る」などという大それた言葉を使う自分に情けなさを覚える。ブログは健全で健康的であるべきだと、心のどこかで信じ続けており、そこから乖離する自らのブログに我慢がならなかったのだろう。そして頑張ろうと思ったのだろう。
そして頑張ろうと決めたその日に体調を崩す我が身に辟易する。
それ自体は気節の変わり目の冷え込みから来るただの風邪だから、「お大事に」とすら思わない位に無関心なのだけれど、首から上も首から下も痛くなってしんどくなって、寝たり座ったりしてただただ時間を無駄に過していると、頭の左側で右側で、細胞やら感情やら心やらあるいは文章といった多種多様なものがプチプチと音を立ててはじけ飛んでいくのが聞こえる。痛みや苦しみに耐えかねて、毎秒毎秒はじけ飛び、死んでいくのが聞こえる。はじめは左胸で鳴っていた心臓の音が、右の痛みと左の痛みに共鳴して、一拍で3度聞こえるようになる。血も、涙も、骨も、肉も、3倍の速度で死んでいく。心が死ぬ。夢が死ぬ。目標が死ぬ。未来が死ぬ。大好きな人も死んでしまう。なのに僕だけは生きており、頑張ろう頑張ろうと健気に思う。頑張らねば、頑張らねば
今の僕にとって頑張るとは何か。
それは別に「今の僕」に限った事ではなく、DOTA allstarsを止めねばならぬとブログを書き始めたその日から変わっていない。僕にとって頑張るとは止める事なのだ。たとえば、一昨日思った「明日から頑張る」そして昨日思った「今日から頑張る」という事は、具合が悪くなってもそれをブログに書かない、というだけの決意だったように思える。そんなくだらない決心に、「頑張る」などという大それた言葉を使う自分に情けなさを覚える。ブログは健全で健康的であるべきだと、心のどこかで信じ続けており、そこから乖離する自らのブログに我慢がならなかったのだろう。そして頑張ろうと思ったのだろう。
そして頑張ろうと決めたその日に体調を崩す我が身に辟易する。
それ自体は気節の変わり目の冷え込みから来るただの風邪だから、「お大事に」とすら思わない位に無関心なのだけれど、首から上も首から下も痛くなってしんどくなって、寝たり座ったりしてただただ時間を無駄に過していると、頭の左側で右側で、細胞やら感情やら心やらあるいは文章といった多種多様なものがプチプチと音を立ててはじけ飛んでいくのが聞こえる。痛みや苦しみに耐えかねて、毎秒毎秒はじけ飛び、死んでいくのが聞こえる。はじめは左胸で鳴っていた心臓の音が、右の痛みと左の痛みに共鳴して、一拍で3度聞こえるようになる。血も、涙も、骨も、肉も、3倍の速度で死んでいく。心が死ぬ。夢が死ぬ。目標が死ぬ。未来が死ぬ。大好きな人も死んでしまう。なのに僕だけは生きており、頑張ろう頑張ろうと健気に思う。頑張らねば、頑張らねば
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